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若き日の女優−1

 寅次と遭遇した後から、鹿島は狼に目をつけられた仔兎のような気持ちで、部屋に篭ったまま一夜明けてしまっていた。

 とはいえ、ここは山本議員がいうように、自由な空間だ。食事はおおよその事がない限り自室の部屋の前まで係が運んでくれる。鹿島が最初ここに来た時に立ち会ったあの女性達だ。

 ひとこと「お変わりありませんか」と訊いたくらいで、こちらが「はい」というとそれ以上の検索もない。

 独り身の六畳居間で一日の大半を過ごしていた数日前の自分では、持て余すほど広い部屋の中で鹿島は山本議員好みで配置されたレコードを片っ端から訊き耽っていた。

 それだけで一晩経ってしまったのだ。

 普段よりは夜更かしをしたくせに、早朝には目を覚ましてしまう。何度かベッドの上で寝返りを繰り返しても、今度は時間の経つのが遅いようでイライラしだした。

 時計を見ると8時半を示す針が動いた瞬間だった。

 厚手のカーディガンを羽織って鹿島はのっそり部屋をでた。いつの間にか部屋の外に朝食が置かれていた。それをトレーごと部屋のテーブルに置き直してから、鹿島は頭を掻いた。

 よく眠れず、浅い眠りについていたのだと思っていたが、朝食が運ばれたのも気がつかなかったのだ。まだ暖かい味噌汁に手を添えて、それから思い直したように鹿島はカーディガンの襟を正した。

 庭で仕事を始める準備をしているだろう豊の様子を見ようと、廊下を出てホールに向かう。

「おや」

 山南が背中を丸めてテレビを観ている姿があった。朝のニュースが淡々と流れていた。

「おはようございます」

 鹿島は当たり前のように山南の隣に座ると、朗らかに挨拶をした。

「おはようございます、鹿島さん」

 くしゃりと顔を歪ませて山南は笑うと、ガラス越しの庭にクイッと顎を動かした。

「ほら、若い人がもう仕事に出ているじゃありませんか。負けてしまいました。老人は早起きが得意だというのにね、さっき目が覚めたばかりなの」

 アルミの脚立をガシャガシャと言わせて、豊が右往左往している姿が見える。ははは、と笑って鹿島は頭を掻いた。

「あいつは段取りが悪い奴だな」

「随分、怖いお師匠さんを持ちましたこと」

 肩を竦めて山南が丸まった。

「ところで、いつもこちらでテレビを観ている様ですが、お部屋にはテレビはないですか」

 と言った鹿島に、山南がきょとんとした表情で瞬きした。

「あ、失礼。いやいやお友達かと思いまして」

「お友達?」

「ええ、部屋にテレビがない者同士、という」

「まぁ、おもしろい」

 朗らかな笑い声が朝の空気を震わせた。爽やかな日差しが注ぎ込む庭に目をやりながら、鹿島は落ち着いた動作で席を立つ。その姿を目で追いながら山南は穏やかな口調で言った。

「テレビはここで観るのが好きなんですよ」

 柔らかな頬がキュッっと上がった。その笑顔に鹿島は見覚えがあった。彼女は確かに、大女優の山南菊江の面影をしっかり残している。

 間違いない、彼女はかつての大女優だ。その大女優と、こんな世間話が出来るとは。

 しばらく思考を廻らせた後、鹿島は頭をボリボリ掻いてニヘラと笑って見せた。

「鹿島さんのお部屋にはテレビはないのかしら?」

「ええ、必要ないといえば必要ないと思ったんですけど、やっぱりないとないなりに寂しいものですな」

 荷物を運びに来た時に、ここのホールにテレビがあるのを見て、部屋にはいらないかと鹿島は思った。アナログの箱形ブラウン管に、デジタルチューナーを付けてみていたものだから、こちらに引っ越す際に新しく購入しようとも思っていたのだったが。

「あら、よかったら小さいテレビが部屋に余分にありますの。おひとつ差し上げましょうか。夜中などホールで観れない番組を観たりするのにはもってこいですよ」

 山南がコロコロとよく笑った。

「おや、山南さんは深夜番組など観てらっしゃるんですか」

 鹿島は意外だとばかりに目を大きくした。そんな鹿島の様子に山南はまたおもしろそうに微笑む。

「ええ、深夜放送の方がおもしろいですわよ、今度ご覧になって。ですから、そうねぇ……私のお部屋に取りに来てくださるかしら?これっくらいのなら差し上げますわ」

20インチ程度の箱をジェスチャーして山南はにっこり微笑んだ。

「いやいや、それは面目ないです」

「いいじゃないの、余っているんですから、ねぇお願い」

 大女優に「ねぇお願い」と言われて断れる者がいるだろうか。

 鹿島はどっと汗が流れるのを感じた。

「で、では。実は私も先ほど目が覚めたもので。ちょ、朝食を済ませてから、お伺いしましょうか」

「ああ、そうですね。そうだ、10時頃にいらしてください。お茶を準備しておきます」

 朗らかに笑った山南の目尻に、若い頃の女優の色気が垣間見えた気がして、鹿島は瞬きをしきりにした。

 目の前にいるのは、やはりテレビの前に座っている猫背の老女だ。

 だが、時折見せるなんともいえぬ芳香のような魅力は、彼女の一体どこから漂ってくるのだろう。

 一礼をして鹿島はまた部屋への廊下を戻った。

 そして思う。

(このなんともいえない気持ちは、昨日と同じ光景だな)

 ただひとつ違うのは、後ろに居るのが寅次ではなく山南だというだけで、何とも気持ちの冴えない足取りで部屋に戻った。

  


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