幽明な夜宴
その日の夕方、館に招かれた豊は、怯えた子猫のように鹿島に張り付きながら座敷に入った。
「山南さんはまだ来てないっすねぇ」
豊は周りをきょろきょろ見渡しながら、ロビーで挨拶をした山南と名乗った老婦人の姿を探した。少し猫背気味で小さい身体の彼女なら、すぐに分かる。
壮大な座敷にザラリと並んだお膳。その上に上品な料理が並ぶと、施設−−というシェア邸−−の向こうから廊下を渡って、正装した老人たちがドヤドヤと足音を鳴らしてやって来た。
豊はその群れを眺めながら、人懐っこそうな山南の姿を探した。
「来ているよ」
しらっとした声が横からした。豊の隣に居る白髪の見事な老人が囁いたのだ。紋付羽織を難なく着こなし、やや顔をこちらに向けて豊に囁いた。
「山南さんならほら、そこに」
目はまっすぐ上座を向いている。その目線の先には、上座にどっしりと座ったこの館の当主である直行と、その横に華のように存在する女優・山南菊江が居た。
年齢は七十三歳になっている。巷では体調不良で隠居生活を送っているという話になっているが、そこに居る婦人は、何を隠そう昭和の大女優、山南菊江だった。
「はぁ、山南さんは山南さんでも、おばあちゃんの山南さんスよ」
笑いながら豊は目で山南ばあさんを探す。人の流れが切れた廊下を見詰めた。十数席程並べられたお膳の場所はほとんどが埋まっている。おかしいなと豊は首を傾げた。
「あの婆さんが、アレだ」
視線を揺るがすことなく白髪の老人は呟いた。瞳孔を見開いて豊が驚愕する。
「あのおばあちゃんが!」
「今朝早くからスタッフが来ていたようだったな」
その言葉に鹿島が目を細めて口の角を上げた。
「専属のメイクさんだな」
続けて言う。呆気にとられて豊は開いた口が塞がらなかった。テレビの前に陣取り、猫背でぼんやりしているあの姿からは到底想像できやしない。
「女は怖いものだな」
目を伏せて鹿島が囁いた。
直行に寄り添うように居る女優の朗らかな笑い声があがった。
藍色より濃い着物に、幾分明るい紅葉の葉をあしらった友禅。狂おしい程そこに惹きつけるような光彩を纏った帯。本真珠金箔を織込んだ鼈甲箔の眩さに、勝ると劣らない白い透き通った肌があった。
「菊江さんはいつもお美しい」
直行がその厳つい顔を穏やかに歪めた。
「まぁ」
凛と背中を伸ばし、その仕草に愁いを漂わせながら菊江は直行に酌をしていた。
「三十歳はサバを読めるな」
冗談めかした鹿島の言葉に豊は正直笑えなかった。
「おお、鹿島殿、来ていたか」
こちらに気がついた直行が声高らかに手を招いた。まるで時代劇の代官のような仕草と直行の声に、誰もが当然と静まり返る。人のざわめきが消え、鹿脅しの音が響いた。
「新入りを紹介しよう」
直行がじっとこちらを見据える。
布擦れの音がすると、かしこまった体勢の井上が鹿島の後ろに居た。
「ご挨拶をお願いします」
超著するも鹿島は、どっこらしょと座布団から立ち上がるとゆっくり頭を下げた。
「分けあって短期ですが、これから一年程厄介になります鹿島昭夫と申します。宜しくお願い致します」
緊張気味にぎこちない。そのもの言い方に噴出しそうになった豊が鹿島の隣で口に手をあてて笑いを堪えていた。豊には緊張でぎこちない師匠の姿など、このかた見た事もなかったのだ。
その姿に視線を落とし、鹿島は続ける。
「この者は私の弟子でして」
話を振ってきた事に、笑っている途中で豊は青くなった。まさか自分にまで挨拶が回ってこようとは想像もしていなかったからだ。
「この若い者は庭師だ。これからしばし庭の手入れをしてもらう事になってだな」
続きは直行が割って入った。それからこの庭にいかに自分が惚れこんだかを、自惚れ気味に語るや乾杯と言い切った。
「お前もただ飯を食うわけにもいかんだろ、挨拶くらいせんとなと思っただけだ」
身体を傾けて小声で鹿島は笑った。
「師匠〜俺ほんと、こういうの駄目なんすよ」
「直行殿のお陰で助かったな」
にんまり笑って鹿島は動揺する豊を見て愉しそうにした。
夜宴が中盤まで差し掛かると、十数人程いた老人達の姿も疎らになってきた。トイレに立つ者や、夕涼みする者や。
「直行殿に歓迎会を開いて貰えるとは、一体どんなご機嫌伺いをしたのです」
すぃっと近づいてきた菊江が鹿島に耳打ちした。歳を全く感じさせない驚くほど美麗なまでの仕草。そこから芳香が漂ってくる気配すら感じる。
「いや、いつもの事ではないのですか」
横目で菊江を一瞥して、鹿島は耳の後ろを掻いた。
「あら、お解かりになられたのね」
くすくすと山南は百合の花ように笑った。
「でも直行殿は今回はとても機嫌がよろしくてよ」
「素晴らしい庭ですと言ったまでです」
視線を庭に移す。夕闇に程近い空気が建物を飲み込もうとしていた。樹木の影と陰が融合する藍色の世界。
ポッっと灯篭に明かりがついた。
蒼黒い闇の奥に導くようにポツリポツリ。
「それはそれは」
少し殺した声で菊江は笑って見せた。とても七十三歳とは思えない妖美な微笑みで。
「直行殿がここまで優雅な夜宴を開いたのも、久しぶりな事、実に愉しそうでした」
何重にもなった瞼を瞬かせて女優は口元に笑みを浮かべた。
「久方の宴会を待っていましたの。善いきっかけを有難う。私も少し彩りを感じたかったわ」
「こちらとしては善意を前向きに頂戴します」
目を伏せて鹿島は丁重に対応した。
「今のがあの山南さん? 何か別人みたいっすよね」
ついつい声を掛けそこなったと、豊は引きつったまま鹿島に耳打ちした。
「全くの別人だな」
「いつもああだといいっすのにね」
もったいなさそうに豊は口をすぼめる。豊にしても菊江の美しさには惚れ惚れするものがあったのだろう。
「いつもああだったら、気も詰まるだろうに。久々なのだからよいのだろう」
山菜のつまみを一口ついばむと、山葵の辛さに眉を顰める。
そんな鹿島を横で眺めながら豊は、そうなのか、と小さく相づちを打った。
やがて夜は更け、深夜番組が始まる頃になると座敷はしんと静まりかえった。
鹿島は豊を見送った後、忘れ物がないか一度座敷に足を運んでみた。豊の事だ、昔から何かひとつは忘れ物をする奴だった。何かしら忘れ物をしていたら、翌日電話でこっぴどく叱ってやるのも楽しみだなと、そんな事を考えて座敷に足を踏み入れようとした時だった。
藍色の光の差し込む座敷に、ぽつりと人影がある。
月を望む様に居座る直行に、遠慮がちに寄り添う山南の姿があった。鹿島はソレを見て歩みを止めた。
月を見上げる直行の顔があまりにも穏やかで優しかったのに対し、手酌をする山南菊江の表情は愁いが漂ってどこか悲しげに見えた。
青白い月明かりがそうさせているのかもしれないなと、鹿島は頭を掻いて部屋に戻った。