想い-3
二十年も前の事なのに、寅次には昨日一昨日の出来事のように思い出す。
ヴィクトリアの穏やかな死に顔。
何も思い残すことなどないと言った表情だった。
「君は、私と一緒に日本でバラの庭を作りたかっただろう」
何も思い残すことはないなんて、嘘だ。
「少なくとも私は君とそれを成し遂げたかった」
バラの花の芳香が妻の気配そのものだ。
二十年余りも家族に会うために米国と日本を行き来してきた。寅次にはバラの庭を作る意欲はなかった。全てはヴィクトリアと二人で成し遂げる目標だったからだ。
彼女亡き今、その想いは儚い夢の欠片のように寅次の心の片隅に埋められた。
旧知の仲だった直行の元に足を運んだ頃には、少々認知症が疑われ始めていた。
ある日。
寅次は古いポスターを携えて意気揚々と直行に対面した。
彼は変わらず豪快で愉快な男で、英国の土産を片手にそのポスターを直行と井上の前に広げて見せた。
「おやおや、これは随分古いものですな」
思わず井上が歓声の唸りを上げた。
「うむ、素晴らしいだろう。この女優、名は何というのだ。私はこの通り英国暮らしが長すぎてこの国の事はさっぱりわからん」
「山南菊枝とかいう女優だな」
直行は静かに答える。
「今は女優業を引退しておりますよ」
「そうなのか」
庭の鹿おどしが鳴った。
やや間があって、庭の木々がざわめきだした。雨が降ってきたのだ。
「彼女は--菊枝殿は、今はどこにおられるのかな」
降り出した雨はいよいよ音を大きく立ててきた。それでもはっきりと聞き取れるほど、寅次の声色は芯が通りよく響いた。
井上が小さく身じろぎする。
「それを聞いてどうする」
何か言おうとした井上を遮って、直行が寅次を一瞥する。
「どうしようがこうしようが私の勝手だ」
畳の上に開いたポスターを勢いよく丸めると、寅次は勢いだってよろめいた。井上が慌てて支えようとする。
「おお、すまない」
寅次は眼を瞑り、それからゆっくり瞼を開けた。
「そうだ、そうだ。お前さんたちに聞きたいことがあった」
そう言って先ほど丸めたポスターを丁寧な手つきで畳の上に広げて見せた。
「美しい女性だろう。薔薇の花がこれほど似合う女性はなかなかおらなんだ。この女優の名前をお前さんたちは知っているか」
慈しむように寅次はポスターの女優の頬に指を這わせた。
井上と直行は静かに顔を合わせた。直行は眉をひそめた程度だったが、井上は少し動揺した。
「これは『ヨーロッパの庭にて』という映画のポスターですね」
一つ息を吐いてから井上は話を合わせた。
「五十年は前の映画ですよ、よく見つけましたね」
「うむ、知り合いの映画コレクターの形見分けのうちのものなんだが、彼の形見のうちで一番気に入ってね」
寅次は満足そうに笑った。