想い-2
寅次は夢を見ていた。
ヴァーキン家の一室。豪華絢爛な調度品に囲まれた華やか過ぎる客室。
数ヶ月ぶりに訪れた妻の実家は、二人が住むロンドン郊外の一際閑静な場所にあった。
寅次はまだ若かった。
隣で眠る妻の金色の髪を静かに愛でる。その気配に蒼い目がゆっくり開き、寅次を映した。
「I love you」
母国語より馴染んだ英語が夜の帳に溶け込む。いつも聞く言葉。毎日聞く言葉。
それなのに妻の囁くそのフレーズが寅次の心に沁みわたった。
開けていたバルコニーから夜風が入ってくる。レースのカーテンが波のようにはためいた。
ヴァーキン家の庭は美しいバラの園だ。森を抜けた夜風が庭のバラの芳香を纏って部屋に流れ込んでくる。
ロンドンの二人の家はそれほど狭くはないが、バラが好き好む土ではなかった。ヴィクトリアも僅かにバラを植えたが、この家ほど優雅に咲き誇る事は出来ないでいた。
「いつか、もっと広い庭のある家に住もう」
寅次はそう約束した。
ヴィクトリアの母親がバラを愛しこの庭を作り、ヴィクトリアもまた幼い頃から慣れ親しんだバラを愛した。無論、寅次もバラを愛している。それ以上にバラを愛でる妻、ヴィクトリアを愛していた。
彼女が日本に住みたいと口にしたのは、三人の子供達がそれぞれ自立してからのことだった。長女夫妻がヴィクトリアに代わり、家や庭を守っていく風情を漂わせた頃合いだった。
お互い六十という歳を超え、彼女も夫の生まれた土地を肌で感じたかったのかもしれない。
寅次はすぐさま日本で土地を買う手配をした。
より良い地。より良い景色。より良い環境。
二人でバラの庭を作ろう。大きな大きなバラの園だ。
ヴィクトリア、君の愛するバラの庭を--。
その想いは叶うことはなかった。
妻は穏やかな顔をしていた。つい昨年に寅次と日本に住みたいと言った時より、三年も五年も経ったような老い方を一年足らずでしていた。
彼女の体には病が巣食っていたのだ。
「ごめんなさい」
何度も何度もビクトリアは寅次に謝った。
「ごめんなさい、こんなはずじゃなかったの。日本人の平均寿命はトップレベルなのよね。私が日本人だったらあなたをこんなにも早く悲しませることはなかったのにね」
「それは違う」
寅次は怒鳴った。
「ヴィクトリア、君でなければいけないのだ」
強く手を握る。寅次の手をヴィクトリアも力強く握り返した。
「君でなければ」
彼女は真剣な眼差しの寅次を見つめたまま満面の笑みで最後に言った。
はっきりと、しっかりとした声で。
「ありがとう」
それからしばらくして寅次は日本に渡った。
もう二十年も前の事である。