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白い女-4

 その日の夕方。脚立を積み込む豊の姿を遠くから眺めながら、鹿島は庭を散策していた。陽はおおよそ西に傾き、焼けるような緋色の空が、じわじわと藍色に向かい始めている。そういう時刻になると、蝉の鳴き声も止み、一時の静寂が漂う。

 その時だった。木々の葉すれの音しか聞こえない緑深き庭に、岩が砕けるような音がした。

「わわわわっ」

 次の瞬間、玄関の方から豊が駆けてきた。

「何があったんだ」

 鹿島は音のした方に視線を移す。豊が青ざめた顔のまま木々の向こうに走っていく姿が見えた。たまらず鹿島もその方向に向かった。何か良からぬ予感がする。むしろ悪い予感しかしない。

 苔むした飛び石を、慣れない下駄で足早に渡る。こんな時くらいいつものサンダルを履いておけばよかったと。

 そこでちょうど思い出した。ホールから庭に抜ける入り口に、いつもなら鹿島が履く誰でもどうぞというサンダルの他に、見慣れない下駄があったのだ。いつものサンダルは少しだけ遠くに放置されていて、その下駄は鹿島の足の入れやすい角度でそこにあったものだから、自ずとそれを履いて庭に出てしまったのだ。

 しくじったな、と思いながらも急かす心が体を動かす。

「わわわわわわ」

 両腕を大きく振りかぶった豊の姿が見えた。全身全霊で困惑を表現している。

「何をしてるんですか、寅次殿!」

 鹿島は大声で叫んだ。

 小型の重機が一本の楓の樹木をなぎ倒さんとしていた。キャタピラは地面に潜り込み、緑色の天鵞絨のようだった苔が捲りひしゃげている。むき出しの黒土がえぐり返されて、飛び石がこすれ合って傷だらけになっていた。

 無機質な鉄のバケットが楓の幹にめり込み、白くみずみずしい生皮が見えた。

「ああ、なんということを」

 呻くような声は鹿島の後ろから聞こえた。

 騒ぎを聞いて駆けつけた井上の声だ。

 小型の重機は黒い煤をマフラーから吐き続けると、ぐいりと大きく旋回する。ミシミシともベキベキともつかぬ音が夕方の空気に響く。

「寅次殿ぉ!」

 鹿島は重機にまたがる男の名を叫んだ。

「やめてください! じいさん!」

 豊も必死で両腕を振る。

「じいさんとはなんだ小僧」

 アクセルを緩めた寅次がジロリと豊を睨む。

「すいません! 寅次さん!」

 豊はすかさず謝罪する。

「ふん」

 再度アクセルを吹かす前に、豊は楓の幹にしがみついた。

「お願いします! やめてください!」

「死にたくなければ、どけ。死にたいのか小僧」

「死にたくないです! でもどけません!」

「たわけ」

 重機のエンジン音が大きくなった。

「寅次殿! 気は確かか!」

 垣間、ぬらりと光った禿げ頭より爛々と不気味に輝く寅治の双眸に鹿島はヒヤリとした。庭木どころじゃない、豊の命すらこの男には邪魔にしか映らないのか。

 レバーを動かす寅治の腕の動きが、スローモーションのように鹿島の目に届いた。

(こいつは己の欲求のためなら殺人も厭わないのか)

 とっさに鹿島は駆ける。

 寅治のその手を止めようと。

 豊が助かるかどうかはわからない。だが、寅治を止めなければ。

 逸る気持ちとは裏腹に、目の前の風景はゆっくりだが、確実に動き始めていた。

 バキバキと高い音をたてて、楓の幹は無残にも哀れな生皮をさらけ出して中途半端な形で庭に拉げた。豊は小さな悲鳴を上げながら、尚もその楓の幹にしがみついている。重機のバケットが宙を旋回し、楓の根を掘り起こそうと豊の足元めがけて食い込もうとしていた。

「逃げろ豊!」

 寅治が狙っているのは豊ではない。しかし、紛れもなく寅治の怨念の巻き添えを食らってしまう。

 その時だった。

 薄紅色の靄が鹿島の目前を通り過ぎた。

「!」

 --一切の音が消える。

 豊にかぶさるように靄は揺蕩うと、柔らかく白い霧に姿を替えた。限りなく空気に近い、数多の水滴に姿を変え、その刹那、鹿島はそこにかの女性の姿を見た。

 直行の部屋の前でみた、あの白い美しい女性。

 ひどく寂し気な表情で鹿島と目があう。

「ああ」

 思わず鹿島は声を漏らした。

 次の瞬間、何かが弾けたような衝撃を感じると、一気に音が耳に入ってきた。

 高鳴るエンジン音、木々の葉擦り、軽油独特の排気臭。温い夏の風を切るように、ふいに横切った人物は井上だということが理解できるまでほんの数秒だったろう。

 豊に覆いかぶさるように薄紅色の布が見えた。井上はそこまで小走りで走りよると、その薄紅色の布を優しく起こす。

「菊枝殿」

 呻いたのは寅治だった。

 山南は咄嗟に豊を庇おうとしたのだ。

「なんと無謀な、お怪我はありませんか」

 井上に介助されながら山南は静かに寅次を見上げる。 

 少しだけ乱れた髪を、遠慮がちに耳にかけると山南はふっと目を細めた。怒りとも悲しみともつかぬ笑みだった。

 慌てて鹿島は豊に駆け寄る。息をするのを忘れていたかのように、豊は鹿島に肩を支えられると大きく息を吐いた。

「だいじょうぶか」

「は、はい。だいじょうっぶっす……」

 震える左手を抑えるように手を組み、豊はまた大きく息を吐いた。

「ああ、私は。私はただ、私はただ」

 寅次の声が震える。

「貴女のために……」

 その言葉を聞いて、山南は静かに首を横に振った。

 ふらつくように寅治は重機を降り、自らが暴力でこねくり回した大地に両膝をついた。むっと土と草の匂いが鼻孔に入る。

 騒ぎを聞きつけて集まった他の入居者が、ざわざわと狼狽える中。

 藍色に染まり、闇を待つ空を背負った直行が寅治の前に立った。直行の表情は鹿島からは見えない。ただ、直行の背後に一際明るい金星が輝いていた。


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