白い女-3
「名前を貰うなどという事は昔からよくあったことじゃないか」
午後の休憩時間に持参してた着替えに着替えた豊は、豪奢な部屋のソファで鹿島の言葉に耳を傾けた。
乾いたはんぺんのようないで立ちで庭を行き来していた豊を、昼過ぎ時に鹿島が見つけたのだ。
「なんだ今日は随分覇気のない顔をしているな、一服になったら部屋に来い」
そう声を掛けたのだった。
豊は顔に似合わず律儀な男で、鹿島の部屋が山本議員の誂えた老後の住処と知ったうえで、彼なりの心配りをしたのだろう。上から下まですっきりとした洗い上がりの替えに着替えていた。
「歌舞伎とか落語の世界でいう〔襲名〕というやつっすか」
個人の部屋に置いてあるには持て余しそうなサイズの冷蔵庫から冷えた飲み物を取り出して、鹿島は豊にそれを差し出した。
「ここの連中の正体など底知れん者ばかりだ。当主や井上さんなど、どんな人物か何をやってきたのか知る由もない」
「山南さんも?」
「菊江さんは女優だったが、それも表の顔なのかもしれんしな」
豊の正面に腰を下ろして鹿島は目の前の青年の顔をじっと見た。
「気になるか、豊」
一時黙ったまま豊は目線を落とした。
「顧客のプライベートには踏み入らない、ですよね」
他人のテリトリー内で承っている仕事である。人の敷地内に立ち入れば、自ずと色々なものが目や耳に入ってくる。
ここだけではない、過去にもいろいろあった。
年中閉めっぱなしのカーテンから灯りが漏れている部屋がある家。見知らぬ男女が出入りを繰り返す家。やたらに通販の宅配業者が訪れる家。警察が包囲している家。優等生が不良だった家。
そこの家族の誰かが知らない事まで、知ってしまった事だって少なくはない。
だから、と豊は目を伏せた。
「気にしないようにします」
そして渡された缶ジュースを勢いよく飲みほした。
「やれやれ」
鹿島は窓の外を眺めてため息をついた。
顧客のプライベートに踏み入るな、と豊には言ったものの、鹿島には気になる存在がないわけではなかった。
直行に調合した井上の投薬で、たまたま側を通った鹿島にも影響が出たあの日に見た--白い女。
あれが幻だったのだとしたら、井上が調合しているものは幻覚作用の強いものだった事は明確だ。
あの女性は一体誰なのだ。
なぜ自分は、見た事もない井上と直行の若い姿を見たのだろう。考えても答えなど見つからないとわかっているのだ。そしてあの二人は答えてもくれないだろう。
ただ、あの白い女は、美しかった。
ゾッとするほどに。
ゾッとするのは、美しいからか。それとも--。
鹿島は二度目の深いため息をついた自分に気がついて微笑した。
思えばため息をつくなど、人生でもなかなかなかった事なのだ。決して楽な人生ではなかったが、ため息をつくタイミングというのに出会えなかったせいもある。
人とはこういう時にため息が出るものなのだな、などと他人事に思う自分もいる事に気がついた。