白い女-2
「アレが見えるわけはない」
直行はそう言い放った。全く違わない意見なのは井上も同じである。鹿島はついこの間、入館したばかりの全くの他人なのだ。血縁でも顔見知りでもない。井上がどことなく彼を贔屓しているのは、鹿島という人間性が気に入ったからだ。
しかし、それも縁というものだろうか。
「確かに妙なことではあります」
井上はつぶやくように付け足した。
「鹿島殿に雪乃さんの姿が見えたというのは腑に落ちません。そこに私と当主の姿もあったと仰っていました」
「うむ」
直行は唸った。
井上の調薬で燻した煙が、たまたまそこを通り掛かった鹿島に影響がでてしまった。その程度ならまだわかる。しかし何故彼が、若き日の井上と直行の姿を見たのだろう。そして雪乃の姿も。
雪乃は美しい娘だった。鹿島が見たように、白い陶器のような肌にほっそりとした姿の女性だ。
直行はそんな妹をこよなく慈しんでいた。それは井上も同じだった。
しかし、彼女はもう居ない。
鹿島が見た雪乃は、少なくとも五十年以上も昔の姿なのだ。
「うむ」
直行はまた唸った。
「珍妙な事もあるものだな」
「左様ですね」
「お前は、どう思う」
「これもまた縁かと--」
言葉を選ぶように、ゆっくりと井上は囁いた。その言葉にジロリと目線を井上に向けた直行ではあったが、井上のその穏やかな表情を見て肩の力をあどけなく抜いた。
「腑に落ちぬな」
「はい」
「まぁよい。面倒な事が起きなければよいだけだ」
「ご心配には及ばないと思っております」
この歳にもなると、と井上は呟いてから静かに庭を見た。
「おかしなものですね。どれほど不可解なものを見ても大して驚かないのです。ただ、不思議だとは思いますけどもね」
「お前は昔から寛容深いだけだ。おまけに歳をとって未曾有の底なし寛容になったか」
ちらりと目線を井上にくれて、素早く直行は立ち上がった。
「寅治は色恋痴呆でお前は寛容痴呆か、たまったもんじゃないな」
言い捨てて座敷を出ていく。
(なんでも痴呆と関連つけてしまわれる。当主も関連付け痴呆ではございませんか)
と井上は心の中でほほ笑んだ。
その頃。寛容深いとも老いとも程遠い若き庭師は、刈込に少々遅くなったサツキの葉に勢いよく鋏を入れていた。どこか腑に落ちないもやもやの鬱憤を晴らすかのように、豪快な手さばきで玉を作っていく。朝露で湿ったサツキの葉が、じんめりと豊の作業服を湿らせていった。それでも構わずに豊は鋏を入れ続けた。普段なら「湿ったい」などとすぐさまヤッケを着に戻るのだが、今日の彼はそういう事すら気が回らないようだ。案の定、数本のサツキを刈り終わり、自分の手足を見ると、思った以上にぐっしょり湿っていた。
豊はそこでようやく手を止めた。刃先についた葉を宙で振り落とし、やや疲れた様にため息をつく。
豊にはどうしても気になってしかたがないものがあった。
いや、気になるほどではないのだ。気にするほどでもない。それなのに、どうしても脳裏を過る--直行の名前が刻まれた石。