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寅次という男−4

〔コイ〕と言われて思いつくものは池の鯉くらいだ。鹿島は自分の顔がにやけていくのを堪え切れなかった。

「笑えるか」

 卑しく歪んだ鹿島の顔を見やり、直行はにんまり笑った。

「寅次さんは本当に気持ちがお若い。今の私に恋などできる気概も気力もありません」

 そう言って少し冷めた茶を飲み干した。

「しかし、恋は心ですよ」

 二人の間に挟まるように位置についた井上が静かに囁いた。

「心ですか」

 やや間があって鹿脅しが響いた。一時の静寂に、庭の奥で豊が作業する音が聞こえてくる。

「直行殿は、いかがですか」

 鹿島は目の前で茶を啜る直行に聞いた。話を自分から流すのは得意だ。

「ワシにはわからんから、お前に聞いたのだろう」

 即答で返えってくる。もう少し迷ってくれれば有難かったのだが、と思いながら鹿島は頭を掻いた。 

「直行殿は菊江さんをどう……」

 入居当日の夜の宴を思い出す。美しく着飾った山南は、明らかに直行に対して何らかの感情を持っている気配がした。女の気持ちをどうこう読み解くほど鹿島には自信があったわけではない。だが、山南の憂いだ表情は、鹿島の思う「ソレ」に紛う事ないものだった。

 そこまで言って鹿島は顎に手を当てた。この先を聞くには野暮ったいかもしれない。視線を泳がして井上を見ると、彼は整然と背筋を伸ばしていつものように座っていた。

「お前はどうなんだ」

「いや、私にはもう、どうもこうも彼女は女優ですからねぇ」

 圧されて鹿島はたじろいだ。

「なら、ワシも同じ意見だ」

 ガハハと威勢よく笑う。

「井上、今回の怪我人は八人。みな軽傷ではあるがワシはその見舞いにでも行ってこよう」

「ならばすぐに手配を」

 すかさず井上が立とうとすると、ズイと前に出て直行はそれを止めた。

「構わん、職員が玄関で待っている。ひと風呂浴びてから行こうと思っているんだ。お前は鹿島殿としばし茶飲みでもしていろ」

 かしこまりましたと井上は頭を垂れた。釣られて鹿島も会釈する。

「しかし今回はどうしてか皆、意気立っておったわ」

 ガハハとまた大きな笑い声がした。

「お見舞いですか……」

 呆けて鹿島がきょとんとしていると、正座を崩しながら井上は笑った。

「喧嘩といえども、皆さん自己の意思で参戦しておられますからね、当主側に付いた方々は当主に対して誠実なお気持ちで戦に望んだのです」

 見舞わずにはいられないでしょうと井上は腰を落ち着けた。

「当主は、敢えて言うなら寅次殿の方を心配しておられます」

 襖を閉めながら内緒話だといわんばかりの小声で井上が囁いた。驚いて鹿島は顔を上げる。普段と変わらない井上の凛然とした顔があった。

「鹿島さん、内緒ですよ」

「内緒というと?」

「当主が心配なさっているのは、寅次さんが認知症になっている事なのです」

「認知症?」

 一瞬誰の話をしていたのか思考回路が迷子になりそうだった。あの暴君、寅次があろうことか認知症とは。それから先ほど直行がぼやいていた「恋に現を抜かした痴呆は手が焼ける」の意味を悟った。

 なるほど、合点がいく。

「認知症を煩うと、若い頃の記憶が優先的に記憶を支配するといいますな」

 鹿島はしみじみと言った。井上もこくりと静かに頷く。

「どうして、それを私に?」

「どうしてでしょう、茶飲み友達だからですかね」

 口元に、一時の笑みを浮かべて応えた男を見て、鹿島はまたも言葉を失った。まるで少年の悪巧みのように、やんちゃな笑みだったのだ。


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