コーヒーとチョコクッキー(6)
「市川、ちょっといい?」
授業の後、私は伊川先生に呼び止められた。なんとなく声を掛けられる予感がしていて、気付かれないように教室を出ようとしていたのに。
「なんですか?」
「今日の放課後、時間ある?」
先生はそう言った。やんわりと、でもNOは認めないと言われている気がした。
「生徒をナンパするなんていい度胸ですね」
だからせめてそう言ってみたら、先生はちょっと驚いたようだった。そしてすぐに面白いものを見るみたいににやりと笑った。
「市川は美人だからな」
う、と私は簡単に余裕を崩されて、なにも言い返せない。その隙に「じゃあ放課後、数学科の準備室においで」と言って去ってしまった。くやしくて、行ってやるものかと思った。でも、いくらそう思ってみたところで結局私は行かざるを得ないのだ。それもくやしかった。
いつも一緒に帰っている佳奈と優子さんには、委員の仕事があるからと嘘をついた。本当のことを説明するのが面倒だったし、説明したとしても、それで私の知られないでもいい一面を二人に知られるのが嫌だった。
「失礼します」
資料室とは名ばかりの、先生方の休憩室には、伊川先生しかいなかった。扉に背を向けて座っていた先生は、私の方を向いて満足そうに頷いた。
「ちゃんと来たね」
「なんで呼ばれたか分かってますから」
先生は全く悪くないのだが、出した声は思った以上に刺々したものになった。しまったと思ったけど、先生は気にした様子もなく、座りなさい、と近くにあった椅子を指した。
「さて、今さら確認することもないと思うけど。一応君の言い分を聞こうか」
どこか面白がるような先生に、内心舌打ちをする。そして、数日前のうかつな自分を恨んだ。
数日前、私は街でナンパされた男とデートしていた。なんて軽い女みたい――みたい、じゃなくてそうなのだろうけど――だけど、最近の私は総悟と会わなくなってから、海に浮かぶくらげのように波に流されるままふらふらとしていた。声を掛けられればついて行ったし、体を求められれば応えた。総悟のことを愛していたわけではないけれど、自分にとってそれなりに大きな存在だったのだと、今さら気付くなんて最悪。まあ、今の状況とそのことはあまり関係ないから置いておく。とにかく、その男とラブホテルから出てきたところを、運悪く伊川先生に見つかってしまったというわけだ。
「別に言い訳するつもりはないです。男とホテルから出てきた、それは事実ですから。あ、でも援助交際とかじゃないですよ。お金とかもらってないですから」
そこは大事なことだった。お金目的にそういうことをする女子高生は少なくないと知っている。でも自分と彼女たちを同列に見られるのはなんだか嫌だった。申し訳ないけど。
「そう、でも彼氏ってわけじゃないんでしょ」
「なんでそう思うんですか」
「なんとなく」
そう言って先生は笑った。何を考えているのかわからなくて、私は早くここから去りたかった。
「彼氏でもない男とホテル行っちゃうような子だったのか、市川は」
大げさに残念がるような口調がなんとなくむかついた。わざと揺さぶって、こちらの反応を楽しんでいるのだ、この教師は。
「先生には関係ないでしょ」
「関係なくはないよ、一応、副担持ってるクラスの子だしね。それに、事情をしっかり聴いておかないと、上に報告できないからね」
その言葉に、ぎくりとして先生の顔を見る。初めて動揺した私に、先生はしてやったりという顔をした。でも今はそんなことも気にならない。
「先生お願い、誰にも言わないで」
「そういう訳にはいかないでしょう」
この学校という小さなコミュニティは、驚くほど速く噂がまわる。私が男とラブホに行ったなんてことで先生から呼び出されることがあれば、きっとその日のトップニュースになる。その他大勢の生徒にどう思われても構わないけれど、大切な友人二人に知られたくはない。ここでこの話を終わらせなければ。
「なんでもする。先生のいうことなんでも聞くから」
そう言ってすがった。その言葉を、先生は考え込むように黙っていた。それから、いいことを思いついたというように、にやりと笑った。私はなんとなく、嫌な予感がして、自分の言ったことをいまさら後悔した。
「なんでもするんだ?」
「あ、その」
「いいよ、その条件をのんであげよう」
先生は、立ち上がって私を見下ろしながら言った。
「俺の、彼女になるならね」