【最終話】メモリー
その夜、斗馬は裕美子の部屋に泊まった。小さなベッドは彼の部屋のモノと似たようなサイズなので苦にはならなかった。
妙に蒸し暑い夜だったが、クーラーをわざと強めにかけて、二人で身体を絡めるように寄せ合って眠った。
何時の間にか外には雨音が響いていた。
翌朝テレビの音で目が覚めた斗馬だったが、まどろみの中でそれに視線を移した時、一瞬で眠気が吹き飛んだ。
昨夜電車に飛び込んで自殺したサラリーマンの事件が報道されていたのだ。それは、昨晩裕美子が足止めされた人身事故だ。
そして画面に映し出された顔写真は、この前デジカメの液晶に浮き出ていた男……自分の家族を惨殺した男だった。
ワイドショーでは当然のように、少し前に死んだはずの男が再び自殺? そんな感じの奇怪さを醸し出す報道となっている。
「あら、やっと起きたのね」
裕美子は朝食にベーコンエッグを焼いてテーブルに置くと、カップにコーヒーを注ぐ。
「どうしたの? そんなに真剣にワイドショーなんて見て」
裕美子は少し不安げにテレビを覗き込む。克に関する事件がまた報道されていたと思ったのだろう。
「いや、なんでもないよ。ちょうど昨日の、ほら、お前が足止めくらった人身事故の報道をやってたんだ」
斗馬はそう言って、コーヒーカップを手にした。あの男の事は裕美子には言わなかった。
ただでさえ克の事と睦美の事で混乱しているのに、これ以上に彼女を不安にさせたくは無い。
「さっき睦美の実家に電話したら、今日の夕方からお通夜だって言うから、あたし行って来るね」
睦美は大学に電車一本で通える場所にひとり暮らしをしていたが、実家は川崎にある。
「気をつけて行って来いよ」
斗馬はそう言ってから「いや、俺も行こう」
それを聞いて、裕美子も何となくホッとした笑顔を見せた。
しかし、再びニュースが二人を震撼させる。
あの柴犬を連れた中年の女性の写真がテレビに映し出されていた。
彼女は旦那と二人暮らしで、子供はいなかったらしい。そして二人共、何か獣によって噛み殺されていたというのだ。
近くの通りでは、彼女の家で飼われていたと思われる犬が、車に撥ねられて死んでいるのが発見されたようだ。
警察はその飼い犬の歯型と、被害者の傷跡を照合しているらしい。
裕美子は両手で口を塞いだままテレビ画面を見つめて、メドゥーサの呪いにでも掛かったかのように硬直している。
斗馬には判っていた。
警察が照合などしなくても、飼い主を殺したのはあの犬だという事が。
クーラーをかけているというのに、額と背中は汗で濡れていた。
通夜の帰り、名残惜しむ裕美子はなかなか睦美の実家を後にしようとしなかった。
一緒に行った女の子数人は、焼香を終えると早々に帰っていったが、斗馬と裕美子の二人が睦美の実家を出たのは夕刻の6時を過ぎていた。
新宿駅に着いた頃には、陽も沈みきる所で、空は一面が紺青に変わっていた。会社帰りのサラリーマンや学生で駅は当然のようにまだ混んでいる。
その中で、斗馬も裕美子も、二人を見続ける視線に気付く事は無かった。
「明日の葬儀は、斗馬くんどうする?」
駅の階段を下りながら裕美子が言った。
「どうするかな。やっぱり行った方がいいんだろうな」
斗馬は急ぎ足のサラリーマンに道を開けた。
先月から今月と立て続けに知り合いの葬儀に出るのは、なんとも逡巡する思いだったが、それは裕美子も同じだろう。
構内は、アナウンスと発車メロディーが幾重にも折り重なって喧騒に満ちていた。
山手線のホームに二人が辿り着いた時、侵入してくる電車が直線の先にちょうど姿を現した。
すぐ近くを誰かが無造作に通り過ぎてゆく。それは当たり前の光景だった。この雑踏の中で気にする者などいない。
しかし、次に裕美子の傍を通った男は、そこで足取りを緩めた。裕美子本人は何も気に留めなかったが、斗馬はふとその男を視界の隅に捕らえた。
黒いTシャツにメジャーリーグのキャップを目深に被っている男だった。が、斗馬はそれが誰なのか直ぐに気付いて、視界の中央で確認しようと顔を向けようとした。
その時、男は裕美子の両肩を強引に抱かかえ、突然の異変に驚いた彼女も短い悲鳴を上げる。
「克、やめろ!」
斗馬は叫びながら裕美子を掴もうと腕を伸ばした。克が何をしようとしているのかが判ったからだ。
……もっと早く気付くべきだった。どうして気付けなかった。
蘇えった彼らは、どんな理由かは知らないが潜在意識の中に強く残る身近だった人を殺し、そして……
そして、最後は自分も死ぬのだ。
何故だ……何故殺す。何故自殺する……?
いや違う。殺すのでも、自殺するわけもない。彼らは愛する者たちを向こうの世界へ導いているのだ。そして、自分も去ってゆく。
本来いるべき場所へ。
ただ、それだけだ……
……こいつらの魂は、おそらく本人そのモノだ。その理性や良心、道徳が現世とは異なるだけなのだ。
一瞬彼女の腕に触れたが、斗馬は裕美子を掴む事は出来なかった。
裕美子の身体が克と一緒に宙に浮いた。高速度カメラで捉えたようなその瞬間、それはあまりにも幻想的なほど不可思議な光景だった。
地面の、いやホームのない場所に彼女の身体はあった。
後ろで巻き上げてまとめた彼女の黒髪が解け、吹き上げる風に長く舞っている。
微かに見えた克の顔は満面の笑みを浮かべていた。
これから愛するものたちと一緒に過ごせる、幸せの笑みに見えた。
その一瞬は途方も無く長いものに思えた。しかしあっという間の出来事だ。
裕美子を抱えた克は、構内に侵入してきた先頭車両めがけて線路に飛び込んだのだ。
反射的に斗馬は目を背けた。インパクトの瞬間を見る事はできない。
ドシャッ、という今まで聞いた事もない硬質で鈍い音と共に、肌の温もりに近い、生ぬるい飛沫が飛び散った。
ガタガタと音を立てて、斗馬の目の前を先頭車両が通過し、減速しているとは言え、急停車のままなら無い電車は、ワンテンポ遅れた状態で激しい金属音を響かせながら何十メートルも走ってからようやく制止した。
心臓は鼓動を速め、呼吸が苦しい。
沸き起こる雑踏、複数の悲鳴が轟いていたが、彼の耳には何も聞こえなかった。
震える手で頬を拭うと、斗馬の手にはべっとりと紅い不透明な涙が付着していた。
裕美子の身体から飛び散った血痕が、涙と一緒に彼の頬を濡らしていたのだ。
* * *
テレビの天気予報で梅雨明け宣言が報じられていた。外は目が眩むほどの晴天に覆われて、陽の照り付けるアスファルトは白く光っていた。
斗馬は裕美子の葬儀には参列しなかった。
彼にはその必要が無かったのだ。
デジカメのメモリーカードをパソコンに差し込むと、裕美子のありったけの画像をそれに移動させる。
カードをデジカメに戻し、彼は静かに電源を入れた。
メモリーから彼女を呼び戻す為に。
「裕美子、早く戻って来てくれ……裕美子……」
斗馬は毎日デジカメの液晶画面に話しかけた。
直ぐに小さなシミが出来始め、5日目には朧気な裕美子の顔がデジカメの液晶画面で笑みを浮かべる。
そして今朝、ついに彼女はそこから消え去ったのだ。
もうすぐ彼女は戻って来る。
裏の旧家の庭からセミの声が響き渡り、眩い夏は本番を迎えていた。
宇津見斗馬の部屋のチャイムが、小気味よく、軽やかに鳴り響いた……
― 了 ―
最後まで読んでいただき有難う御座いました。身近にある道具を使った作品と言う関連テーマに基いて『めるトモ』に続き執筆いたしました。
冒頭の書き出し部分からラストへ繋がる手法もあえて同じ方法を取ってみました。お楽しみいただけたなら幸いですが…