月の巫女
朝早く出発しようというエドを何とか説得して、クリスと学校へ行った。校長先生と教頭先生に挨拶をしてから教室へ行く。クラスメートに別れの挨拶をするためだが、カナの場合は、六学年分回らなければならなかった。
六年生のクラスでは、ショウインがそっぽを向いていた。昨晩、カナが町を去ると聞いて以来不機嫌なのだ。五年生のクラスでは、あやとり用の毛糸をある女子に渡した。その子は、なぜか、あやとりを面白がってくれていた。四年生のある男子には自作の竹トンボを進呈した。滞空時間の長さをその少年と競い合ったのだ。もちろん、カナの方が長かった。そうやって、各学年で挨拶をしていった。
最後のクラス、カナが最初に世話になった一年生のクラスには誰もいなかった。黒板には遠足の班長達の名が書かれてあった。
整然と並ぶ小さな机。一つだけ大きめの机が教室後方にポツンとおかれてある。その違和感は、カナを象徴しているようだった。
ここ二カ月ほどは、授業でこのクラスに来ることはなかったが、毎週火曜日の放課後には顔を出していた。カナの覚えている童話、昔話を語り聞かせたのだ。花さかじいさんも人魚姫も杜子春もこの世界では知られていない。
絵を描いてくれと言われ、ひよこにご飯を食べさせるキツネを描いた。好評だったので、カナはラフなスケッチで紙芝居を作った。他にも何作も紙芝居を作った。途中からは、ショウインが色付けを手伝ってくれた。紙芝居の一番人気はシンデレラ。やっぱり、女子の目の輝きが違う。二人でクラスの女子全員分の塗り絵用下絵を描かされたのは忘れられない思い出だ。
パタパタと木の廊下を走る音が聞こえ、ショウインが現れた。
「これ! 受け取ってください」
そう言って、ショウインは筒状になっていた二枚の絵のうちの一枚を差し出す。カナが一年生達に紙芝居を見せている絵だ。丁度、シンデレラがガラスの靴に足を入れたシーンを見せているところだった。絵の中のカナは目を細め、柔らかな空気をまとっている。カナの話に胸をときめかせた女の子達が思い出される。
「ありがとう。ところで、その一枚は?」
カナはショウインの手に残ったもう一枚について尋ねた。
「これは、僕のためのものです」
「見せてくれないかしら?」
「い、いやです」
「どうして?」
「どうしても、こうしても……」
頬を赤く染めてショウインがうろたえた。カナはからかってみたくなった。腰に手をあて、胸を張ってバストを強調して、こう言った。
「あっ、わかった。私の裸を描いたのでしょう?」
「ち、違います!」
ショウインがしぶしぶ見せた絵には、ほんの少し口を開け、遠くを見つめるカナの横顔が描かれていた。髪には艶があり、頬がほんのり赤く、目が大きい。実物よりもかわいく描かれているようだ。
ただ、絵の中の少女は、その生気のある肌には不釣り合いなほど無表情な顔を見せている。嬉しさも悲しさもない。しいて言えば、未来に漠たる不安を感じている。そんな顔をしていた。じっとその少女を見ていると、なんだかとても哀しくて、抱きしめたくなるから不思議だ。
中学生だったカナは、クラスメートから『何を考えているかわからない』と言われたことがある。同じことを両親に言われたこともあった。時々、何かに熱中し過ぎで、周りが見えなくなることがあるのは、自覚していた。そして、熱中する対象が、およそ普通の生徒が考えもしないことだったりするから、『何を考えているかわからない』と言われるのだと思っていた。例えば、鉛筆の木目に、はまったことがあったし、給食のみそ汁の具の切り方を毎日スケッチしていたこともあった。自分は変人かもしれないと思いつつ、自分の興味をないがしろにはできなかった。
そんな風に熱中するカナを、周りが理解しないだけなのだと思っていた。でも、この絵の中の少女も何を考えているかわからない。いや、もしかしたら、何も考えていないかもしれない。拠り所の無さ、根無し草のような哀しみが満ちている。いつも、こんな顔をしていたのだろうか。それで、『何を考えているかわからない』と言われたのだろうか。
カナは、首を傾げて言った。
「ねぇ、ショウイン。私って、こんな顔をしているの?」
「時々ね」
「そう、そうなの…… でも、どうしてこの絵を、この表情を描いたの?」
「さあ、どうしてだったっけ」
ショウインはそう言ったきり、黙ってしまった。言いたくないのだ。カナには、ショウインの決意も思いもわからなかった。
カナは、絵を筒にして、空の袋に入れた。
「それじゃ、私は行くわよ。さようなら、ショウイン」
「違う! さよならじゃない…… また今度、だ」
ショウインの目がほんの少しうるんでいる。カナはにっこりほほ笑んだ。
「そうね。また今度ね…… あっ! 忘れ物、絵のお礼」
カナがショウインの額に軽いキスをし、真っ赤になったショウインは目を伏せた。
少年が目をあげると、教室には誰もいなかった。窓の隙間から吹き込んだそよ風が、栗色の髪をもてあそび、寂寥感を残していった。少年は、その寂寥感を胸に刻んだ。
* * *
カナ、エド、ロージの三人は複雑な行程を辿った。
フエの町から川沿いの街道を南下する。一時間ほど歩いた時だった。エドは、不意に弓を持ち、矢をつがえると、後ろを振り返って射った。矢の刺さった黒い鳥が落ちた。そのまま川に落ち、下流へ流されていった。あっという間の出来事である。
「ちっ、取り逃がしたか」
エドが舌打ちをした。ロージが
「追いかけて回収しようか?」
と言った。
「いや、いい。川の流れが速いから、難しいでしょう」
「そうだな。監視がなくなっただけでも、良しとするか」
『監視』という言葉が理解できなかったカナはロージを見上げ、それに気付いたロージが説明する。
「あのカラスは俺達を監視していたんだ。宿屋を出てからずっと、俺達の後をつけていた」
「カラスが監視ですか?」
カナの問にエドが答える。
「そうです。僕らが最初に出会った翌日の事を覚えていますか?」
「もちろん」
カナがあの羞恥プレイを忘れるわけがない。エドは説明を続ける。
「気球に乗っていた時、黒服の男に襲われたでしょう。あの時、男は巨大なカラスに乗っていた。あいつは、鳥、鳥の中でもカラスを自在に操れるのだと思う。だから、たった今、射落としたカラスもあいつが操っていたに違いない」
「動物を自在に操れるということは、その男は精霊使い、術師なの?」
「術師? そうかもしれない。だけど、あそこまで、自在に操れる術師は、この国にはいなかった。厄介な相手です。しかも、空を行くことができる……」
エドは、眉をひそめて黙り込んだ。不安そうに見つめるカナに気がついた彼は
「というわけで、少々回り道をしてビックママの所へ行く予定です」
と言って、にこりと笑った。
これだけの美形が、突然、特上の笑顔を見せれば、誰でもドキリとしてしまう。カナはなんだかとても申し訳ない気がしてきた。
「でも、どうしてそこまでして、私を狙うのでしょうか? どうしてエドとロージは、そんな私を警護してくれるの?」
エドが即答する。
「カナにはそれだけの価値がある。そしてカナを守るのが僕の仕事です」
びしりと言い放つその口調に、カナはびくりとした。そんな空気をロージが和らげてくれる。
「エドは、本当は、カナが気になってしょうがないんだ」
「どうして?」
カナは、再び、ロージを見上げた。
「どうしてって言われても…… 可愛いからさ」
「かわいい?」
「ああ、カナぐらいの年頃の乙女は皆、可愛いものさ」
そう言って、ロージは目を細めた。カナはほめられた気がしなかった。年をほめられても全く嬉しくないのは若者の証拠である。
カナ達は、街道を少しフエの方へ戻って、十字路を海側へ折れた。十字路を通り過ぎてからカラスを射ったのは、監視をごまかすためである。彼らは、漁村を目指した。
エドは、隣を歩くカナを意識しながら考えていた。エドがカナに惹かれるのは、可愛いからではない。カナの潜在能力のせいだと思っていた。
エドはいつも飢えていた。渇いていた。
彼は、幼いころから容姿と才能に恵まれていた。学校でも予備騎士団でも飛び抜けていた。そして、恵まれていることに気がつくだけの聡明さも持っていた。だから、いつも飢えていた。強さに飢えていた。利口さに飢えていた。
不断の努力によってその飢えが満たされると、別の飢えを探していた。マゾと言ってもいいかもしれない。貴族であるヒルシュ家を飛び出し、予備騎士団をやめ、冒険者をやめ、今は地図師という肩書で、王の隠密まがいの仕事をしていた。
貴族としての領地経営も政治的な駆け引きも、エドにはつまらなかった。予備騎士団での訓練は、一時的にエドを満足させたが、そのうちにエドよりも強い者がいなくなってしまった。単独の冒険者として種々の依頼をこなしたり、他の冒険者とパーティーを組んで魔獣を退治した。毎日が新鮮な冒険者の生活は魅力的であったし、魔獣を退治した時の達成感は何物にも代えがたかった。が、そんな冒険者というスタイル自体に、エドは飽きてしまったのだ。
エドの才能を持ってすれば、騎士だって、冒険者だって、一流としてやっていけるだろうと、予測できてしまったのだ。
今も地図師に満足しているわけでない。確かに王国周辺の妖変地域に頻繁に出入りできるのは面白かったが、もっともっと、奥深くに足を踏み入れたいと思っていた。そして、いつかは地図師をやめるつもりだった。やめて、生粋の冒険者、依頼を受けずに自ら新天地を探す探検家になりたいと考えていた。
* * *
カナ達は漁船に乗ってフエの港に戻った。そして、沿岸貿易船に乗り換えた。つまり、最初に街道を歩いて南下したのは、追手を撒くための偽装だった。
貿易船は、まる二日かけて一千スタジオン、約二百キロほど南下した。カナ達は、船員ではなく客であるから、船の上では何もすることが無い。
エドは、よほど揺れがひどくない限り、書を読みメモを書いている。何の書かとカナが問うと、百年ほど前に西へ西へと旅をした月の巫女の旅行記だとエドが答えた。
この世界は球であると信じられている。その巫女は、ひたすら西へ西へと行くことで、出発した町に戻ってくることを実証しようとした。だが、彼女が王国に再び戻ってくることはなかった。
カナは不思議に思って聞いた。
「王国に戻ってこなかったのは、旅の途中で亡くなったからですか?」
「その巫女の最期がどうであったのか、いつ、どこで亡くなったのかは誰も知らない。いや、もしかしたらまだ生きているかもしれない。生きていれば百三十歳ぐらいですね」
カナの疑問はまだ解けない。
「王国にも戻らず、最期もわからないのに、旅行記は残っているの?」
「丁度、十年分、十章の記録が残っている。その巫女は、十章を十通の手紙にして、一種の駅伝郵便のような方法で、アカデミーに送ったのです」
「えきでん郵便?」
「彼女はゆっくりゆっくり旅をしたのですが、一年ごとに一つの家族に、手紙の転送を依頼したのです。依頼された家族は、手紙を受け取ると、あらかじめ指定された家、より東に位置する家に手紙を持っていくのです。丁度、駅伝で、馬を替えながら、伝令が旅をするようなものです」
「でも、遠くの家まで手紙を届けるのは大変だったんじゃないですか? よほど大金の報酬を渡していたのでしょうか?」
カナの疑問には答えず、エドはカナを見つめ、口を開いた。
「カナ、巫女の仕事はなんだと思います?」
「病気や怪我を治療することです」
「そう。人間にとって、一番の不幸は死です。巫女の治療によって、死を免れたとしたら、その人は巫女に感謝しても感謝しきれない。手紙の輸送を引き受けてくれる人もいるのじゃないでしょうか。」
カナには巫女の偉大さが少しわかってきた。
「巫女の治療ってそんなにすごいの? どんな病気でも、どんな怪我でも治せるの?」
「一流と呼ばれる巫女はすごいですよ。大抵の怪我や病は治療できます。けれど例外もある。君が一昨日会ったリンダ・ゼンは例外の一つです。悪性精霊素に侵されているらしいのですが、彼女自身が治せなかったから、この国で治療できる者はいないでしょう」
カナには不思議だった。ナイフで刺され、出血多量で死ぬはずだったカナは、誰かに治療され、こうして生きている。きっと優秀な巫女が治療してくれたのだと思う。そんな巫女でも治せない病があることが不思議だった。
エドはカナの気持ちを察したのか、話題を戻した。
「ルチエン王国の東西には海が広がり、その海には沢山の島があります。旅行記によれば、西の海を越えた先には、大陸があるそうです」
「そうなんですか、学校で教えてもらった地図には載っていませんでしたけれど」
「まだまだ、わからないことがある。この世界、この地球を知り、それを地図にすること…… 面白そうだと思いませんか?」
カナが育った世界では、地球は隅から隅まで知られていたし。インターネットにつなげば、世界中のどこでも航空写真が見られるし、道路からの風景を見られる所も多い。世界は裸同然だったし、何の不思議も感じなかった。外国への興味が無いわけではなかったし、秘境と呼ばれる所へ行きたいと思っていた。
でも、今のカナにとって、この国の地形も気候も、言葉も人も社会も知らないことばかりだ。この世界そのものが秘境だった。秘境を旅する記者になるというカナの夢が、かなったのだ。そう気がついたものの、喜びよりも不安の方が大きかった。そして、不安こそ、秘境の条件であると気づくには、カナは若すぎた。
エドは月の巫女の由来を語った。
「各地を巡りながら治療をすることを巡礼といいます。そうやって、巫女のいない村を回って病人を治療するのですが、その起源は、はるか昔の伝説にさかのぼります。伝説によれば、妖変は月の病が原因で、その月の病を治癒できるのはたった一人の巫女だそうです」
「月香姫のことね」
「おや、よく知っていますね」
「リンダさんに聞いたの」
「その月香姫はこの世界のどこかに眠っていると言われている。巫女が巡礼するのは、眠っている月香姫を見つけて、起こして、月を治癒してもらうためです」
「それじゃ、その旅行記を書いた巫女も月香姫を見つけるために旅をしていたの?」
「さあ、それはわかりません。でも、旅する巫女、巡礼する巫女に敬意を表して、彼女たちを『月の巫女』と呼びます。ビックママは、あなたに月の巫女になって、月香姫を見つけてほしいと思っているみたいですよ」
ビックママがカナに執心する本当の狙いは別にあるとエドは疑っていたが、それを口にできるほどの情報があるわけではなかった。
カナは前から疑問に思っていたことをエドに聞いてみることにした。
「リンダさんの話を聞いた時も疑問だったのだけれど、結局、伝説は本当なの? 月香姫は本当に居るの? 月には神様が住んでいるの?」
「もっともな質問ですね。でも、その質問に答えられる人はいない。現存する最古の史料ですら、伝説も、月香姫も、月の神もはるか昔の伝承としている。月を神聖なもの、精霊の源と信じている人は沢山いるが、月の神を信じる人は、今はほとんどない。今の王立アカデミーは、月、精霊をもっと実用的なものとして捉え、役立てようと考えているんですよ」
カナにとって、エドの説明はすっきりしないものだった。
貿易船は、ニューマラッカという煤けた街に着いた。繊維と金属の街である。白い煙を吐く工場、色のついた水を吐く工場があちらこちらに建っている。エドによれば、浄化石を用いた浄化装置が発明されたおかげで、これでもだいぶ良くなったそうである。
ロージに連れられて、カナは武具屋に行った。ところが、カナは、店に陳列されている銀色に光る刃物を見ているうちに気分が悪くなって、結局、護身用、つまり妖変魔獣用の武器を買うのはあきらめた。
刃の輝きをみると、白いスーツの男にナイフで刺されたことが思い出されるのだ。ロージは残念がるわけでもなく、却って自分がカナを守ると張り切っていた。後日、カナが包丁も握れないと知った時は、さすがに呆れていたけれど。
ニューマラッカから内陸の王都へ至る街道を乗り合い馬車で2日。王都には入らずに、さらに馬車を頼んで北上する。着いたのは高原の村、キトと呼ばれる。眼前の彼方に雪を抱いた山がそびえる。その山の向こう側が妖変地帯である。つまり、その山のおかげで、危険な大型の妖変魔獣がやってくることはほとんどない。といっても小型の魔獣は頻繁に見かけるから、腕に自信がない者が一人で森へ入るのは危険である。
その森の山に近い一帯が、ビックママの住む森である。その森がカナの修行場となった。