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月香姫を探して  作者: 流山晶
第一章:修行
6/52

元アカデミー講師

 この国では、毎週の日曜日月曜日と月蝕の日が休日となっている。休日に遠足に行こうとカナは誘われた。ジャングルの中を歩くから、ズボンとブーツを穿いて、さらにお弁当を持ってくるように言われた。そのことを宿屋のクリスに言うと、にやにやして古着、古靴を探しくれた。

 ズボンの方は裾直しで済んだが、ブーツの方はサイズが合わず、町の靴屋で新調した。クリスはそこにナイフポケットをつけ、小ぶりの片刃ナイフを入れた。刀身は黒光りし、柄は焦げ茶の木製で文様が彫られている。昔、クリスが使っていたもので、カナに譲ると彼女が言った。

 この国では刃物が身近である。農作業のために抜き身の大鉈を持ち歩くのは珍しくないし、冒険者と呼ばれる人々は、魔獣対策のための槍を背負ったり、直剣を佩いている。カナはナイフの重みを確かめながら、平和な日本と、カナを刺した白いスーツの男を思い出していた。

 そして、郷に入っては郷に従えと自分に言い聞かせて、ナイフを素早く取り出して構える練習をした。


     *    *     *


 ルチエン王国は平和な国と言っていい。技術水準こそ低いが、人々の暮らしは豊かである。作物は豊かに実り、干ばつや病虫害による凶作とは無縁である。また、焼畑や施肥を行わなくとも収量は高い。これには精霊使いの働きがあるらしいのだが、カナには詳しいことはわからない。

 精霊使いの一部には巫女という資格が与えられ、病や怪我を治療する。カナの知っている近代的な医療に代る治療を行うのが巫女で、人々はみな、頑強な体質と併せて健康的に見える。少なくとも、老化が著しく遅いのは確かだ。 

 どう見ても三十過ぎのクリスが六十二歳と聞いた時は目を疑った。さらに、四十の時に生んだ娘がいると聞いたときは、耳を疑った。

 そんな平和な生活を脅かす唯一の存在が魔獣。フエの町中に魔獣が現れたことはないが、郊外には、魔獣が出たこともあるそうだ。

 魔獣は妖変地域で生まれると考えられている。フエよりももっと北、王国の北限に近い地域、すなわち妖変地域に近い地域には魔獣がたびたび出没し、冒険者は魔獣の駆除を請け負っている。一方、王国の南限の大部分は海であるが、南限の向こうにはやはり妖変地域がある。これらの北と南の境界は、ほぼ緯度に沿っている。

 つまり、王国は、南北方向には、二つの緯線に挟まれており、東西は海に囲まれている。海にも魔獣に相当する怪物、例えば、巨大な毒エイがおり、陸と同様に妖変地域があると考えられている。東西の海を渡っていった所に、島々があるのは知られているが、王国のような広大な陸は知られていない。王国には、戦うべき他国もなければ、貿易によって共存共栄する他国もなかった。

 もし、この世界が地球と同じ大きさをもつとしたら、王国とその周辺は、地球のごく一部を占めるに過ぎない。もっと広い世界があるはずである。妖変地域の向こうには、四季のある美しい国があるとか、粗野で文明を知らない蛮族の国があるとか、何通りもの噂がある。そんな噂に魅了された者が冒険者や探検家となる。ある者は陸を行き、ある者は海を渡り、ある者は空を飛ぶ。


     *    *     *


 朝早く、ショウイン・ゼンがカナを迎えに来た。今日は、腰に短剣を吊るしている。彼は、いつものようにクリスにきちんと挨拶をして、スコールが降る前には戻りますと言った。あくびをするカナの横で、クリスはショウインにサムズアップを送った。ショウインはちょっとびっくりしてから、ウインクを返した。黒猫のホウも張り切って二人についていく。眠そうなのはカナだけであった。

 歩き始めてしばらく、カナは背中に視線を感じた。靴屋にクリスと行ったときにも、嫌な視線を感じたのをカナは思い出した。その時、振り返った路地には、二三人がそれぞれの道を歩いており、カナの方を見ている者はいなかった。今日はどうだろうか。

「ショウイン、合図をしたら、黙ってあたしの後をついてきて」

カナが歩きながらショウインに囁くと、ショウインはちょっとびっくりして頷いた。

 カナが急に振り返ると、黒っぽい服を着た男が驚いていた。カナはショウインの手を握って、路地を曲がって走った。さらに路地を曲がって

「変な男につけられている! 振り切るのよ」

と駆けながらショウインに言うと、彼は

「それなら、こっち」

と言って、今度はショウインがカナの手を引っ張って、家々の間の小道に入っていた。小さな小川を渡って、崩れた石垣を越え、石屋の中庭を突っ切っていく。そうやってカナの手を引くショウインは、なんだか嬉しそうだ。


 足取りの軽い一人と一匹、少々疲れ気味の一人。一行は、海を背にして小高い丘を目指した。ゴム園、サトウキビ畑、マンゴー畑を横目にして、小川沿いを上流へと登っていく。徐々に緑が深くなり、鳥の鳴き声が盛んになっていく。

 途中、急坂をはあはあ言いながら登り終えると一気に視界が開けた。前方には、遠くまで続くジャングル。その果てしなさは、人間が小さな存在であることを認識させてくれる。後方は絶景である。澄みきった青空のもと、大きな湾とそれに沿って広がるフエの町並み。港には中型、大型の帆船が係留されている。中型は東海岸の沿岸航路を行き交う貨物船。大型は外洋の東諸島とフエを結ぶ定期貨客船だ。さらに無数の小型漁船が湾を出入りしている。人間の偉大さを物語っている風景だった。


 ジャングルといっても、密林ばかりではない。沼や、谷、原っぱもある。最初の目的地と言ってショウインが見せたのは、天然の花畑。白いジャスミン、花びらの先が赤いデンファレ、黄色が鮮やかなプルメリア、それに名前もわからない花が咲き乱れていた。

 カナはショウインの指示された通りの数と色の花をせっせと摘んでいく。彼は草の上に座り込むと、背負い袋から長い針と糸を取り出した。そして、集められた花に針を通していく。花の向きを変えながら配置していく。レイを作っているのだ。

 二人が忙しく働く横で、黒猫のホウは、だらしなく草の上に寝そべると目を閉じてまどろみ始めた。レイが段々と長くなっていく。男の子がレイを作るだなんて変だと思いながら、カナは聞いてみた。

「ショウインって、いつも本ばかり読んでいるから、外では遊べないかと思っていたわ。でも、レイを作れるなんて見直した」

「レイ?」

「あっ、ごめん。花の輪のこと。わたしの知っているハワイという島ではレイと言って、贈りものにするの」

「へぇー レイか…… いい響きだね。僕らは花鎖はなぐさりって呼ぶんだ」

「でも、いったい誰に教えてもらったの? クラスの女の子?」

「違う! 母さん。母さんに教えてもらったんだ。この針も母さんから借りてきた」

真っ赤になって否定したかと思うと、ショウインは黙り込んでしまった。そして、声を落として語り始める。

「母さんは昔から体が弱かったんだ。だから、母さんと外で遊んだことなんてなかった。それがある時、花鎖をつくりたいって言いだして、父さんにおぶってもらって、ここまで来たんだ」

「そう、そうなの。それじゃ、この花鎖をプレゼントしたら喜ぶわねぇ」

「えっ! 違うよ」

ショウインはあわてて否定した。

「違うって?」

「この花鎖は…… カナさんへのプレゼントだよ」

「あら! えーと」

今度は、カナが黙り込んだ。花を貰ったことなんてあっただろうか。そんな覚えはない。

「受け取ってもらえるかな?」

不安そうにカナの顔を覗き込んで、ショウインが再び尋ねる。

「受け取ってもらえるかな? 儀式付きで」

「儀式? 儀式って何?」

「内緒だよ」

そう答えるショウインの頬がわずかに赤かった。

 儀式とは、頬へのキスだった。その儀式の真偽がわからないカナは、花鎖を首にかけられて素直にキスされた。


 小川のほとりで弁当を広げる。二人の弁当は、ともに笹の葉でくるんだおむすびだ。このあたりでは、一般的な弁当。小学校の昼でも、おむすびを持ってくる子が多い。カナのおむすびは宿屋のクリスに作ってもらったものだ。一方、ショウインのものは、自分で作ったのだという。それを聞いたカナはなんだか恥ずかしくなって、最後のおむすびをショウインにあげた。小川の水を竹筒に補給しながら、今度から、おむすびぐらいは自分で作ろうとカナは決意した。


 次にカナが連れてこられたのは、紅色の花の咲いている木々の所。紅色の花びらがまるで羽ばたく鳥、あるいは揺らめく炎のように見える。ほんのり蜜のような甘い香りが漂う。濃い緑の葉を背景にして、無数の紅の花が咲いている様は、豪華さの極みだ。母さんへのプレゼントを用意するのだとショウインが言った。

 カナは渡されたピンクのエプロンを首にかけ、それを両手で体の前に広げる。器用に幹を登ったショウインが、枝をゆすると、花がぽとぽと落ちた。カナは必死になって、それをエプロンで受けとめた。

 首から下げたレイを揺らしながら、カナは右へ左と花を追いかける。何が面白いのか、黒猫のホウはそんなカナの周りをぐるぐる回りながら追いかけていく。カナが息を切らせるころには、エプロンに山盛りの花が集まった。

 ショウインがそれを大きなガラス瓶に押し込めていく。塩漬けにして、月光にさらして薬にするのだという。それを母に食べさせたい。それが彼の望みだ。


 不意に、ホウが、シューと唸り始めた。茂みの奥を睨んで、毛を逆立てている。ざざっと地面をこするような音が聞こえる。ショウインが花の詰まったガラス瓶をそっと地面に置く。

 茂みの奥から現れたのは緑色のいぼいぼの動物。特大のカメレオンだ。体高は五十センチほどで、体長は一メートル以上。左右の目を別々にぐるぐるさせたかと思うと、カナ達に両目を合わせた。その目は赤い。やがて、体色が灰色になり、赤黒くなり、ついには朱に染まった。

「魔獣だ!」

ショウインが叫び、腰の短剣を引き抜く。三十センチほどの両刃が銀色の鈍い光を放つ。カメレオンを睨みながら

「下がって」

と短くカナに言う。カナは、ガラス瓶を持とうと手を伸ばした。

 その瞬間、灰色の棒のようなものがカナの目の前に現れ、カナの花鎖に吸いついたかと思うと、花をごっそり奪っていった。カメレオンの舌が五メートル以上の距離を延びてきたのだ。カナが瞬きする間もないぐらいの一瞬のことであった。花を繋いでいた糸がプチンと切れて、奪われなかった赤、白、黄の花びらが空中にぱっとはじける。まるでクラッカーから飛び出た紙吹雪のようだ。

 カナが見とれているのをよそに、ショウインが短剣を振りかざしてカメレオンに迫る。黒猫のホウも跳躍する。

 カメレオンの左目がショウインを捉え、右目がホウを捉える。

 カメレオンが再び舌を延ばした。まるで鞭のように舌が螺旋を描く。

 舌は短剣を振り飛ばし、そのまま跳躍中のホウの横っ腹を強打した。

 ホウはそのまま地面にたたきつけられた。

 別々に動いていた両目が、今度は、カナの横に焦点を合わせた。

 紅の花の詰まったガラス瓶を狙っている。

 ショウインは膝を突いて右手を押さえており、ホウは地面に伸びている。カナには、舌の延びてくる進路が予想できた。

 ブーツポケットからナイフを素早く取り出して構える。

 灰色の舌がすごい速さで延びてくる。

 ナイフを瓶の前に勢いよく突き出す。

 そのタイミングが早すぎた。

 唾液で濡れた舌先がナイフとカナの拳を捉える。

瓶を奪われる、と思ったが、なぜか、カメレオンは舌を引っ込めた。そして、ゆっくり回れ右をして退散した。緑色に戻っていくその後ろ姿をカナ達は茫然と見送った。

 右手が、燃えるように熱くひりひりするのにカナは気がついた。

「痛っ!」

握っていたナイフが地面に落ちた。カメレオンの唾液に触れた部分の皮がむけ、真っ赤になっている。唾液が酸を含んでいたのだ。


 竹筒の水で赤く膨れ上がった手を洗うが、痛みはひどくなる一方だ。カナは痛みに顔をゆがめながらショウインの説明を聞いた。

 異常に大きな体と赤い目を持つことから、あのカメレオンは妖変魔獣である。おそらく、花が目的でカナ達を襲ったのだけれど、黒月晶石のナイフに触れて退散したのだろう。理由はわからないが、妖変魔獣は黒月晶石を嫌う。クリスからもらったナイフは希少な黒月晶石でできていた。

 カナは疑問を口にした。

「妖変魔獣って凶暴って聞いていたけれど、あのカメレオンはそんな感じはしなかったわ。もし、私達が最初から花を差し出せば、襲われることもなかったんじゃない?」

「そうかもしれない。でも、カナにこんな大怪我をさせたんだ。今度会ったら叩きのめしてやる」

ショウインは激しくいきどおっている。カナはそんな少年をたくましく思いながらも、無理をしてほしくないと思った。

「そんなに興奮しないでよ。大した怪我じゃないわよ。二三日すれば治るわよ」

ショウインが包帯をぐるぐる巻きにして余計に膨れ上がった右手をカナは見つめた。とても二三日で治るようなものではない。ショウインが結論を出した。

「とにかく、その怪我は母さんに見てもらうから。もう少し我慢して」

そんなわけで、カナはショウインの家に連れて行かれた。


 小さな家だが、居間は明るく、そよ風が吹き抜けていた。薄手のショールを肩にかけた女性がロッキングチェアに座っている。真っ白な髪、病的なほど青白い肌が目を引くが、皺はない。カナには四十歳ぐらいに見えるから、実際にはもっと高齢なのかもしれない。それが、ショウインの母親、リンダ・ゼンだった。

 ニコリと笑って、坐したままカナを歓迎してくれた。息子から話しは聞いていると言ったので、カナは思わず隣のショウインを見つめた。ショウインはほんのり顔を赤らめた。悪く言っているわけではなさそうである。

「とにかく、怪我を見せてごらんなさい」

優しい声でリンダが手招きをする。ショウインが包帯を取りながら、カメレオンに襲われた時の事を説明した。リンダはカナの手をとって

「ひどい傷ねぇ。でも、今すぐ治療すれば、痕は残らないと思うわ。ショウちゃん、調しらべと桜の葉と…… それから気付けを持ってきて」

と言ってショウインに指示する。

「母さん! 月晶酒を使うなんて…… 無理をしないで」

少年があわてる。

「心配しないで。でも、ちゃんと治すには力が必要なのよ。魔獣の毒を抜くのは、この町の巫女には無理だわ。だから、母さんがやらなくちゃならないの。カナさんは、ショウちゃんの大事な人なんでしょ」

ショウインはしぶしぶ頷いて、部屋を出ていった。

「よろしいのでしょうか?」

カナはおずおずと申し出るが、一蹴される。

「大丈夫。これでも、昔は精霊アカデミーの講師をやっていたことがあるのよ。こんな病弱なおばさんが、巫女を教育していたなんてと、不思議に思っているのでしょう」

カナは頷きもできず、黙ってリンダの優しそうな茶色の瞳を見つめた。リンダは話を続けた。

「ショウが生まれてすぐに、病気にかかったの。それで、すっかり弱くなって、こんな状態。ショウは薄々気がついているけれど、わたしの命は長くはないわ」

「でも、巫女、精霊使いなら、自分で治せないのでしょうか?」

そうカナは訊いてみた。

「普通の怪我や病気なら大抵治せるわ。でも、わたしのかかった病気は、悪性ルナクルが関わっているらしいの」

「悪性ルナクル?」

 リンダが答えようとした時に、ショウインが戻ってきた。リンダは黙ってカナを治療し始めた。

 ビックママが持っていたものと同じ聴診器を取りだす。裏側には霊石がはめ込まれている。ビックママの持っていたものは青みがかっていたが、こちらは、薄いレモン色だ。目を閉じて、そっと霊石を傷にあてる。診断しているのだ。

 次に、液体に漬け込まれた桜の葉をピンセットで瓶から取り出し、傷の上に載せていく。液体はアルコールで、傷にしみる。カナは思わず声をあげる。

「しみるっ!」

「がまん、がまんよ。この桜の葉は、東の島から取り寄せた特別なもの。毒消しの効果でこれに勝るものはないわ。ショウちゃん月晶酒を大さじ2杯、グラスに入れて頂戴」

濃緑色の桜の葉を貼り終えたリンダは、ショウインからグラスに入った琥珀色の液体を受け取った。以前、エドから飲ませてもらった蒸留酒、ビックママが即席の爆弾になることを実演してくれたものと同じ色だ。

「それは?」

カナの問に、リンダはグラスを一気に飲み干して答える。

「月晶酒よ。精霊素がたっぷり入っているの。治療で大量に消費するから、今の内に補給しておかないと、わたしの体が持たないのよ。昔は、月晶酒の助けなんて借りなくても治療できたのだけれどね」

リンダは、さびしげな笑顔を見せた。それから、目をつぶって、霊石を桜の葉にあてた。霊石が光り、その光が桜の葉に広がっていく。カナの手が熱くなる。次第に桜の葉が濃緑色から赤褐色に色を変えていった。毒素を吸い取っているのだ。

 ふと、リンダに目をやると、額に玉の汗を浮かべている。その額にかかかった白髪が青みを帯びている。次第に髪全体が青い光を放つようになった。カナはショウインが教えてくれた聖オルレアンの伝説を思い出した。

 ショウインが心配そうにリンダを見ている。誰もが黙っている。カナが沈黙を破ろうとした時に、リンダがほっと一息ついた。

「終わったわ」

リンダは桜の葉を新しいものに取り換え、ショウインが上から包帯を巻いた。

 ショウインがリンダの額の汗を拭き、リンダは二杯目の月晶酒に口をつけながらこう言った。

「カナさん、これで毒は無くなったはずよ。三日後にまた診せて下さい」

「あっ、ありがとうございます」

リンダは、ショウインの方を向いた。

「ショウちゃん、市庁舎に行って、妖変魔獣のことを守備隊の誰かに話してきてくれる。それから、クリスにカナさんが怪我したこと、治療したこと、帰るのは少し遅くなることを伝えてくれる」

「わかったよ、母さん」

ショウインは素直な息子だ。

「あっ、それからハスの傘を忘れないでね。もうすぐスコールが来るわよ」


 部屋を出ていくショウインにカナは声をかけた。

「ごめんね、ショウイン」

「えっ、どうして?」

「お母様に無理をさせちゃって」

ショウインは口をきゅっと結んでからこう言った。

「もとはと言えば、僕が油断したから、こんなことになったんだ……」

カナは、ショウインの頭をなでて、ありがとうと言った。


 ショウインが部屋を出て、カナは身構えた。リンダがカナに話があるのは分かっていた。油断したのはカナだったから。しっかりしなければならなかったのはカナだったから。

 そんなカナの予想は裏切られる。

「カナさんのことはショウから聞いているわ。あなたは異界から来たのね」

そう言って、リンダは、この世界、精霊の世界の仕組みを語ってくれた。


 この世界は精霊の世界である。はるか昔、歴史が始まるはるか以前から、人々は精霊の恩恵を受けていた。

 精霊素と呼ぶ、目に見えない物質が鍵となることは、長い歴史を経て皆が納得する点である。精霊素が植物や動物、もちろん人間にも作用する。成長を促進したり、病気や怪我を治療したり、あるいは人間が植物や動物と意思をやり取りするときに精霊素が働く。その仕組みは不明である。精霊素の源は月である。月の光を浴びることで、精霊素が生まれ、蓄えられる。

 精霊素はおおよそ三段階で熟成される。生の未成熟の状態、少し硬くなる半成熟の状態、硬い石のようになる成熟した状態の三段階である。

 月光を浴びた植物は、精霊素を果実や花びらに蓄えると考えられている。それらは未成熟の状態である。採取した果実や花びらに毎晩月光を浴びさせると、約三カ月で半成熟となり、さらに三カ月で成熟し結晶化する。結晶化したものを月晶石という。食べることはできないが、リンダの聴診器についている霊石も、カナがクリスからもらったナイフの刀身も月晶石である。月晶石が燃えた時の熱量は油の十倍ほどであるから、固形燃料として使われることもある。半成熟のものは、蒸留酒に溶かしこんで、月晶酒として用いられる。燃料として使われることもあれば、滋養強壮剤として飲まれることも『まれに』あるが主な用途は薬用である。食用としては未成熟のものが一般的である。

 アカデミーでの研究によって、精霊素が月光に含まれている事が確かめられた。月の光を鏡で反射させたり、レンズで集光すると、そこにあるものが熟成していくことから月光と精霊素が一体になっているのは確かである。アカデミーではこの事から精霊素を『ルナクル(月の粒子)』と呼ぶ。

 精霊素、正確には精霊素の働きには、良性のものと悪性のものがある。ルチエン王国で月光を浴びてできたものはすべて良性である。王国の北や南で月光を浴びてできたものは悪性で、その作用は異常である。植物の異常な成長、動物の巨大化、凶暴化を引き起こす。この異常を『妖変』、この地域を『妖変地域』と言う。同じ月光が地域によって違う作用を起こす原因は不明である。精霊素自身が違うのか、それとも環境が違うために作用が違うのかは分かっていない。そもそも、精霊素自体を抽出したり、精製することができないので、アカデミーでの研究もなかなか進まない。木質系のかすかな香りがルナクルそのものだと唱える人もいるが、真相は不明だ。

 妖変を調べ、解決するためのヒントは、太古の伝承にある。およそ、一千年前の聖オルレアンの伝説よりもさらにずっと昔とだけしかわかっていないころの事件だ。その事件が起きる前は、悪性の精霊素も妖変も存在しなかった。世界はもっと広く、人々にあふれ、豊かだったし、妖変魔獣という脅威も存在しなかった。しかし、平和ではなかった。豊かな人々は、さらなる豊かさを求めて戦争に明け暮れていた。

 それに、嫌気のさした月の神が怒り、鉄槌を自身に振りおろした。以来、月は傷つき、良性の精霊素が極端に少なくなり、悪性の精霊素が増えたと伝えられている。神はまた救いをも示した。すなわち、この世界のどこかに神の怒りを鎮め、月を治癒できる姫が眠っているというのだ。

 アカデミーは、そんな昔の伝承をそのまま信じたわけではないが、太古の神殿跡には何かが残っていると考えている。神殿跡は、ルチエン王国には、三つあり、その三つの表面は隅から隅まで調査したが何も出てこなかった。土を掘り起こしてさらに深層を調べれば何かがわかるかもしれないが、そこまでの事はできなかった。その理由の一つは神殿の床が堅固で物理的な破壊が難しいからである。また、まだ機能している神殿跡を安易に破壊するわけにいかなかったというのがもう一つの理由である。

 神殿跡の機能とは、異界人を連れてくることである。異界とは、この世界とは異なる世界のことである。それ以上のことは誰も知らないし、何の目的でどんな方法で異界人を連れてくるのかも不明である。

 記録に残っている異界人、ルチエン王国に現れた異界人は、この五百年ほどの間に二十人ほど。ルチエン王国以外の神殿跡に現れた異界人や、王国が保護しなかった異界人もいるらしく、実際にこの世界に現れた異界人の数はずっと多いと考えられている。


 リンダはそこまで語って、残っていた月晶酒を上品に飲み干した。

「異界人はどんな人たちなのですか?」

カナは、異界人の話をもっと聞きたかった。

「いくつかの特徴があるわ。でも、今は、詳しくは言わない方がいいと思うの」

「どうして」

カナが食い下がる。

「傷つくわよ」

「構わない。これ以上、傷ついても失うものはないわ」

リンダはカナの視線を外して、ため息をつく。

「臨死体験ね。カナさんも死にそうになったことがあるでしょう」

「えっ、そう。どうして知っているの? 誰にも話していないのに」

「臨死体験も異界人に共通する特徴なの…… 仕方ないわね。これから話すことは、あなたにとって希望でもあり、重荷でもあるわ。でもいずれは、先代の巫女長から聞くことだから、わたしから話してもいいわね」

「先代の巫女長って、もしかして…… ビックママ、ものすごーく太ったおばさんのこと?」

「ふっふっふ、 そうかもしれない。先代の巫女長は、一緒に冒険した同士よ」

そう言って、リンダはスコールの降りだした外に目をやった。心なしか、楽しそうな表情を浮かべている。そして、その表情を消して、厳かな顔を見せた。

 その後のリンダの話は衝撃的であった。

「異界人は、この世界の人と体が違うの。もっと正確に言えば、元いた異界の普通の人とも体が違うの」

「どう違うのですか? 人間ではない、違う種という意味でしょうか?」

カナの声はわずかに震えている。

「子供を作れるかという意味では、同じ種よ。異界にいた時も、この世界でも、精神的な意味で異端だった。違う?」

カナには心当たりがあった。以前、医者に、脳に障害があると言われたことがある。そのせいでつらい思いもした。この町の小学校でもつらい思いをした。カナが小さく頷いたのを見て、リンダはカナの手を取った。

「つらかったでしょう。でも、これからは違うわ。この世界には精霊素、ルナクルがある。カナさんがこの異界から連れ出されておよそ三カ月。ルナクルがあなたの体にしみ込んだ頃だと思うわ。最初は光らなかった発光石も、今は光らせることができる」

カナは大きく頷いた。

「それが、ルナクルが体にしみ込んだ証拠よ。ルナクルは色々な作用をもつけれど、あなた方異界人にはその作用は普通より何倍も強く作用する。理由は分からないわ。だけど、もしかしたら、ルナクルはあなた方の体に合わせて作らたんじゃないかと思うの」

カナはごくりと唾を飲み込んだ。

「これから、先代の巫女長がじきじきにあなたを鍛えるはずよ。そして、あなたはたぐいまれな能力を持つ月の巫女として活躍するはずだわ。いいえ、活躍することを期待されているの。それは、精神的な重荷になり、耐えられなかった異界人もいたわ…… つらくなったら、頼りなさい。先代の巫女長はもちろん、クリスも、ショウインも。本当なら、わたしもあなたの役に立ちたいのだけれど……」


 ショウインが勢いよく扉を開けて戻ってきた。彼の後ろから背の高い男性が顔を見せた。流れるような金髪、優しそうな青い瞳、ニコリと笑うその様は、その実態を知らない乙女を魅了してやまないだろう。

 エドワード・ヒルシュであった。


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