栗色の髪の少年
港のある町には活気があった。大人は商売に精を出し、子供ははしゃぎまわるか、そうでなければ、大人が怒りださない程度のいたずらに精を出している。
町であるのは確かであるが、高層ビルも列車も電線もない町だった。カナがあてにしていた日本大使館も電話もあるようには見えなかった。
カナが寝泊まりしている宿屋は丘の中腹にあり、かけ下りればすぐに港に着くぐらいだ。そんな立地なので、宿泊客には、身なりのいい貿易商、士官クラスの船員、離島へ開拓民として渡ろうとしている家族がいた。食事時も剣を離さない壮年の男もいた。
カナが何か手伝えることはないかと宿のおかみさんに身振りで伝えると、おかみさんのクリスは、大きなフライパンを軽々と振り回しながら、何もしなくていいんだよと伝えた。結局、食事から洗濯までカナの身の回りすべての事を世話してくれた。後になって、食事を手伝ったり、自分の洗濯ぐらいはするようになったのだが、学校に通い始めたころのカナにはそんな余裕はなかった。
カナが町に着いた翌日、クリスがカナを学校へ連れていった。並んで歩くとクリスの体格の良さが目立ち、カナが貧相に見える。
丘を越えるとゴム園が広がる。茶屋があって客がコーヒーを飲みながら、茶屋の主人と話しこんでいた。ロバを休ませるついでか、それともついでにロバが休むのか。客はのんびりしている。
クリスが茶屋の主人の声をかけ、主人が挨拶を返す。カナにも挨拶をして、クリスと二言三言話す。カナが話題になっている。主人が何かを思い出したように店の奥に引っ込んで、小さな干物を手にして戻ってきた。それをカナ達についてきた小柄な黒猫に差し出した。
毛並みは美しく、どこどことなくプライドが高そうな仕草が目につく猫である。クリスはその猫をホウと呼んで時々餌をやっている。宿からついてきたのは、暇なのだとカナは思っていた。
ホウは、茶屋の主人が差し出す干物を、食べてやってもいいとでも言いたげに、慎重に吟味する。が、すぐに夢中になって咀嚼した。案外、干物が目的でついてきたのかもしれない。実際、その日から、ホウはカナと一緒に登校し、しょっちゅう茶屋の主人から何かしらもらっていた。
クリスは校長先生に挨拶して、教頭先生らしい人にカナを託した。
もし、カナがもう一度高校を入学式からやり直せるとしたら、何をするだろうか。間違いなく、風紀委員を固辞していたと思う。そのせいで、ある女子生徒と険悪になったから。
もし、カナがもう一度中学校を入学式からやり直せるとしたら、自分が話すのは我慢して、人の話を聞いただろう。入学式式場で隣の男の子にミヤマクワガタとノコギリクワガタのどちらが強いかを教えてあげたら、口を利いてくれなくなったから。
もし、カナがもう一度小学校を入学式からやり直せるとしたら、やっぱり、友達をたくさん作りたいと思う。
そんなカナの期待は見事に裏切られる。小学校に行くことは容易だが、若返るのは至難だから。そう、カナが通い出したのは、この世界の小学校だ。
教頭先生らしい先生が連れて行ってくれたのは、五六歳の子供のクラス。小さな子どもたちが、駆け回り、ピーチク、パーチクおしゃべりをする様子はまるで幼稚園のようである。幼稚園と違うのは、小さな机が整然と並んでいることと、重そうな鞄を背負っていること。
用意のいいことに、教室の隅にひときわ大きな机が置かれている。大きいと言っても周りと比べればの話である。百六十センチというカナの身長は、女子高校生としては普通であるが、座っていても頭一つまわりの子供より大きい。十歳ほど違うのだから、当たり前である。
こうして、好奇の目、警戒の目、まだまだ可愛らしい白い目に見つめられながら、カナの小学生としての生活が始まった。
一年生のクラスに行くこともあれば、二年生、三年生のクラスに行くこともある。教頭先生の指示で、国語(言語)の授業を重点的に受けた。言葉がわからなければ始まらないから当然と言えば当然だろう。
辞書なければ、通訳もいない。とにかく必死で先生の言うことを聴き、黒板の字をノートに書き写した。
不幸中の幸いだったことは、言語が英語に似ていたこと。文字は、アルファベットにアクセントのような補助記号をつけたもので、文字と発音がほぼ対応しているから、一旦、文字と発音を覚えてしまえば読むのは簡単だ。単語自体は英語由来と思われるものがちらほらあり、まれに日本語由来のものもある。文法は、英語をさらに簡略化したようである。もっとも、文法から外れる慣用句も多く、リスニングの方はさっぱりであった。
一月たち、高学年のクラスで、言語以外の授業、カナの知っている社会にあたる授業にも出るようになった。そして、そのころから、カナは胸痛に悩まされるようになった。特に板書が多い授業の後は、胸が痛くなる。先生の言葉に耳を傾けながら、黒板の文字をノートに書き写していく。耳、目、手を同時に動かす。普通の人には何ということはない作業だが、カナは苦手だった。
* * *
香奈が中学三年生の時、ある種の先天的障害が脳にあると診断された。同時作業が不得意である。他人とのコミュニケーションが下手である。特定の物事に固執する。規律を好む。頭が通常の人より大きい。その障害の典型的な特徴である。そのどれもがカナにあてはまった。
医者にそう診断されて、香奈は安堵したのをよく覚えている。自分と同じ悩みを抱えている人がたくさんいると思うだけで、得体の知れない不安から解放された。同時に、秘境記者になりたいという夢がしぼんでいった。世界最大の花と呼ばれるラフレシアを見にジャングルに分け入ったり、テーブルマウンテンに降り立って水晶の道を歩いたり、暖かな海で野生のイルカと泳いだり…… そんな旅の記者を夢見ていた。だが、その医者は、香奈にはコンピュータの仕事が向いていると言った。
診断されてからは、極力無理をしないようにした。時々、保健室で休んだり、早退したりした。
* * *
カナが、教頭先生に不調を訴えると、学校の庭園と図書室に案内して、いつでもここで休んでいいと言った。
三階建ての木造校舎の裏手にある庭園は、果樹園と言った方がよい。黄色い柑橘類、赤いドラゴンフルーツがなっている。青々としたバナナが何種も植えてあり、これが目玉なのだと先生は説明した。
図書室の蔵書は少ない。それでも、屋外スペースにはヤシの葉でふいた日よけがあり、その下の椅子は、そのままうたた寝してしまうほど心地よかった。心地よいのは猫も同じらしく、カナが学校にいる間、黒猫のホウは椅子の一つを占拠している。
その日、カナは午後の授業を休んで、図書室に行った。午前中の授業でへとへとになったというのが理由の半分。残り半分は、午後の精霊学の授業がつまらないからという理由。
つまらないのは、用語が難しくて先生の話がよくわからなかったのと、話しの内容が『祈り』や『神話』で占められており、道徳のようなものだったからである。
大地の精霊に豊穣の祈りをささげるとか、聖なる月の光にさらした剣で魔獣を倒した英雄だとかである。
最初は、まったくの座学かとカナは思っていたがそうでもない。ある時、先生が生徒に発光石という白い小石を配った。生徒が先生のまねをして利き手で石を握って、『石に宿りし精霊よ、我が声に応えたまえ』と唱えた。すると、握った石はほのかに発光した。先生の解説によれば、発光の強さが、精霊への思いの強さをあらわしているらしい。カナの握った石は全く光らなかった。そんな理由でカナは精霊学への興味を失った。
カナは図書室の蔵書の中に地図集を見つけた。エドに見せてもらったものと同じものも入っている。一番縮尺の小さい地図、つまり、一番広い領域を示した地図が世界地図であるはずだ。その地図は最後のページにあった。
四角い地図の真ん中には陸があり、東西の辺と南の辺の大部分は海となっている。北はある線を境に白紙となっている。同様に南側もある線より向こうは白紙である。陸の東西の長さはおよそ五千スタジオン。算数で習ったスタジオンという長さの単位を思い起こしながら計算すると五千スタジオンは約千キロメートル。白紙でない南北の幅も千キロメートルほど。日本よりははるかに広く、面積的にはエジプトと同じぐらいの領域、それがこの世界なのか。東西の海の向こうはどうなっているのだろうか。そもそももなぜ南北が白紙になっているのだろうか。カナの疑問は際限なく大きくなっていった。
図書室には、カナの他に男の子が一人いた。六年生の授業で見かけたことがあるから、彼も精霊学をさぼっているのだ。おとなしそうな少年。軽くウェーブした栗色の髪がふっくらした頬にかかり、その顔にはまだまだ幼さが残っている。
カナは覚えている言葉を並べてみた。
「あのー、この地図」
少年は読んでいた本から視線をあげて、いぶかしそうにカナを見つめた。そんな視線にひるんではいけないとカナは言葉を続ける。
「教えて。ここ。これは何?」
カナは地図を開いて、南北の白紙の領域を指さした。
「…… 変わった…… 所」
「変わった? それは何?」
「それは精霊の…… 危険な…… みんな知らない……」
聞き取れる言葉、知っている言葉が断片的に現れる。少年の説明がわかりそうでわからない。カナは
「ゆっくり、ゆっくり教えて」
と頼んだ。
少年はため息をついた。そして、鞄からノートを取り出して、鉛筆で絵を描き始めた。うまい絵である。カナが知っているトラに似ている。確かに、トラがうようよしていれば危ない。でも人間ならトラに勝つことはできるはず。そうやって人類は発展してきたのだから。
カナは鉛筆を借りて、少年が描いたトラの横に、相対する人間を描いた。エドが使っていたような弓を背負い、手には宿屋でカナが見た重そうな剣を持っている。カナの絵もなかなかうまい。
少年は再びため息をつくと、カナを指さしてから、人、カナを描き始めた。実物よりも胸があるように描かれているのは彼なりのサービスなのかもしれない。注目すべき点は胸ではなく、全体の大きさである。先ほどカナが描いた人間よりもずいぶん小さく、最初に描いたトラの肩の高さはカナよりも高いことになる。
カナが唖然としていると、少年は喜々として、荷車を踏みつぶす狼、ヤギを丸のみする大蛇、石塀を突き倒すサイを描いた。カナは、そのリアルな絵に恐怖し、自身の肩を抱いた。
ようやくカナが恐怖していることに気がついた少年は、あっと言ってノートを閉じるが、時すでに遅し。カナは部屋を飛び出した。屋外スペースの椅子に座って胸に手をあて深呼吸した。また、パニック障害が始まりそうな気がしたのだ。
「ごめんなさい」
少年はカナの顔を覗き込んであやまった。
「大丈夫よ」
カナは息をととのえて、無理に笑顔を見せた。少年に悪気があったわけではない。カナが敏感すぎるのだ。想像力があり過ぎるのだ。
そんなことがあってから、カナは少年と言葉を交わすようになった。少年の名はショウイン・ゼン。栗色のおかっぱのせいで、ともすると少女と見まがわれる少年だった。
* * *
社会の授業で先生が大きな地図を取り出した。色とりどりの小石で黒板にとめていく。磁石になっているのだ。
地図はカナが図書室で見つけたこの世界のものと同じものだ。先生が東海岸のフエと呼ばれる港町を指さした。カナ達が住む町である。この世界では、内陸の湖に面する王都が一番大きな都市であり、フエは中規模の地方都市である。もっとも、カナからすれば、フエは都市ではなく、町である。
先生が主だった都市を順に説明していく。そのたびに光る小石を都市の上に置いていく。そして、今度は生徒に尋ねた。
「みんなの行ったことのある町を教えてください」
その瞬間、教室にたくさんの手が上がった。
「一人、一つずつ。その町で何をしたかを説明してください」
そう言って、一人ずつあてていく。生徒が町の名前を答えるたびに先生が赤や緑、黄色に光る小石を置いていく。生徒の告げる町がどこにあるのか正確に知っているのだ。さすが社会の先生は違うとカナは感心した。
地図のあちこちがカラフルに瞬き、手をあげている生徒がほとんどいなくなった頃に、カナはそっと手をあげてみた。目ざとくそれを見つけた先生がカナを指名する。
「私は、神殿、月照神殿、から、来ました」
一語一語、ゆっくりと発音する。先生が不思議な顔をする。
「月照神殿? それはどこにあるのでしょうか?」
先生でも知らない所があるのだ。カナは勇気を出して、黒板に進み出た。世界の地図とエドの見せてくれた地図を頭の中で突き合わせたから、その場所をカナは知っている。地図の北限に近い、小さな湖の東側に小石を置いた。小石が青く光る。
教室中がしんと静まる。
青い光がひと際目だっている。色も場所も他の小石から孤立している。
「妖しい」
男の子の一言が静寂を破ると、他の生徒も口々に何かを言い始めた。『変化』、『魔の女』、『災い』、『誘拐』。カナが理解できる単語は、良くないものばかりだ。青ざめながら先生を見ると、先生も青ざめている。カナの手から汗が出て、心臓がドキドキした。
「やめろ」
大声で誰かが一喝する。ショウインだ。
「カナは…… じゃない。精霊の…… 」
何か難しい事を早口で説明している。
「うそよ、だって…… でしょ?」
身長だけはカナよりも高い少女が口をとがらせている。ショウインが
「青い光……」
と反論する。別の男の子が
「わかった。わかったよ。ショウインが、乳…… が好きだって。…… してもらいなよ」
と言うと。教室中が爆笑につつまれ、ショウインが真っ赤になってうつむいている。カナにもショウインが何と言われたかなんとなく理解できた。いくら女の子の発育が早いといっても、十や十一の少女に胸の大きさでカナが負けるわけはない。生徒から見れば、カナの胸は十分に魅力的なのだ。
放課後、図書室にいたショウインをつかまえて、カナは礼を言った。ショウインは何の礼を言われたのかわからないようだった。
「あの時、私がパニックになりそうだ。それがわかっていたから、大声を出したのでしょう。違う?」
とカナが尋ねると
「あれ? そうだったっけ」
とショウインはごまかした。
折角の機会だったので、カナが皆から嫌われた理由を訊いてみた。彼は、ポツリポツリと説明し始めた。
月照神殿跡は、この国の北限に近く、『妖変地域』に隣接している。そこからさまよいでてくる魔獣も多く、北限より北はもちろんのこと、北限に近い地域は人が住めるような場所ではないらしい。魔獣とは、以前にショウインが絵に描いたような、普通の獣の数倍の大きさの獣を指す。大きいだけでなく、凶暴である。
生徒たちは、カナを『妖変魔獣』ならぬ『妖変魔人』ではないかと疑ったのだ。ルチエン王国の歴史上、妖変魔人が目撃されたという史料はないが、伝説では、妖変魔人が魔獣を操り、ルチエン王国を危機に陥れたとされている。ショウインはその時の救世主、聖オルレアンの物語をカナに語った。
「何千匹もの魔獣が王都を取り囲み、強固なはずの城壁は巨象の突進で揺らいでいました。でも、騎士や冒険者は、みな傷つき、魔獣に立ち向かえる者は残っていません」
ショウインがノートを開いて、絵を描き始めたので、カナは彼の手に自分の手を添えて止めた。そして、目をつぶり静かに耳を傾けた。絵がなくともショウインの物語を鮮明に思い浮かべることができたから。
「精霊使いや巫女のけしかける水牛は小さすぎて無力だったし、火矢のための発火石もとうに無くなっていました。民はただ死を待っていました。そんなときに、一人の金髪の少女が城壁に立ったのです。古代装束をまとっていたから巫女であるのは間違いありません。でも、他の巫女は緑の腰紐をしていたのに、その少女は青い腰紐をしていました。少女の名はオルレアン、後に聖オルレアンと呼ばれる伝説の精霊使いです」
ショウインは一旦口を閉じて、ノートを手に取りカナを見やった。カナは目をつぶったままである。彼は、ため息をついて再び話し始めた。
「少女が叫ぶと黒雲が湧きでて、あたりが暗くなりました。さらに、雷鳴があちらこちらで轟き、稲妻が大地をえぐります。風が吹き、雨が降り、まるで天変地異です。腹に響くドドドという音を聞こえてきました。王都のそばのマルテン湖から大水がやってきたのです。あっという間に城壁の外の魔獣を押し流していきました。こうして、王都と民は少女に守られました。腰紐が青かったことと暗闇に少女の髪が青く輝いていたことから、青は聖なる色となりました」
カナは自分の古代装束とシルクの青い腰紐が由緒正しいものだとわかって、不思議な気がした。ビックママはその装束についても、神殿跡にエドが迎えに来た理由も何も説明してくれなかった。もっともその時は、言葉がわからなかったから仕方がなかったのかもしれない。言葉が理解できるようになった今なら、カナがなぜ、この世界にいるのかを説明してくれるかもしれないと思った。
「聞いている?」
ショウインが、カナの肩をゆすった。カナが目を開けると間近に彼の顔が迫っていた。その心配そうな表情には青年の片鱗が伺え、ドキリとした。
「聞いている?」
ショウインの二度目の問にカナが頷くと、彼は白い小石をポケットから取り出した。
「カナさん、この石を握って、光れと念じてみて」
カナが言われるままに小石を握ってから手を開くと、授業の時と同じように青く光った。
以前、精霊学の授業の時にやった時は、うんともすんとも言わなかったから、光るようになったのは嬉しかった。これで、みんなの仲間に入れてもらえると思った。ところが、あの時、今日の社会の授業では、みんながしんとなってしまった。ショウインがその理由を説明してくれた。
「青は聖なる色だけれど、発光石を青く発光させることができる人は珍しいんだ。一流の巫女ぐらいじゃないかなあ。ほら」
そう言って、発光石を赤、緑、黄色と順番に発光させた。カナがやってみると、色を思い描くことでさまざまな色に発光させることができた。試しに、青と赤を混ぜるイメージで紫色、緑と青を混ぜるイメージで水色の光を作れた。
「まったく、カナさんにはかなわないなあ。こんなに色を出せる人はいないよ」
と彼は呆れていた。
それ以来、ショウインはカナを尊敬するようになったし、カナは社会と精霊学の授業が楽しくなった。