地図師と鳥使い
朽ちた神殿を朝日が照らし、立っている柱が不思議な影と光の空間を作り出す。もう百年、千年と繰り返されたはずの光景であるが、松下香奈がそれを見るのは二度目である。
言葉は通じなくとも名前ぐらいは交換できる。青年の名前はエドワード・ヒルシュ。エドと呼べばいいらしい。松下香奈はカナと名乗った。
カナは、携帯電話を貸してくれと頼もうとしたが、エドに電話を理解させることができなかった。
一生懸命、身振り手振りで伝えようとした。スマートフォンを右人差し指でなぞるまね、携帯のボタンを左手親指で押すまね、プッシュ式公衆電話をピ、ポ、パ、するまね、映画で見たことのある黒電話のダイヤルをシャー、シャー回すまねをした。どれも理解してくれなかった。もしかして、ここは電話が無い国なのだろうか。カナは簡単にあきらめるわけにはいかなかった。
今度は世界の有名人の名前を挙げてみた。アメリカ大統領から始まって、ギリシアの神々に至るまでの長いリストの一割ほどの所、丁度アメリカの遊園地のアイドルの名前まで行ったところで、エドに止めたられた。彼は、早く出発したいらしい。
気球を広げ、ガラスのような固形燃料をセットしたバーナーから炎を勢いよく出す。カナの見間違いでなければ、エドが燃料に触れて何かを話しかけると燃えだした。ゴーという轟音とともに温かい空気が気球に送り込まれる。
カナはおっかなびっくりの、へっぴり腰で作業を手伝った。重量調整用に藤籠の外側に石がぶら下がっているが、それを十個ほど下ろし、残り五個はそのままにした。
エドが銀色の笛を吹くと昨日気球を引っ張っていた鳥、コクチョウがやってきた。姿は白鳥と同じだが色が黒い。羽を広げると三メートルぐらいで、カナの図鑑の知識よりもだいぶ大きい。
おとなしいコクチョウにはハーネスが着せられ、背中の所に金属の輪がつけられている。カナがそれをカラビナで紐とつなぐ。カラビナとは、輪の一部が可動になっているワンタッチ式のフックのようなもの。デザインは無骨だが、機能的にはカナが知っているものと同じだ。
遅れてゴシキセイガイインコがやってきた。『タスケテー』とか『ダレカー』と鳴くから、昨日、神殿にやってきたインコと同じインコだ。
そうこうしているうちに、巨大な深紅の気球が立ち上がっていく。
ロープを持ったエドが、まるで置物でも見るようにカナを凝視した。腰のまわりにロープを二周させる。締め付けすぎないように、緩まないように結ぶ。背中側から伸びたロープを引っ張ってみる。カナは猿回しの猿のような状態だ。
エドは、さらにロープを両肩に回して胸の前で交差させる、先ほどと同様に引っ張ってみる。まだ、満足がいかないらしい。とうとう股下、丁度、両足の付け根辺りそれぞれにロープを回した。空中で吊り下げられてもいいようにハーネスを作ったのがカナにはわかった。わかったけれども、胸の形も太ももあらわになりかなり恥ずかしい。それでも文句は言わず、ハーネスが役立つような状況が来ないことを祈った。
「オッフェン」
掛け声とともに、エドが籠と柱を繋いでいたツタを切った。籠がグンと上昇し、振り子のように大きく揺れた。眼下の朽ちた神殿が急速に小さくなって、ジャングルの中に埋もれていく。絶景であるが、カナには美しさより恐怖が勝っているように思われた。
「レンテン、レンテン…… セオー、セオー」
エドが頭上で炎を出している石に話しかけると、炎の勢いが強くなったり、弱くなったりする。石に話しかけるなんて、頭がおかしいのではないかとカナは呟くが、意味が理解できないエドは一向に気にしない。
かなり上昇したところで、エドは火を止めた。
風も吹かず静けさが辺りを支配する。それでも、じっと下を見ていると神殿から徐々に遠ざかっているのがわかる。風に流されている。気球は風と共に動くから、乗っている人は風を感じないのだとカナは気づいた。
エドは合切袋から地図を取り出して、籠の上端に取り付けられたコンパスと見比べた。覗き込むと絵図だった。神殿、ジャングル、山脈、街が絵で描かれている。等高線は描かれていないけれど、路や川の形は細かく描かれており、精度も伊能忠敬の作った地図なみにはありそうだ。地図の右辺は海になっており、また、上辺は途中から白紙になっている。縮尺はわからないが、それほど広い領域の地図ではなさそうである。
エドは、この地図を作ったのは自分だと言ったようである。確かに、熱気球があれば、地図を作るには役立ちそうである。しかし、日本では、航空写真から地図を作る。飛行機も写真もないのだろうかとカナは疑問に思った。
見たこともない地図の描き方も興味深いが、カナが驚愕したのは文字である。一見するとアルファベットだが、それ以外の文字も多い、ドイツ語、フランス語の文字とは明らかに違う文字が入っている。カナはうーんと唸って、空を見上げた。そんなカナの頭をエドが優しくなでた。
エドが袋から出したのは、ひとつかみの赤い葉と黄色い葉。それぞれ紅葉と銀杏に似ているが、ずっと大きく、まるで油で揚げたように膨らんでいる。表面はラメ入りで、きらきら光っているからきれいだ。
エドが籠の縁から、少しずつ葉を落としていく。太陽光を反射してきらきらと光るそれらは、まるで水中を降下する金砂、紅砂のようである。感嘆するカナの隣で、エドは真剣な表情で葉の行方を追っている。時々、コンパスの向きと見比べている。
カナにもエドのしていることが、ようやく理解できた。風向きを確かめているのだ。高度によって風向きが異なり、きらめく葉の行方はその高度での風向きを示している。望みの向きの風が、どの高度で吹いているかを調べているのだ。
エドが頭上に延びた紐を引っ張る。紐は深紅の袋の上端へと延び、引っ張ると温められた空気が袋の外へ逃げるようになっている。そうやって、軽い高温の空気を出して、気球の浮力を減少させて高度を下げる。
望みの風向きをとらえた気球がゆったりと進み始めた。ジャングルの緑に映る気球の影もまた動いていく。その動きは速い。エドが二羽のコクチョウにつながった紐を軽く引いて『チョー、チョー』とせき立てると、二羽は、力強く、気球を引っ張りだした。心地よい風がカナの黒髪をもてあそんで後ろへと吹きぬけていく。いつの間にかラグビーボール型の舳先が進行方向に向けられており、風の抵抗を少しでも小さくしようとしているのがわかる。追い風の中をさらに風を切って進んでいるから相当な速さである。
もうこの頃には、カナも慣れ、速度も高度も楽しめるようになった。金属の殻に閉じ込められた飛行機とは違って開放的である。ところどころに沼やら原っぱがあり、野生動物がまどろんでいる。いぶかしげにこちらを見上げる鹿もいる。エドが動物の名前を教えたが、カナの記憶と一致するものはない。
しばらくすると、鳥が現れた。体が黒く、大きな黄色い嘴をもつ鳥が、珍しいものを見つけたとでも言うように気球の周りを旋回し始めた。一瞬、緊張したエドは、籠にぶら下げてあった弓を取ったが、危険ではないと判断してすぐにそれをしまった。エドは、気球を突っつく鳥がいるのだと手振りで説明した。
エドが何かささやいて、コクチョウへとつながっている手綱をカナに握らせた。鳥を御せと言っているらしい。手綱さばきはわからないし、教えてくれない。
カナがまだ小学生だった頃、父に乗馬を教えてもらったことがある。どうすれば馬が歩いてくれるのかわからないと途方に暮れると、父は念ずればいいのだと言った。『お馬さん、お願いだから歩いて』と念ずればいいのだと。カナはそれを思い出した。
エドは、時折
「ニャイ、ニャイ」
「コン、コン」
とカナに指示する。ニャイは右、コンは左らしい。不思議なもので、『鳥さん、お願い!』と念じながら手綱を引くと、だんだんとカナの思う通りに鳥が動いてくれるようになった。そればかりか、『チョー、チョー』と発破をかけると、『クー』と鳴いてスピードを上げてくれた。籠に留まっているゴシキセイガイインコも風を楽しんでいるようだった。
カナは緑の絨毯の上で鳥になった。
* * *
最初に異変を知らせたのは、それまで静かにしていたゴシキセイガイインコ。『ダレカー、ダレカー』と鳴いた。
二人が周りを見回すと、後方から、真っ黒なカラスがやってきた。エドが弓矢をとる。近づくカラスの上に人が乗っている。とてつもなく大きなカラスだ。
そのカラスにはハーネスをつけられ、人が手綱を握っている。全長四メートル程。気球を引っ張るコクチョウを軽自動車にたとえるなら、そのカラスはダンプカーだ。乗っているのはやや小太りな男。上から下まで黒で決めたスーツのようなものを着ている。黒い小さなマントが風になびいて、カッコいいと言えなくもないが、黒の目だし帽は明らかに不審者である。
男が目だし帽の口元を下げて何か叫ぶ。エドが矢をつがえて、こちらも大声で応じる。さらに男が応じる。カナをよこせと言っているらしい。
エドが不意に矢を放つが、わずかに弧を描いて下へそれる。男は一瞬驚くが、少し距離をとって、また何かを叫ぶ。エドの矢は、届かないと言っているようだ。
男を乗せたカラスは距離をとりながら上へ上へと昇っていく。気球の上空、カナ達からは見えない所まで飛んでいくと、男が高笑いしながら何かを叫ぶ。そして、気球がぐらりと揺れた。
「レンテン、レンテン、ハイレンテン」
エドの掛け声でバーナーの炎が強くなる。気球はゆっくり上昇し始めるはずだ。
プスッと小さな音がした。エドはバーナーの奥、気球の内側を見上げて舌打ちをした。カナが覗きこむと、気球の天頂近くに、明るい線が見える。男が気球に切りつけたのだ。その穴から熱い空気が漏れる。このままでは、気球は浮力を失い下降するはずだ。
エドはベルトから小瓶を出して、半分黄色、半分緑色の石を一つ取り出した。石を握って何やら呟く。こぶしを開けると淡く発光している。エドが両腕に力を入れ、色の違う所で二つに割る。
黄色い方を矢の先に取り付け、何やら叫んで、矢を上方に放つ。矢は気球をかすめて上に飛んでいく。当然、気球の上に乗っている男には当たらず、姿を見せない男があざけるように叫ぶ。エドが何かを言い返す。
手元に残った緑色の石をエドが握りこんで『バルス』と叫ぶと、一瞬、空がまぶしく発光する。エドの放った黄色い石は閃光弾で、緑色の石は起爆装置だったのだ。
男が罵声を発し、カラスごと気球を滑って、下へ落ちていった。カラスと男は薄雲の中へと消えていった。
カナがほっとする間もなく、エドが重量調整用の石を網から出して落とし始めた。カナも手伝って、五個すべてを落とすと、気球の下降が止まった。
エドは、合切袋から反物のように巻いた深紅の生地を取り出した。ブーツの側面からナイフを出し、生地の端を切る。エドは繊維に沿って器用に生地を破いた。気球に開いた穴を塞ぐパッチである。
エドは、カナの方に向き直り、左手親指と残りの指で一つの円をつくって、説明し始めた。円は気球を表しているらしい。右手の人差指と中指が気球の側面をとことこ歩いていく。エドが気球の破れを補修するには、そこまで登っていかなければならないということ。でも、そこには問題がある。エドが登っていくにつれて、気球の重心がずれ、気球は傾く。気球の底部のバーナーのあるところには大きな開口がある。気球が横倒しになるまで傾くと、その大きな開口から熱い空気が一気に漏れだし、気球は一瞬で浮力を失い、墜落するというのだ。
そこで、カナの出番だ。エドが登っている間、バランスを取るために、籠の上に立って、反対側にのり出してほしいらしい。カナは心臓がバクバクするのを感じながらウンウンと頷いた。
エドは両手でハトをつくって、羽ばたきをまねた。カラスがまた舞い戻ってくる。目がつりあがっていて、角を出した怖い人が、カナをさらって行ってしまうと身振りで示した。
無事にこの危機を切りぬけられたら、このお兄さんにパントマイムをやらせたいとカナは心でメモした。
エドがカナのハーネスの長さを三メートル程にして、籠の端にカラビナでひっかけた。対称性を保ってバランスをとるために、カナはエドの動作をそっくりまねる。籠の端に立ち、斜め上方に気球へ延びていく縄を持つ。一歩登ったところにある横縄に足をかけ、上に延びる縄にしがみついて体重をかける。エドは、カナにそのまま待てと指示する。炎を出しているバーナーは熱いから触らないようにと手振りで示した。気球の側面のところどころにつり輪が出ていて、エドは、そこに足をかけて慎重に登っていった。
カナが目をつぶって五分ぐらいだろうか、エドが何かを叫ぶ。わずかに、熱気球が上昇し始める。きっと修理が上手くいったのだろう。
エドは、なかなか戻ってこない。突然、カナの名前を呼んだ。緊迫した声だ。続けて何かを叫ぶが、カナにはさっぱりわからない。
「わからなーい」
と叫び返すが、エドからの返事はやっぱり意味不明だ。不安になって、カナが体重を移動させて、エドを視線に捉えようとした。と意識せずに触った気球の開口部がものすごく熱い。
「熱っ!」
と思わず手を放してバランスを崩す。
カナは落下した。
カナが生まれて体験する最大の恐怖。
恐怖の一瞬。
三メートル程落下して、ハーネスのロープがカナの体に食い込んだ所で止まった。はずみで両肩のフックが飛んで、ワンピースもどきがはだける。ロープの巻いてある両足の付け根もはだけていて、上下の下着が見えている。
冷静に考えれば、緊縛、エスエム、羞恥プレイという言葉が浮かんだはずであるが、ロープ一本で宙づりにされているという恐怖が勝る。
間の悪いことに、斜め下方からカラスがやってきた。黒衣の男を乗せた怪鳥だ。泣きっ面に蜂、あるいは絶体絶命という表現がこう言う場面にふさわしい。男はナイフを光らせて大声で何かをわめく。カナを吊っているロープをナイフで断ち切るつもりらしい。
エドが下方の男に向けてひょい、ひょいと小石を放り投げる。黄色い石と赤い石が混じっている。
カナが目をつぶった直後にそれらが閃光を放つ。目をつぶっていても頭が痛くなるぐらいの閃光が何回もあった。おまけに焦げ臭い臭いが漂う。目をあけると辺りが灰色の霧で覆われていた。カナは、むせ込んだ。
カナの体が、ずりずりと引き上げられていく。籠の中に転がり込んだカナは、思わずエドに抱きついたが、すぐにエドはカナを突き放して、籠の隅にあった予備の燃料、ガラスの塊を指さした。指さしたまま肘を回して籠の外を指し示した。つまり、燃料を捨てて軽くして気球を上昇させようというのだ。それをカナにやれと言っているのだ。
カナは、十キロはありそうな燃料を、歯をくいしばって籠の外へ捨てた。それが二つ。気球はみるみる上昇速度を上げた。
はあはあ言いながら重労働をする乙女の横で、エドは二羽のコクチョウの縄を外して、『ハイー、ハイー』と言うと、鳥は飛び去っていった。鳥が飛べないぐらいの高度まで上昇しようとしているらしい。
エドが親指を立ててにこやかに笑った。サムズアップだ。国によって意味が違うが、この場合は、よくやったという意味だとカナは解釈して、サムズアップを返した。
ずっと下方の灰色の煙幕からカラスと男が飛び出してきた。閃光弾を予期していたのだろう。先ほどより、よほど復活が早い。熱気球は上昇し続け、気温も下がっているから高度はかなり高いはずである。カラスがどの高さまで飛べるかはわからないが、空気が薄くなれば、体力的にも揚力的にもきついのは当然だ。ましてや小太りな男を背に乗せている。どこかに高度の限界があるはずである。
心なしか、カラスが疲れているように見えたが、熱気球の方も上昇速度が鈍っている。
とうとうカラスが籠と同じ高度に達する。
エドが矢を射るが、届かない。
男がカラスを叱咤すると、カラスが力を振り絞って上昇した。
エドは、上に行かせまいと、籠の端に立って矢を射るが、届かない。
その時、カナは、籠の隅で、袋から黒いガラスが頭を出しているのに気づいた。先ほど捨てた透明な燃料と違って、黒ずんでいる。カナにはそれが粗悪品に見えた。
先ほどの燃料よりもさらに重い。はあはあ言いながら、それを放り捨てると、熱気球はぐんぐん上昇した。あっという間にカラスは下方へ過ぎ去り、力尽きたカラスは薄雲の中へ沈んでいった。
カナはエドにハイタッチのやり方を教えた。エドは、乱れたカナの髪をなでつけてくれた。自身の姿を再認識したカナは恥ずかしさで真っ赤になった。
そんなカナには見向きもせずに、エドはベルトから手鏡を取り出した。ガラスの裏面にアルミを蒸着した近代的なものではなく、金属、青銅か白銅を磨いた鏡である。帽子を脱いで、手櫛で金髪を整える。カナは呆れた。エドは本当に貴族のお坊ちゃまかもしれないと考えた。
しばらくして、燃料がなくなり、炎が消えた。予備の燃料は先ほど捨ててしまったから、気球は徐々に下降し、最後はどこかに不時着するはずである。エドは燃料がないことを確認してため息をついた。
突然、エドが籠の隅を指さして騒ぎ始めた。指先は先ほどカナが捨てた粗悪品の燃料が入っていた袋を指している。
カナはそれを指さし、そのまま肘を回して籠の外を指し示した。一瞬、凍りついたエドは、せっかく整えた金髪をかきむしってカナを睨みつけると、呪いの言葉を吐いた。
「バンタードイ、シャオドンマートイ…… ファック・ユー」
言葉は、好意も悪意も伝えることができる。言葉が通じるならばという前提ではあるが。その最後の二語はカナに通じた。
カナの頭の中で何かがブチ切れた。あられもない姿で恐怖の緊縛プレイを体験させられ、とっさの機転で粗悪品を放り捨てて危機を乗り切ったのに、という思いが湧き上がった。
カナが中指を立てて言い返した。
「ファック・ユー、このいかれぽんちのおたんこなす!」
「バンダノイギー、ユー、オタンコナス!」
「だいたいか弱い乙女にこの仕打ちは何なの! それでも貴族のつもり? ファック・ユー!」
「チーコンデイ、ミルソーレ、ユー、ベリー・オタンコナス!」
「見た目イケメンの最低男! あんたこそ、おたんこなす!」
「オタンコナス!」
「おたんこなす!」
カナは、ぜいぜい息をしながら、『オタンコナス』が通じることを知った。
後日、カナが知ったところによると、その粗悪品にはこの世界の家が一軒買えるぐらいの価値があったそうだ。
* * *
燃料を失った気球は徐々に降下していった。途中、二羽のコクチョウに引っ張ってもらったけれど、ジャングルを抜け、原野になった所に不時着した。
前の晩と同じように、葉っぱのシェルターでスコールをやり過ごし、無言で夕食を食べた。今度は、チーズと堅いパンが増えた。
エドが白い石を燃やすと、黄色い炎が盛大にあがった。その炎と満天の星空が、カナに、初めて親から離れて過ごしたキャンプを思い起こさせた。
エドの差し出す琥珀色の蒸留酒を一口飲むと、カナのわだかまりがゆっくり溶けていった。瓶をエドに返してカナが口を開いた。
「助けてくれてありがとう、エド」
「バンダーチャオドン、チュアトイ・プレジャー」
「あの黒い石を捨てちゃってごめんなさい」
「ドン・マイ、ユー、チェンツー、バオベ・カナ」
言葉は通じなくとも思いが通ずることがある。さらに二口、カナとエドは蒸留酒を飲み交わした。
深夜にカナが目を覚ますと、暗闇の中で石がちょろちょろ燃えていた。横を向いたカナの腹をすべすべの手、エドの手が温めている。背中の後ろから軽い寝息が聞こえる。
カナの黒い瞳に炎が映る。夢を見ているのだろうか、それとも天国にいるのだろうかと思案した。
記憶を順にたどった。ヒダリマキマイマイ、鈍く光るナイフ、赤黒く染まる制服、月光に照らされた静謐な神殿、むせるような緑、深紅の熱気球、怪鳥と黒衣の男、そして、優しそうな青い瞳。
カナは、腹の上の手を凝視しながら、この手が自分を守ってくれるのならこの世界も悪くないと思い、そっと自分の手を重ねた。そして、次に目覚めた世界がどんな所であれ、そこで生きていくのだと決意して再び瞼を閉じた。