異界人
しとしとと静かに雨が降っていた。アジサイが咲き始め、薄青や赤紫の花が、雨に洗われた緑に映えている。丘の上にある付属高校から帰宅するには、長い下り坂を歩いていかなければならない。その脇の付属小学校はとうに放課後となっており、帰宅する小学生もまばらだ。
小学校二年生ぐらいだろうか、ランドセルがまだまだ重そうに見える少年が坂道の真ん中で、黄色い傘を持ってかがみこんでいた。
付属高校一年生の松下香奈は、何もかも放り出したいと思っていた。
勉強、勉強とヒステリックに叫ぶ教師達。胸の痛みなんて俺の腰痛に比べれば、なんてことはないはずと言うパパ。がんばらなくてもいいのよと言いつつ、高校ぐらいは卒業してほしいと哀願するママ。
香奈はこの日、胸の痛みを訴えて、早退した。一刻も早く帰宅して自室にこもりたいと思っていたはずだったが、なぜか、坂道の真ん中でしゃがみこんでいる少年が気になった。その背中がさびしそうに見えたのかもしれない。
少年の黄色い傘の下を覗き込んだ香奈は自然と声をかけていた。
「カタツムリ?」
少年はコクンと頷く。自宅の図鑑を克明に記憶している香奈はすぐに気がついた。
「あら、珍しいわ」
少年は不思議そうに香奈を見上げ、彼女はぎこちない笑みを作って答える。
「ヒダリマキマイマイ。日本に住むカタツムリはたいてい右巻きなのだけれど、これは左巻きの種、ヒダリマキマイマイと言うのよ」
「……」
「みんなと違う左巻き。冒険したかったのかしら。でも路の真ん中はヤバいと思わない?」
香奈はカタツムリをひょいとつまんで、道端のアジサイの葉の上にのせた。
* * *
翌日は雨も上がり、青空が広がった。いつもであれば、天気がよければそれだけ体調もいいはずの香奈であるが、胸の痛みをこらえて漢文の小テストを乗り切ったところで気力が絶えた。
けれでも、それだけが早退の理由ではない。朝、出がけに盗み聞いた両親の会話が喉に刺さった小骨のような不協和音を奏でていたのだ。
朝、香奈は父親とちょっとした口論をして、行ってきますと吐き捨ててダイニングを出た。携帯を食卓の上に置き忘れたことに気がついた香奈は、ダイニングの扉をあけようとして、ため息を聞いた。
「できるならば、香奈には自分の面倒は自分で見られるようになってほしい。人様の役に立つ人間になってほしい」
ここまでは、いつもの父親のセリフである。ところが、いつもとは真逆の事を話し始め、香奈は盗み聞きすることになった。
「でも、最悪のことも考えている。だから、香奈が働かなくても一生やっていけるぐらいのお金は残しておきたいと思う。贅沢さえしなければ生きていけるぐらいのお金を残したいんだ」
黙って聞いていた母親が
「そりゃ、うちは共働きだから、そのくらいの財産を残せないことはないでしょう。でも、今は、そこまで考えることはないわよ」
と異を唱えるが、父親は構わないようである。
「身を削り、神経をすり減らし、ライバルを蹴落として、家庭を顧みないで働いてきた。挙句の果てに我が子を罵倒する。そんなのは、俺、俺とママだけで十分だ。香奈には平穏に生きてほしい」
「平穏?」
「そうだ。勉強なんかしなくたっていい。仕事なんかしなくたっていい。外がいやなら引きこもっていたっていいし、結婚なんかしなくたっていい」
「それは……」
「だけど平穏に生きていてほしい。生きていればたまには楽しいことだってあるだろうし、たまには人の役に立つこともあるだろう」
「そうかもしれないけれど……」
考え込む母親は賛同していないらしい。
「そうさ、香奈には俺達とは別の生き方をしてほしい」
「つまり、パパが言いたいのは…… 色んな人間がいていいということ? 忙しい人もいれば、暇な人もいる。頑張れる人もいれば、頑張れない人もいる」
「そう、それだ。香奈は俺達とは違う人生を歩むはず。それを俺達は見ていられるんだ。楽しいと思わない?」
母親はしばらく間をあけてから口を開いた。
「ふふふ、パパっておかしいわね」
香奈にとって、両親の会話は驚きだった。いつものような無理解で不愉快なものではなかったが、素直に受け取れる言葉でもなかった。それが小骨となって喉に刺さっていた。
付属高校から長い下り坂の途中、小学校への出入り口近くに男がいた。真っ白なスーツを着た見覚えのない男である。うつろな目で、下校する小学生達を見ている。目を合わせてはいけないと思いつつ、香奈はその男をちらっと見やった。その瞬間、男はニタリと笑った。まるで、香奈を待っていたかのようである。
男は、懐から銀色に光るナイフを取り出して香奈に見せた。香奈は反射的に体をこわばらせた。
丁度その時、付属小学校の敷地から少年が出てきた。男は視線を少年に向ける。香奈には男の考えていることが、はっきりとわかった。わかったけれど、何もできなかった。声を上げることも、駆けだすこともできずに凍りついていた。
香奈にとって、それはスローモーションのように見えた。男はゆっくりと少年の腕に切りつけた。あまりにも場違いな状況に少年は何もできなかったが、痛みを感じて叫んだ。
男は喜悦の表情を浮かべて、血塗られたナイフを香奈に見せつけた。香奈には男の考えていることが手に取るようにわかった。
そして、再び男が少年にナイフを突き出した時、香奈はその先に身を投じた。
男は憎悪で目を怒らせるが、香奈は腹に刺さったナイフの柄を握りこんだ。このナイフを再び男に使わせてはいけない。そう思って自分の腹に刺さったナイフの柄をしっかり握った。男は狂ったようにわめくが、刺さったナイフが抜けることなく、男は逃げだした。
香奈のブラウスとスカートがみるみる赤黒く染まっていく。膝から崩れ落ち、手が震えた。次第に周囲に人が集まってくる。腕を切られた少年、昨日、香奈がヒダリマキマイマイを教えた少年は、腕の傷を押さえながらもじっと香奈を見ていた。
香奈は、『生きていればたまには人の役に立つこともあるだろう』という父親のセリフを思い出して笑った。そしてママとパパに感謝して目を閉じた。
その時、青空にひっそりと浮かんだ上弦の月が一瞬だけ煌めいた。
* * *
香奈が目覚めたのは、朽ち果てた神殿の祭壇前。天井は崩れ落ち、柱も半数は倒れている。満月が御影石の床を煌々と照らしている。
香奈は、光沢のある床の冷たさと同時に、まとわりつくような匂いを感じた。石の匂いでもないし、生育力旺盛な植物の匂いでもない。もっと枯れた、どちらかと言うと炭やシナモンのような木質の匂いがする。
ふらふらと立ち上がって、まとわりつく匂いを振り払うように頭を振って、記憶をたぐった。不審な男に刺されたはずであるが、服には血がついていない。そもそも着ている服に見覚えがなかった。
月明かりで色ははっきりしないが、襞の多いワンピースのようなものを着せられていた。両肩の上で前側と後ろ側の布をフックのようなもので留めている。腰にはベルト代りの細紐が巻かれている。ほとんど縫製もカットもしていない布を紐で巻きつけているだけと言った方がよい。
だんだんと心細くなってくる。司法解剖された後に遺体を包むとしたらこんな感じではないかと想像した。もしかしたらこれは鳥葬かもしれないとも考えた。それでも、香奈は自分が生きているように感じられた。
ふと気になって、大きく開いた襟ぐりを覗き込んで見ると、チューブトップブラのような布が八十センチあるはずのバストを包んでいる。ついでに、くるぶしまで届く裾をたくし上げてみると、ショーツを穿いていた。わざわざ、遺体に下着など穿かせるのだろうか。
今度は、両肩のフックを外して、ワンピースのような布をはだけてみると、腹には刺された跡がみみず腫れとなって残っていた。
誰かが治療してくれて、死なずに済んだのだ。では、なぜ、病院ではなく、神殿なのか。深夜の神殿に答えてくれる者はいなかった。
鳥がさえずり始め、雲を赤く染めながら朝日が昇り、濃い緑の世界が目の前に広がった。神殿は丘の上に立っていた。どちらを向いても見渡す限りジャングル。ところどころにヤシのような背の高い木があり、周りの緑を見降ろしている。はるか遠方には、銀色に光る平面が見える。湖か何かであろう。まとわりつくような匂いは、それほど気にならないが、熱帯の生命力に圧倒されそうになる。
リネン布のような服、コットンの下着、革のサンダル、薄青のシルクの腰紐。ロゴも洗濯マークも見当たらない。香奈の持ち物はそれだけで、生徒証も定期もティッシュもない。
人の気配がない事を確かめてから、香奈は叫んだ。
「おーい、誰か、誰かー、誰か助けてー」
誰かがいると思えば叫べない。誰もいないと思ったから叫んだ。矛盾していると思いつつ、大きな声を出せただけで、香奈は満足した。
派手な小鳥が飛んできて倒れた柱の上に留まった。香奈の読んだ熱帯図鑑の知識によれば、ゴシキセイガイインコ。嘴は赤、顔は青、胸はオレンジで、羽は緑というド派手なインコだ。生息地はオーストラリアからインドネシアにかけて。
そのインコは、目をくりくりさせて
「ダレカー ダレカー」
と鳴く。人をバカにしたようなおどけた調子だ。香奈がキッと睨みつけると
「タスケテー タスケテー」
と鳴きながら飛んでいった。
「ば、馬鹿にしているわ」
香奈は、そう呟いて目を伏せた。
神殿には全く装飾がない。浮き彫りでもあれば、どんな人がどんな神を祭っていたのかがわかるはずである。だが、柱には縦溝があるだけである。それでも、柱が作る陰は、心地よい空間を作り出す。
香奈は柱を背に膝を抱えて座った。こんな状況だから、学校のこと、勉強のことなんて考えても無意味だ。親の顔、先生の顔、親友とは呼べない友達の顔がちらりと脳裏をかすめたが、すぐに考えるのをやめた。
そうやって、頭を空っぽにして、長髪をもてあそぶ風を感じ、あちらこちらから上がる鳥のさえずりを聞き、太陽光に目を細めた。ジャングルを堪能しながら、香奈は待っていた。何かが起こることを待っていた。誰かが来るのを待っていた。
太陽が高度を下げ始めると、上面を白銀のように輝かせ、灰色の雲底を持つ雲が遠方に現れた。その雲底の下は薄闇になっているから、激しい雨が降っているのは間違いない。
近づく雲を見ていると、赤い点が現れた。徐々に大きくなり、円になる。雲に追われるように深紅の風船がこちらにやってくる。
ラグビーボール型の風船の下には籠がぶら下がっていて、人が乗っていた。籠から紐が二本延びて、その先に、首長の黒い鳥が繋がれている。風船の下には、青い炎がちらちら見えるから熱気球である。ただ、鳥が引っ張る熱気球というのは、香奈の記憶にない。
気球乗りは茶色の上着を着て深緑の帽子をかぶっていた。真丸ガラスのゴーグルをして、『チョー、チョー』と言いながら、鳥を操っている。
頭上の炎を消すと、あれよあれよという間に、気球は高度を下げた。籠が地面で一度弾んで神殿前に着地するが、ざざざっと気球に引きずられる。男はすぐに籠から這い出るとそれを手近の柱まで引っ張っていって籠を結わえつけた。
深紅の気球がしぼみつつゆっくりと倒れていく。男が、二羽の鳥に繋がれた紐を一瞬で外して『ハイー、ハイー』と声をかけた。二羽はジャングルの方へ飛びさった。
気球だった布が、地面にだらしなく広がる。男はそれを器用に柱に巻きつけ、手袋を脱いでパンパンと叩いた。それを見た香奈は、あわてて、風でみだれていた長い黒髪をなでつけ、腰紐を結び直した。
男がゆっくりと香奈の方へやってくる。ロングブーツの歩みは、りりしいというよりはしなやかである。ゴーグルを上げれば、そこには神秘的な青い瞳があり、帽子を脱げば、長めの金髪が広がった。ともすると冷たい印象を与えるイケメンだが、柔らかな笑みが優しそうな雰囲気をかもし出している。昔のヨーロッパ貴族の青年が冒険をしている、というのが香奈の第一印象だ。
対する香奈は、神殿という場所といい、服装といい、ギリシア神話の女神であるはずだが、大きな黒目、漆黒の長髪、やや丸みを帯びた顔は、神々しいというよりは愛嬌があると言った方がよい。
「シンチャオ! ナイスーレコンテーレ」
男が香奈に喋った第一声である。
「……」
言葉がわからなかった。
青年が盛んに喋りかけるが、香奈には全く意味がわからなかった。
「ごめんなさい、言葉がわからないの」
香奈が伏し目がちに言うと、青年は
「ドン・マイ、ドン・マイ」
と慰める。やっと知っている言葉が出てきたと思って香奈は嬉しくなり、
「イエース、イエース」
と答えると、青年は不思議そうな顔をして考え込んだ。
『イエス』が通じない。香奈がいるのはそんな国だった。
いつの間にか頭上が暗くなり、大粒の滴が香奈の腕を打つ。すぐに本格的な雨となる。青年は茶色の上着を脱いで、香奈の頭にかぶせた。幅広のベルトに刺さった小瓶の一つを抜き出す。楕円型のこげ茶色の小石を一つ取り出して右手で握る。何かを話しかけて、拳を開くと、その小石が淡い光を放っていた。
それを地面に浅く埋めて
「ハク、ハク、ハク」
と青年が声をかけると、地面を突き破って緑色の棒がずずっと伸びた。太さを増しながらなおも伸びていくと、棒は自重でたわみ、弧を描き始める。人の背丈の倍ほどの高さに達し、棒の先が地面にふれた所で伸びが止まった。
小石を埋めてからほんの二三分のことである。香奈は目を丸くした。
「ハク、ハク、ハク」
青年が再び声をかけた。今度は棒の左右から沢山の細い枝が伸びていく。それに併せて枝と枝の間に薄緑色の膜ができていく。膜には艶があり雨を弾いている。
まるでゴムの木の葉っぱであるが、大きさは四畳半ほど。青年が葉の先端を引っ張り寄せて、根元近くに細紐で留めると円筒形の簡易シェルターができあがった。香奈は呆けたように口をあけていた。
青年が大げさなジェスチャーで『お嬢様、お入り下さい』と誘い、香奈は軽く会釈してサンダルを脱いで緑の円筒の中に入った。蜂や芋虫には、円筒状の葉を巣とする仲間がいる。香奈は、親指姫になったような気がした。
香奈の胃がねじれ、ギュルルーと盛大な音を立てた。目が覚めてから半日以上何も口にしていないから当然である。身振りで飲むものと食べるものを欲しいと伝えると、青年は、合財袋から竹筒を取り出して香奈に渡した。香奈は何も匂わないのを確認して一気に飲み干した。単なる水のようだ。
青年は紙包みを開いて大きな角砂糖のようなものを香奈に渡した。恐る恐るかじってみると、堅くほのかに甘い。落雁みたいなものだ。香奈が三個食べたところで、青年はもうお終いと身振りで示した。
まだお腹がすいているのだと香奈が主張すると、青年は琥珀色の液体の入った小瓶を取り出し、コルク栓を抜いて渡した。明らかに蒸留酒の香りがする。つき返すと、青年は一口飲んでみせて、香奈に再び渡した。毒味をしたと言いたいのだろう。未成年だからお酒は飲めないのだと抗弁したかったが、身振り手振りで伝えるのは難しい。
結局、香奈は一口飲んだ。琥珀色の液体が喉を焼き、胃を焼くが、すぐに体が温まった。
香奈の暴れていた胃は静まり、アルコールが神経を鈍らせた。激しい雨音が、雨に濡れない安堵感を生み、疲労感が両肩にのしかかった。
瞼が重くなっていく。正座していたはずが、いつの間にか女座りになり、薄れる意識とともに、香奈は横になった。
次に目覚めた世界が本当の世界であることを信じて香奈は瞼を閉じた。
念のため。「日本」では飲酒は二十歳からです。この「異世界」では?