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月香姫を探して  作者: 流山晶
第二章:豊穣祭
17/52

継承者

 王都シエーナの豊穣祭はマルテン湖での迎え舟で静かに始まり、送り舟で静かに終わる。その間に、地方へ派遣される騎士兵士巫女の壮行パレード、奉納舞という王国の公式行事と、庶民が主役の豊穣踊りが行われる。

 迎え舟、送り舟は、小さな丸木に帆をつけた舟をマルテン湖に浮かべる儀式である。迎え舟の方は、待ち人が無事に帰ってこられるよう舟を出して迎えに行くという意味がある。一方、送り舟の方は、死者の魂を月へ送るのが目的で、送り石を載せて火を灯すのが一般的である。最近は鈴石も載せて澄んだ鈴の音を鳴らすのが流行りである。どちらも儀式と言うほど形式ばってはおらず、必要と思う者が行う清らかな行為である。

 カナ達が筆記試験を受けた翌日、迎え舟が静かに豊穣祭の始まりを告げる。


 湖面に雨紋を作っていたスコールが降りやむと、みるみるうちに雲が晴れていき、湖に突き出した広い木製デッキに三々五々に人々が集まりだす。皆、丸木に帆をつけた迎え舟を持っている。

 鮮やかな夕日が湖上に現れ、それを凪いだ湖面が鏡のように映し出す。

 カナ達は、メルと占い師の所で待ち合わせていた。

「おばあさん、こんにちは」

ナパが元気な声で老いた占い師に声をかけた。老女は、濡れた小机を拭く手を止めて、ナパの方を見やる。

「おや、お前さんたちかい。なにか占ってほしいのか?」

「いいえ。今日は、この間、一緒に占ってもらったメルと待ち合わせているの」

「ああ、なるほど、迎え舟を出すのだね」

老女は、少女に迎え舟を買ってやるよう、言ったことを思い出したらしい。そして、目を細めて、夕日の映る湖を見やった。

「天気も回復したみたいだし、今晩は月食もあるから、迎え舟にはいい日和だよ」

この世界では月食が二カ月に一度は起きる。そのうち半分ほどは、昼間におきるから目にすることはない。それでもカナがいた世界に比べれば圧倒的に月食の頻度が高い。おそらく、白道(月の軌道面)と黄道(太陽の軌道面)がほぼ一致しているのだろう。同じ理屈で、日食の頻度も高いはずであるが、こちらの方は、見えるのが狭い領域に限定されているので、カナはまだ日食に遭遇したことがない。

 ルチエン王国では、月食は死と再生を表すものとして、尊ばれている。豊穣祭が満月に始まり、満月に終わるのも偶然ではない。運が良ければ、初日と末日の両方で月食が見られる。


 たなびく雲がオレンジ色に輝き、湖に沈みゆく夕日がカナ達を照らす。陸から湖へと吹き始めたそよ風が、金髪と黒髪をふわふわと舞い上げる。並び立つ二人は、まるで女神の彫像のように美しいが、その表情は対照的である。ナパは腰の短剣に手を添え、目を見開いて光景を眺めている。一方、カナは腕組みをし、夕日を見つめる切れ長の目は、わずかに怒気を含んでいる。

「もう少しだったのに」

カナのつぶやきに、ナパは湖を見つめたまま言葉を返す。

「仕方ないじゃない。それに、今更、筆記の失敗をあれこれ悔やんでもどうにもならないわ」

「まあそうなんだけれど」

カナは目を伏せる。

「昨日、散々飲んでふっきれたんじゃないの? それとも飲み足りなかった?」

「ははは…… さすがにあれだけ泥酔して、飲み足りないということはないけれど…… ナパにも迷惑をかけたわね」

「いや、まあ、迷惑をかけたというほどじゃないけれど…… 心配をしたのは確かね」

ナパが振り向き、言い足す。

「あっ、そもそも、まだ落ちたとは限らないじゃない。その偉そうな内部生が間違っていたかもしれないし…… 明日の発表を見るまでわからないわよ」

ナパの励ましに、カナはこめかみに人差し指をあてる。

「う~ん。そうかなあ~ そうかもしれない、そういうことにしておきましょう!」


 パタパタと軽い足音が二人の背後から聞こえる。振り返るとメルセデス・ガルシアが迎え舟を抱えてやってくる所だった。

「こんちは~、待った?」

というメルの問に

「まだ、始まっていないから、丁度いい頃合いよ」

とナパが答える。

「それじゃ、行きましょうか?」

ナパ達三人は、湖に突き出たデッキの方へ歩き出した。


 デッキの水際に二三百人ほど並んでいる。持ってきた迎え舟はそれぞれに飾られている。多くの者は待ち人の名を記した紙を細長く折り畳んで、帆柱に結んでいる。紋章の入った帆を張っている者もいれば、赤いペンキを塗った舟を持ってきた者もいる。

 メルが持ってきた舟には、白い帆が張ってあり、大きな字が帆いっぱいに書かれてある。

『パパへ

 一日も早く帰ってきて!!

 メルより』

「メルちゃん、字が書けるんだ」

とカナが感心した。この国の教育はゆったりしている。十歳できれいな筆記体の字が書けるとは限らない中では、メルは十分に達筆だ。今でこそ浮浪者と見まがわれるような格好をしているが、きちんとした教育を受けたことがあるのだろう。

「ふん! これぐらい書けるぜ」

だが、メルの粗野な男言葉を聞くたびにカナの胸はかすかに痛む。きっと、メルの言葉はゴミ拾いという今の稼ぎを反映しているのだろう。巫女になったあかつきには、小間使いとして雇いたいと考えたこともあったが、試験に合格しなければ話にならない。カナはそっとため息をもらした。

「カナさんが浮かべて」

メルが舟をカナに突き出す。

「どうして、私が?」

「だって、カナさんに買ってもらったんだからさあ」

甘えるような瞳に、カナは吸いよせられる。

「そうね……」

 この舟は、メルの父親を連れ帰ってくれるだろうか? そしてカナには何をもたらすのだろうか? 試験に落ちたのなら、来年また受験すればいい、来年だめならその次の年にまた受ければいい。いつかは巫女になれるだろう。そんな気がする。でも、その先、カナは一体何をすればいいのだろうか。この異世界で何をすればいいのだろう。そもそも、何かを成すためにカナは異世界に連れてこられたのだろうか?

 ふわふわとさまよいだすカナの思考をメルの瞳がつなぎとめる。その信念を持った眼光はゆるぎない。何年たっても、何が起きてもメルは揺らがないように見える。

 明日になれば、筆記試験の合否が発表される。それに受かったとしても一週間も経てば試験は終わる。一月たてば、豊穣祭りは終わる。一年たち、十年たてば…… どこで何をしているかなんて想像もできない。けれど、今と同じではないはず。留まっていることはできない。どこかに向かって歩いているはずだ。その時に今のメルのように真っ直ぐ前を向いていたい。

「わかったわ。私にやらせて。きっとこの舟は、幸せをもたらす。メルにも、私にも、メルのパパにも、私達みんなに幸せを運んでくれると思うの」


 デッキからほど近い係留船。慎重に気配を抑えながらカナ達を注視する影が二つ。最後の夕日が紫に染めた髪にくっきりとした影を作っている。

「そんなにひどかったのかい」

しゃがれ声をいつもにもまして低くしたのはビックママと呼ばれる先代の巫女長。現在は、精霊アカデミーの顧問である。その声のトーンは弟子を案ずると言うよりは、呆れていると言った方がいい。

「ひどいというか、なんというか…… 要するに酒豪ですよ。私も、お酒には強い方だと思っていたのですが、カナの飲みっぷりに比べれば可愛いものですよ」

答えたのはエドワード・ヒルシュ。貴族の出で、表の顔は地図官である。

「で、筆記試験ができなかったから、やけ酒に走ったわけか?」

「それもあるかもしれませんが、ストレスというか、不安がたまっていたようです」

「不安?」

「将来に対する不安ですね」

「あのぐらいの年の娘なら皆そうだろう」

「そう言ってしまえばそうなのですが。カナの場合は、知らない世界で生きていく不安、親もいなければ、知り合いもほとんどいない世界で生きていく不安というのがあるのでしょう」

「で、お前さんは、あの娘の愚痴にじっと聞き耳を立てていただけ、というわけじゃないだろうね」

「もちろんですよ。こうしてビックママを呼び出したのもその成果ですよ」

「成果かどうかはこれからわかるだろうが、カナに接触してきた男の素性はわかっているのか?」

「ええ。名前はホセ・ガルシア、今は巫女・かんなぎ資格試験の受験生です。今年が二回目の受験で、聖オルレアン協会の職員宿舎に住んでいるようです」

「受験生ということは師匠の巫女、協会の巫女がいるのか?」

「ええおります。協会の北部支所に何人か巡礼巫女がいるのですが、その一人がここ二年ほど指導したようです」

「あれは、巡礼巫女じゃない。巡礼巫女は、アカデミーが認めた……」

興奮気味のビックママのセリフをエドがさえぎる。

「その話は置いておきましょう。その男の経歴がなかなか面白いのです」

「面白い?」

「ええ。もともと兵役についていたのですが、精霊使いの才能があったらしく、魔獣退治の前線にひっぱりまわされたようです。おそらく『探り』に優れていたのだと思います。最近の騎士は名前だけで無能な者が多いので、便利な駒として使われたのでしょう」

「有能ならば、騎士に採用してもよかったのではないか?」

「そうかもしれません。もしかしたら、嫉妬した騎士が握りつぶしたのかもしれませんが、事情は不明です。記録されているのは、その男が負傷し前線を離れて、北部支所のある街に配置換えになったと言うことです」

「配置換え? なぜ? しかも協会支所のあるあの街に?」

「少し前なら考えられらないことですが、王国軍にも協会の影響が及び始めたということなのでしょう。とにかく、そこで、男は協会に取りこまれ、今は、青靴会の新参メンバーだと思われます」

「青靴会か…… 厄介だな」

「ええ、明らかに犯罪の匂いがします」

「というと?」

「この間、北部支所の出納長に接触したのです。で、真実の種を飲ませました」

エドのその言葉を聞いたビックママは眉をひそめてこう言った。

「エド、荒っぽいことはするな。多少のことは庇えるが、容疑者でもないのに真実の種を使うのはご法度のはず」

「ええ、だから、種を飲まされ自白したことがばれないよう眠り種も一緒に飲ませました。記憶は曖昧だったはずです。もっとも、自白で得た供述も曖昧なので、結果的には真実の種を飲ませた方が良かったのですけれど」

「結果的には?」

「ええ、接触した後、出納長は行方不明になっています。青靴会に消されたようです」

「なんとまあ、青靴会もえげつないことをする。そうまでして秘密にしたかった情報はなんだ?」

「夢うつつに自白したのは青靴会という協会内の秘密結社に属していることと、北部妖変地域から密輸しているということです。何を密輸しているのかはわからないのですが、出納長自身が運んだこともあるようで、大きなものではないようです」

「ふーむ。所で、カナに接触してきた男が青靴会に属するというのは確かなのか?」

「懐に、靴型のメダルがありましたらから間違いないでしょう」

「よく、懐を探れたな」

「まあ、酩酊していましたからね。それに、色々喋ってくれました。あの男の情報は裏付けを取るだけでよかったので、助かりましたよ」

「酩酊してペラペラしゃべるのは雑魚ざこということか」

「そうかもしれません。どちらにしろ、男には標石しるべいしを持たせましたから、アジトが割れるのも時間の問題でしょう」

「結局、今の具体的な成果は、この迎え舟の儀式に合わせて何かが行われるという情報だけか」

「ええ」

「まあよい。こちらも、巫女筋からオルレアン協会の理事長が動くという情報を得ているから、何かが始まるのは確かだろう」

「継承者と自称しているあの理事長が出てくるのですか?」

「さあ、それはわからぬ。しかし一体何をしようとしているのか……」

「念のための私服の者を何人か配置しております」

「うむ」

二人は、黙って人々を見やったが、怪しい動きはない。


 おおっという声が湧き上がる。夕日の最後の一欠片が沈んだのだ。それを合図に、一斉に舟が浮かべられる。その数、およそ百。林立する帆がわずかな東風をはらんでゆっくりと湖面を滑っていく。示し合わせたかのように一斉に動いていくその様は荘厳である。


 どこからか、笛の音が聞こえてくる。低く、素朴な音色だ。人々が辺りを見回すが、笛を吹いている者などどこにもいない。

「見ろ! 西の方から、何かがやってくるぞ!」

と誰かが叫び、群集は日が沈んで間もない赤い水平線を見つめる。

 逆光の中の黒い点は、みるみる大きくなり、小舟とその上に立つ人影となる。ギリシア時代の衣装のような襞の多い服に、光沢のある赤紫のサッシュを腰に巻いた老女が立っている。その衣装から、聖オルレアン協会の巫女と知れる。真っ白な髪、深く刻み込まれた皺、この世の不幸をただその一身で背負っているような悲壮感は、却って清々しい。そばには、オカリナを吹く男がひとり控えている。

 真っ直ぐに岸の方へやってくる小舟が、迎え舟の群れに突っ込んでいく。老女が手招きをすると、迎え舟が小舟の舳先に集まりだして停止する。まるで、老女の意思を迎え舟がくみ取ったかのように見える。

 おおっというどよめきが沸き起こる。

「ちっ、やはりあらわれたか」

ビックママが忌々しそうに吐き捨てて、さらに悪態をつく。

「迎え舟を操るなど、聞いたことがないが、術の一種か? それともまやかしか? 老いぼれのくせに」

 エドから見れば、理事長も先代の巫女長もどちらも侮れない老いぼれではあるが、それを口にするほど無能ではない。

「トリックですよ。水面下すれすれの所で、2本のロープで小舟をこちらへ引っ張っているのでしょう。ほら、よく見ると波だっている線が二本、V字型の線が見えるでしょう。その水面下のロープに迎え舟が引っかかって、あんなふうに集まっているのでしょう。水軍が、敵の船を足止めにするのに使う手と同じですよ」

「そのロープを引っ張っているのは?」

「さて、何でしょう? 水面下に潜ませた青靴会の工作者か、それとも術師の操る大ナマズかなんかでしょう」

「なるほど、知恵のまわる策士がいるということか。で、一体これから何を始めようってんだい?」

ビックママは目を細めて湖上を睨んだ。


オカリナが止み、巫女の声が響き渡る。

「穢れなき者たちよ、汝らの願い、このオルレアンの継承者がしかと聞き、月神様に届けようぞ」

老女のわりには、その声は朗々としている。

「今宵より豊穣祭が始まる。国が汚した祭りは月神様の怒りに触れるだろう。科学というまがいもので精霊を侮辱した者を月神様は許さないだろう。月神様は鉄槌を振り下ろされる。皆の者! 今からでも遅くはない。悔い改めよ! 月神様の怒りにふれてはならぬ。悔い改めよ!」

 巫女の真っ白な髪が青白く光り出し、うっすらと炎が揺らめく。群集に動揺が走る。精霊使いが力を行使するときに髪が青白く発光することは周知の事実であるが、炎が出るのは異常である。

「案ずるな! 我が、その怒りを鎮めてみせようぞ。見るがよい!」

巫女は手を空中に高く差し伸べる。と、空中より白いさぎが舞い降り巫女の手に留まる。

「聖女、オルレアンが自らの血で神の怒りを鎮めたように、犠牲が必要だ。神の怒りを鎮めるための生贄が必要だ」

 巫女の頭の炎がひときわ大きく揺らめいて、一かたまりの炎が飛び出る。巫女の手を伝って昇っていき、留まっていた鷺を包む。驚いた鷺は『グァー』とけたたましい鳴き声を上げて舞いあがる。

 まるで火の鳥のように炎が羽ばたく。高く高く昇っていく青白い炎は、幻想的で美しいとさえ言える。残酷さを一片もまとっていないかのようである。

 しかし、鷺は火の鳥ではなかった。群集が固唾を飲んで見守る中、頂点に達したそれは、羽ばたきをやめ、再び『グァー』と鳴いて、落下していく。

 ピカっと鷺はひと際明るい閃光を発し、群集は目をつぶった。

 カナ達が目を開けると、鷺も巫女たちも消えていた。迎え舟の帆は風をはらみ何事もなかったかのように湖上を遠ざかっていき、カナ達は黙って顔を見合わせた。


 係留船に身をひそめていたビックママが呟く。

「精霊素漬けの鷺か。残酷な見世物だな」

「悪趣味ですね」

エドが頷く。

「まさか、真の生贄は……」

「真の生贄?」

エドの問に彼女は首をよこに振った。

「きっと、わしの考え過ぎだろう」

彼女は暗い水面を見つめた。


     *    *     *     *


 精霊アカデミーの中庭にいくつもの尖塔を擁した聖堂がたたずんでいる。その聖堂の壁に一次試験の合格者名が貼りだされた。

 昔、月神へ祈りをささげていたと言う石積みの聖堂は、アカデミーの中で最も古い建物である。形式的な儀式として残っていた祈りは、先の巫女長の代に一掃された。

 先代の巫女長はこう言った。神は祈るものではなく、理解するものであると。勉学と訓練を積み重ねて巫女の技を習得し、科学という姿勢で新たな技を編み出すことが神を理解することであると。

 確かに、レンズや鏡を用いた月光の実験や、金属容器を用いた熟成・非熟成実験など、ルナクルと呼ばれるようになった精霊素の研究は衝撃的であった。おかげでアカデミーからは宗教色が一掃され、王国内の聖職者のほとんどが失職した。

 今でも、ルナクルを抽出・精製することはできないが、わかったこととわからぬことを明確にするという態度が益を産み出す限り、大衆は科学を支持した。その結果、盲信を食い物にしていた似非聖職者は路頭に迷い、当時の巫女長であったビックママの命が狙われることになった。が、ビックママはいまだ健在である。

 そんな中で、オルレアン協会が台頭したのには訳がある。彼らは、大衆の素朴な信心に理解を示しつつ、王国内の巫女の絶対数の少なさに目をつけた。才能のありそうな者を豊富な資金源で支援し、多くの受験生を資格試験に送りこんでいる。そして、多くの合格者を抱えることにより、協会の基盤を強化してきた。

 問題は、協会がまっとうな手段だけを使ったわけではなかった点と、支配下の巫女を様々な裏取引の材料に用いた点である。また、王国の調査にも関わらず、協会の資金源の出どころもようとして知れない。アカデミーが警戒するのも頷ける。

 双方にとって資格試験は一大イベントである。オルレアン協会にとっては、送りこんだ受験生が合格しなければ投資が無駄になるし、アカデミーは公正で適切な試験と判定を実施しなければ、その存在意義が揺らぐ。そして、受験生自身にとっては、まずは筆記の一次試験を突破しなければ話にならない。


 ナパは術師の発表を、カナは巫女・かんなぎの発表を見に行く。一人は、人ごみを縫うように小走りに急ぎ、もう一人は、人ごみに押されながらゆっくりゆっくりと歩みを進める。小走りの一人はすぐに自分の名前を見つけ、カナの方へ駆け戻ってきた。そして、うつむきがちなカナの手を握った。

「そっちは、どうだった?」

というカナの問に、ナパは顔をほころばせながらも

「秘密」

と答えた。

「さあ、行きましょう」

ナパがカナを引きずっていく。


 二人は黙って掲示に視線を走らせる。

「……」

ふいに、カナの顔に朱がさす。

「あった、あそこ」

か細い声が、色付きのよい唇から漏れる。

「よかったわね!」

ばんばんとナパがカナの肩をたたくと、カナはへなへなと地面に膝をつけた。


「カナ~!」

カナの頭上からかん高い声が降ってくる。

「やっと見つけましたわ」

見上げると、黄色の大きなリボンを頭につけたソフィア・オルテスがいた。一昨日は、カナが落ちると言っていた人物である。この三日間カナが落ち込んでいた元凶が、

「よかったわね。カナならきっと受かると思っていましたわ」

としゃあしゃあと言ってのける。が、カナは怒る元気もなかった。

「ちょっと、あんた、よくも平気な顔をしているわね。カナがどれだけ落ち込んだか。全く……」

代わりに怒ったのはナパである。

「あっ、ごめんなさい。誰にでも勘違いはありますわ。明日からの実技、一緒に頑張りましょう」

あくまでも、軽いソフィーである。

 カナは立ち上がってスカートの土ぼこりを払い、頭を軽く振って気分を切り替える。

「実技は……」

「明日は、薬作りよ」

「薬なら、あたし達には楽勝ね」

ナパが自信たっぷりに言った。ナパの受ける術師の実技にも製薬があるのだ。ビックママからこってり絞られた彼女達にとって、製薬は容易いものだろう。が、カナにとってはその次の剣術が心配だった。

「それなら期待通りですわ。そして、その次がチャンバラで、最後がお医者様ごっこですわね」

ソフィーの乗りはどこまでも軽い。


     *    *     *     *


 製薬の実技はいくつかもの作業部屋に分かれて、一日かけて行われる。受験生は、当日朝、各部屋で課題となる薬の名を知らされて、与えられた材料で薬を作って提出する。煮込んだり、乾燥させたりと時間のかかる工程があるので、まる一日かかるのだ。そこそこの器用さとそれなりの経験があれば、通常は、それほど難しい試験ではない。

 試験の雰囲気も時間に追われる筆記試験ほどピリピリしているわけではない。試験監督は、最初の持ち物検査以外は、のんびりしているように見える。

 今回の課題は、血液をサラサラにする薬。比較的、製薬の難しい部類に入るが、各工程で、色、匂い、粘度、味に注意しながら作業すればよい。

 午後に入り、製薬もいよいよ佳境に入るころ、カナは息抜きを兼ねて、教室を出て手洗いに行った。

 作業部屋を出ると、筆記試験で隣だった眼鏡の中年男性が前方を歩いている。彼も手洗いなのだろう。一緒にやけ酒を飲んで愚痴をこぼしあった仲であるが、男の愚痴がどんな内容だったか、カナはよく覚えていない。かろうじて、ホセと言う名を覚えている。

 カナは、声をかけようか一瞬迷ったが、やめた。二人とも一次試験を突破したことなど話すことが無いわけではなかったが、試験中に話すべきことではなかった。

 十二分にリフレッシュしたカナは、手洗いを出た所で、青い顔をしたホセと鉢合わせた。

「やあ」

ホセの短い挨拶に、カナもまた

「こ、こんにちは」

と短く答える。

 そのまま、黙って作業部屋に戻ろうとしたカナは、妙な匂いに気がついた。どこかで嗅いだことのある匂いだった。

「あっ」

それは、カナ達が今まさに作ろうとしていた薬の匂いだった。その薬が完成した時に放つ甘い匂い。意識しなければ、製薬師でさえ見逃すほどのわずかな匂いであるが、その匂いは独特のものであり、他と間違いようのないものである。

 それがホセの方から漂ってくる。この時間、まだ薬が完成するはずはなく、その匂いがすることはあり得ない。そもそも、完成した薬はもちろん、材料でさえ、一切、作業部屋から持ち出してはいけないことになっている。

 思い起こせば、手洗いに行く前はその匂いは感じなかった。ということは、手洗いで、それを、完成品を入手したことになる。

 じっとカナを見つめるホセの額に汗が浮かんでいる。ホセの手がそろりと腹を抑える。

「……」

 きっと、カナの額にも汗が浮かんでいたはずである。

 ふいに、カナがホセに近寄り、有無を言わせぬ怪力でホセの手をどけ、自分の手を彼の腹に当てる。その瞬間、カナの髪が青くきらめく。

「えっ」

ほんの一瞬のことであった。ホセが瞬きをすると、もう青い光は消えており、カナが小走りに歩き去っていく所であった。

「熱っ!」

腹の上が燃えるように熱い。ホセは、あわてて手洗いに駆けこむ。そして、半ば茫然としながらも、灰になった薬、入手したばかりの薬を水に流す。


「話がある」

建物を出た所で、カナは背後から声をかけられた。小さいが、はっきりとした声だ。

 振り返るとホセがいた。眼鏡の奥の瞳が怒りに燃えている。カナに紙片を押し付けると、踵を返して、人ごみの中に消えていった。

 紙片には時間と場所が書かれてあった。誰にも告げずに、一人で来るように、とも書かれてあった。

 突然、後方から明るい声が響いてくる。

「どうだった、カナ? ばっちりだった?」

同じく製薬の実技を終えたナパだった。カナは紙片を握りこんで隠す。

「まっ、まあまあね。合格レベルの質はクリアできたと思うわ」

「そう、それは良かった。それじゃ、おいしいものを食べに行きましょうか?」

「おいしいもの?」

「都なんだから、おいしいものはいくらでもあるでしょう。それに、カナは、明日は剣術なんでしょう。よく食べて、よく寝る。それが一番よ」

致命的なハンディを抱えるカナを心配してくれているのだ。それでも、カナは

「ちょっと、一人で素振りをしたいから。遠慮するわ」

と答えた。ホセとの件にけじめをつけなければならなかったから。

「…… わかった」

カナの顔を心配そうに覗き込んでから、ナパは頷いた。


 あの時、手洗いの前でカナはとっさに判断、行動してしまったのだが、それが最善だったのかどうか…… 今更、考えても仕方のないことだが、考えずにはいられなかった。少なくとも、カナが薬を灰にしたことで、ホセは不正行為という最後の一線を越えずに済んだ。だが、ホセの人生を変えてしまったのは間違いないだろう。

 もし、カナが見逃し、ホセの不正がばれなければ、それでも良かったのかもしれない。

 嗅覚を失った者に普通の人並みの製薬を要求するのは酷であるし、それを配慮した試験をしてもよかったのかもしれない。でも、そんな人が資格をとって、質の悪い薬を作れば、被害を受けるのは患者である。

 結局、今の試験制度が変わらない限り、受験生はそれに従うしかない。同じことは剣術の試験にも言える。カナにトラウマがあるからと言って、剣術を免除するわけにはいかない。

 ホセに何と言えばよいのか。明日の剣術の実技をどうやって乗り切るのか。カナは特大の漬物石を背負ったような気がした。

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