試験監督
旧市街の北方は山地に続く緩やかな斜面となっており、白い土塀と白い建物の並ぶ白亜の屋敷街を形成している。ほとんどは、地方に領地をもつ貴族の別邸である。商売でひと財産を成した富豪は新市街に屋敷を構えているから、この白亜の屋敷街はどこかしら行儀のよい落ち着いた空気をまとっている。
そんな静けさの中で剣を打ち合う乾いた音が響いている。その響きの源はある屋敷の裏庭で、きれいに手入れされた芝生がそこだけ踏みならされてはげかかっている。
打ち合っているのは、革の防具を身につけたひと組の男女。男の長めの金髪が陽光をキラキラと反射し、腰まで届く女の結髪は弧を描いている。無駄のない剣筋から、男は相当な使い手であることが一目でわかる。女は善戦しているようだ。
「そうそう、振りが大きくなり過ぎないように…… 縮こまってもだめだ」
打ち合いながらも、冷静に声をかけているのはエドワード・ヒルシュ。
「この剣は…… 私には…… かる…… すぎるのよ」
剣の間合いから出るたびに少しずつ答えたのは、カナ・マツシタ。エドに切りこもうとするたびに、剣をいなされ、すぐさま返されるから少しも気を抜けない。カウンター気味のエドの反撃を何とか腕力と速さで防ぐ。
「試験に使われるのは、これと同じ剣だから、慣れてもらうしかない」
二人が使っているのは、細身の直剣。長さは兵士が装備するものより短い。巫女たちが護身用に使うことを想定している。カナの試験対策のためにエドがわざわざ入手したものである。
「そ、そうね…… でも…… エドの…… 相手が…… このぐらい…… できれば…… いいんじゃない? 剣で身を…… 立てるわけ…… じゃないし」
カナの言う通り、巫女は兵士でも冒険者でもないから、剣術を極める必要はない。だが、巫女はその希少性と価値ゆえに、攫われたり、脅迫される危険が大きい。実際に護衛がつくことも多いし、新人には盾と呼ばれる護衛が必ずつく。
精霊アカデミーが考えたのは、巫女が護身術として剣を使うことであるが、それ以上に重要だと考えたのは、巫女が剣を究めているという噂が立つことである。そうすれば、むやみに巫女を襲おうと考える者はいない。
噂が噂であるためには、真実が含まれていなければならない。そんな経緯で剣術が巫女の試験に組み込まれている。たいていの巫女、か弱い乙女には全く迷惑な話である。
外見はともかく、内実は男並みの腕力と、野生動物並みの敏捷さを持ち合わせているカナにとって、か弱い乙女でも合格できる剣術の試験など容易いものであるはず。はずではあるが、カナには大きなハンディキャップがあった。
「一旦、休憩にしよう」
エドがベンチに剣を置き、真っ白なタオルを二枚とる。そのうち一枚をカナの方へ放り投げる。空中で開いたそれは速度を落とし、ふんわりと落下する。カナよりもだいぶ手前の地面に落ちようとするそれを素早く突き出された剣先が受け止める。
「ちょっと、エド!」
ずぼらなエドに文句を言いながら、カナはゆっくりと剣を持ち上げ、ずり落ちてきたタオルを手に取る。本来ならその剣は陽光をキラキラと反射するはずであるが、剣身にはサラシが巻かれてある。エドの剣も同様である。
銀色に光る刃はカナのトラウマである。元の世界で通り魔に遭って以来、刃物は包丁ですらだめである。ある時から剣術の訓練の時には、剣身を布で覆うことにした。そうすれば、カナは普通に剣を扱い、相手の剣を普通に見ることができた。ところが、生の剣を見るとカナはどうしようもなく体が硬直してしまうのだ。
実のところ、エドは剣術の試験を担当するはずの教官に会っていた。予備騎士団で同期だった友人である。久しぶり顔を合わせた二人は、庶民に人気のある酒場で旧交を温めた。その席で、エドは、カナの試験時に剣を布で覆うよう頼んだが、友人の答えは否であった。賊がわざわざ剣身を覆うわけがないという。その友人のまっとうな意見をエドはくつがえすことはできなかった。
慣れるしかない、トラウマを克服するしかないというのがエドの考えだった。そしてそれは簡単ではないし、誰にでもできるものではない。彼自身、初めて人をあやめた時、剣を持つことがトラウマになりかけたことがある。それ以来、エドは剣が嫌いである。必要のない限り剣を持つことはなかった。代わりに弓と石を好んだ。それでも、剣を持たせれば、一流の騎士や剣士以上の腕を見せる所がエドの非凡さを表している。
「さて、では本当の練習を始めましょう」
エドは、そう言って、剣身のサラシをほどき始めた。カナも頷いてほどき始める。
練習用の剣は刃引きされていても、鈍い光を放っている。カナは、ぎらっ、ぎらっと陽光を反射する諸刃の剣から思わず目をそむけた。
「さあ、立って」
エドが優しく声をかける。その声と容貌にカナははっとする。この世界で最初に出会ったのがエドであり、それからもう三年になるが、いまだに、エドの美貌と優しさに慣れなかった。もっとも慣れないのはカナだけではなく、年頃の娘は皆そうであろう。
とにかく、カナはエドが苦手だった。会えば、いろいろ世話を焼いてくれるし、優しいし、なによりもカナのことを考えてくれているのが口調や所作の端々に感じられる。ビックママに命じられてカナの相手をしていると言うのを差し引いても、エドの態度は立派である。が、違和感があるのだ。決して埋めることのできない溝が二人の間に横たわっているような気がする。目的を持つ者と持たない者、カナはそこが違うのだと思っていた。
一方、エドの方もカナに違和感を抱いていた。
初めてエドがカナに会った時、その暗く不安げな表情が自分にまで伝染するのではと危惧していた。それが三年たって、真っ白な大輪のバラのように育った。気品の中に浮かぶ意思の強そうな瞳と、時折見せる柔らかな笑顔は、世の男を魅了する。が、エドにとって、カナはライバルである。
自身を奮い立たせるためのライバルに育ってほしいと願ったのは他ならぬ彼であるが、順調に才能を伸ばしていくのを見ると、なんとも言えない感情を抱いた。単純な嫉妬心ではない。かといって友情でも、師弟愛でもない。エドはカナにどう接していいのか迷っていた。
会うたびに心がざわめく、その感情に名前があることをエドは知らなかった。
カナは、エドの剣をなるべく見ないようにして、笑顔を注視した。
「目をつぶって、剣を構えて!」
カナは静かに瞳を閉じて正眼に構えた。一瞬の静寂が辺りを支配する
「目を開けて!」
と鋭くエドが言う。カナが目を開けるのを確認するや否や、一足で間合いをつめて、剣を振り下ろす。
『カン!』
先ほどよりも澄んだ音が響く。カナがとっさに剣を上げて合わせたのだ。
「できるじゃないか」
エドは剣を引いて、
「そのまま目を開けて!」
と言って、今度は横から剣を薙ぐ。
エドの剣がカナの胴を打つ。ほぼ寸止めされた打撃にカナは顔をしかめるが、瞳はエドの剣を映している。傍目でわかるほど震えている腕は、先程から上がったままで、一寸も動いていない。
エドがため息をついて
「ふう。もういいよ」
と言うと、カナは剣を下ろし、目をつぶって深呼吸した。
「やっぱりだめだわ」
「ああ。でも、一撃目は体が無意識に反応できたから…… 剣を意識しないようにできれば、なんとかなるかもしれない」
二人は何度も同じことを繰り返したが、それ以上の進展はなかった。
巫女の試験は翌日から始まる。剣の実技試験は五日後であった。
* * * *
旧市街の外れに、城塞のような正方形の建物がある。三階建ての石造りの建物が、まるで回廊か壁のように広大な敷地を囲んでいる。四方それぞれ一か所に内側へ抜けるためのアーチが設けられ、精霊アカデミーの出入り口となっている。
カナとナパはその一つで門衛に受験票代わりの手紙を見せて、敷地の中に入った。入った所で、案内役の学生が指示をする。カナは右、ナパは左である。
「カナはそっちで、あたしはこっちだから……」
「ここで、お別れね」
とカナがさびしそうに言う。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。それじゃあね」
そう言って、カナは回れ右をして歩いていった。が、なんだか歩き方がおかしい。よく見ると右手と右足、左手と左足を同時にだして歩いている。それに気がついたナパは
「待って!」
と声をかけ、カナに駆けよる。そして、正面から抱き寄せ、額と額をつけてささやく。
「緊張しないで。教科書十冊丸暗記しているカナなら筆記試験なんて大したことはないわ」
「……」
「八割取れれば合格だって言うし。きっとカナなら満点よ」
「……」
「鉛筆さえ握れれば大丈夫よ」
「……」
「だから、落ち着いて。いつものようにやればいいのよ。時間はたっぷりあるし」
「あ、ありがとう」
カナはこわばった筋肉をゆっくり弛緩させた。ナパがほっとちひと息をついて抱擁を解いた。
ナパの後ろ姿をカナが見送り、両手で軽く頬を叩いて気合を入れる。そして、大きなため息をついた。
「鉛筆を握れるかどうか…… それが問題なのよねぇ」
カナにとって、試験と名のつくものは三年前の漢文の小テスト以来である。漢字を一画一画、丁寧にきれいに書いていたら、腕の筋肉がこわばり、しまいには胸の筋肉まで痛み出した。
筋肉がこわばるのは漢文だけでなく、他のテストでも同じであるが、特に漢字を書くとひどくなる。筆圧が高いのが悪さしているらしいとわかって、2Bの鉛筆を使い始めたところで、カナはこちらの世界に来た。
大きな教室に入ると、すでに多くの受験生が座っており、三人の試験監督が準備を始めていた。受験生のおよそ半分ほどは、紺色のガウンを着ている。ガウンには三日月の文様が白糸で刺繍されている。この文様は精霊アカデミーのシンボルであるから、ガウンの集団は内部生であろう。カナと同じぐらいか、もっと若い。もちろん、ほとんどが女生徒。ガウンを着ていない残りの受験生は年齢層が広く、十代から中年にまで渡る。
内部生の中にひときわ目立つ少女がいた。セミロングの金髪がきれいなウェーブを描いている。右耳の上の大きなピンクのリボンをつけた容姿は、まるで人形のように可愛い。おしゃべりに興ずるその声は鈴の音のようである。そう思って、カナが見とれていると、少女はふと視線を上げ、カナと目を合わせた。
カナがあわてて愛想笑いをすると、リボンの少女はニヤリと笑った。
この世界に来て、カナは勘が鋭くなったような気がする。このときも、カナは厄介な人物に目をつけられた予感がした。
少女はすくっと立ち上がる。頭一つ分、カナよりも背が低いが、その笑顔には、有無を言わさぬ威圧感があった。ずいずいとカナの方へやってくると、視線をカナの頭から足元へと移動させ、今度は下から上へと視線を戻していった。まるでコピー機が原本をスキャンしているかのようである。カナは思わず、自身の肩を抱いた。
「カナ・マチシタさんですわね」
「えっ?」
なぜ、カナの名前を知っているだろうか。しかも微妙に発音が違う。少女の一言で、カナはパニックに陥り、声が出なかった。
「……」
「ふーん、答えられないの?」
真下から見上げながらそう言う少女は、まるで悪魔である。カナは一歩、二歩と後ずさりするものの、少女もついてくる。
「あっ、あっ……」
カナの口がぱくぱく動くが、言葉は出なかった。リボンの少女はふっと表情を緩めると
「わたくしは、ソフィア・オルテスよ。ソフィーと呼んでね。よろしくカナ」
と勝手に名乗って、勝手に友人になった。元々友人の少なかったカナなので、友人ができるのは大歓迎ではあるが、カナがまともに喋る前に友人になるのには、唖然とした。
高圧的な物言いから、きっと貴族か、成り上がりの富豪の娘に違いないとカナは思った。そして、友人になるのはやめておいて方がいいと考え直し、
「よろしくお願いします」
と丁寧にかつ冷たく返事をした。
「ありがとう、友達になってくれるのですね」
ソフィーは嬉しそうにそう言うと、無理やりカナの両手を握りこんで激しく上下に振った。
ソフィーは言うことを言うと、またすたすたとガウンの集団の方へ戻っていった。どこまでも自分本意なお嬢様である。
カナは、深呼吸をして、自分の席に座った。隣の席は、珍しい男性受験生である。大柄な身体には似合わない細いフレームの眼鏡をかけた赤毛の中年男性。古ぼけた細身の直剣を大事そうに机に立てかける仕草は、優しさを体現しているようで好感が持てる。
カナが目を合わせると男は軽く会釈した。カナも会釈を返す。いきなり話しかけてきたソフィーとは大違いである。このぐらい控えめなのがカナには丁度よい。
カナは鉛筆を全て出して、机の上に並べた。その芯の先がわずかに丸まっているのが気になる。カナは、ブーツポケットから黒月晶石のナイフを取り出して、一本、一本の芯を尖らせ始めた。芯が尖っていないのが気になるのだ。そうやって何かに集中することで、緊張をほぐしていく。
「珍しいですね」
男が話しかけてくる。カナが何のことかわからないという顔をすると
「黒月晶石のナイフが珍しいのです」
と丁寧に言葉を続けた。
「あっ、これ?」
カナがナイフをほんの少し掲げてみせる
「そう。高価だったでしょう? 」
「さあ、貰い物なので」
「いいですね。黒月晶石の切れ味は独特だと聞いています」
男の言う通り、刃先の硬度は金属の刃よりも硬く、それでいて刀身には粘りがあると言われている。もっとも、カナはこれ以外のナイフを使ったことがない、使えないから、他のナイフと切れ味を比較したことはない。
それでも、カナはナイフを褒められて、ほんの少し嬉しくなった。
「よかったら、切れ味を試してみます?」
カナはナイフをくるりと回転させ、木製の柄の方を男に差し出した。男は一瞬だけ躊躇して
「いや、遠慮しておきます」
と言った。その遠慮がちな所が、よい印象を与える。よく見ると、眼鏡の奥の瞳は優しそうだし、質素な身なりも清潔感が漂う。若くはないが、年齢相応の落ち着きが相手に安心感を与える。
もし、彼もカナも合格したら、名前を聞こうとカナは頭でメモをした。
最初の試験は、薬学である。全部で五十問あり、そのうち半分は四択問題で、残りは記述式である。五十問の配点は同一で、八割が合格ラインである。
カナが受験する巫女・かんなぎの試験科目は、筆記(薬学、精霊学、治癒学)と実技(製薬、剣術、治癒)である。一方、ナパが受験する術師の受験科目は筆記(薬学、精霊学、石学)と実技(製薬、探り)である。どちらも資格試験であり、筆記各科目では、基準の八割を超えていなければならない。
つまり、不得意科目を得意科目でカバーするということはできない。いかに点をとるかというよりは、いかに点を落とさないかが重要となる。
記憶力のいいカナにとって実力が発揮できれば、筆記は楽々クリアできるはずである。カナは、難しそうな記述式から手をつけた。
夢中になって解いていた。そして、気がついた時には、字が震えていた。指がこわばり、思うように鉛筆を動かなくなっていた。いつもなら、こわばり始めたと気がついた時点で、一旦、指を休ませ、筋肉をほぐしていた。だが、この日は緊張でそれに気がつかなかった。記述を終わらせるまでは、一気にやってしまおうと頑張った結果、指のこわばりに気がつくのが遅れた。だが、ここまで、こわばってしまうと、ちょっとやそっとでは治らない。
カナはあわてて、グーパーを繰り返したが、一向にこわばりはとれない。勢いをつけて手首から先をぶんぶん振ってみるが、なんともならない。指と色々格闘して、ふと、壁にかけてある時計を見ると、残り時間は多くはないのがわかった。
男性の試験監督が一人、こちらへやってくる。靴音を抑えた歩き方でやってくる。カナの不審な動作を見とがめたのだろう。頬を冷や汗が伝う。こうなると、もう、あとは…… パニック障害の始まりだ。
監督は隣の席の眼鏡の受験生と小声を交わした。監督がやってきたのは、カナを不審だと思ったわけではないらしい。その受験生はトイレに行きたいと言っている。とっさにカナは手を上げ、自分もトイレに行きたいのだと小声で言った。監督はニコリとすると黙って頷いた。
三人はそっと教室を出る。眼鏡の男性は、青い顔をしている。きっとカナも同じように青い顔をしているだろう。エールを送るつもりで、カナがぎこちない笑顔を作ると、監督が二人に黙っているよう仕草で指示する。受験生同士が話をするのを警戒しているのだ。
カナは女性トイレに、眼鏡の男性は男性トイレに入っていき、監督はトイレの前で待つ。カナは、とりあえず、個室に入って用を足すふりをする。水分なんて、一滴も出なかった。全て、汗になったのだ。洗面所で入念に手を洗い、両頬を叩いて気合を入れる。とりあえず、パニック障害は治まったが、指のこわばりはまだ解けない。
トイレを出た所で、監督がカナに声をかけた。監督と受験生が話をするのは問題ないようである。
「指の調子はどうですか?」
「えっ?」
「こわばっているのでしょう?」
どうやら、カナの苦境を知っているようだ。監督はまだ若い男性。浅黒い肌に白い歯がまぶしい。遠目にみれば悪戯好きの小僧のように見える。とにかくニコニコしている。
「ええ」
とカナが返事をする。
「ところで、あなたは手をちゃんと洗いました?」
「へっ? あ、洗いました」
まるで、小学生扱いである。どちらかと言うと潔癖症のカナは、いつも入念に手を洗うから、そのような心配は無用である。監督はカナの手を取る。
『パク』
何と! カナの指を咥えて、舐め始めた。
「ひぇっ!」
熱く長い舌がカナの指に絡みつき、思わず声が出る。
指先がジンジンと熱くなる。その熱は手首、肘、肩を通って心の臓へと達し、それからゆっくりと全身が温かくなる。と、急に膝に力が入らなくなる。空いている方の手を壁につけ、かろうじて膝を折らずに踏ん張る。
「はぁ~」
かすれるような声が自然と漏れ、その思いがけない色っぽさにカナ自身が恥ずかしくなった。
ようやく若い監督は咥えていた指を離した。
「どうです? やりすぎましたか?」
「えっ? 何?」
「何って、決まっていますよ。筋肉をほぐしたのですよ」
カナが指を動かしてみると、確かにこわばりも緊張もなくなっていた。これは一体どういうことであろうか?
「…… つまり、治療したってことでしょうか?」
「そう、その通り。指先へとつながっている神経の異常代謝を抑制しました」
専門用語を使うことから、監督はかんなぎだと思われる。そのかんなぎが病気を治療するのと同じようにカナを治療したのだ。ということは、巫女の卵であるカナにもできるかもしれない。筋肉がこわばれば自分で自分を治癒すればよいのだ。カナは、今まで、それに気がつかなかった自分が情けなく思えてきた。
それにしても…… カナは疑問を口にした。
「どうして? どうして私を治療してくれたのですか?」
カナの疑問も自然だ。カナだけを治療すれば、不公平ではないかと考えたのだ。
「巫女の試験は資格試験です。あなたに実力を発揮してもらいたいのです。その実力が巫女にふさわしいかどうかを見極めるのが今の試験ですから」
なるほど、競争ではないから、ある受験生を治療したからと言って不公平になるわけではないのだ。
男子トイレから、眼鏡の中年男が出てくる。青い顔をしている。監督は、今度は彼の腹に手を当てて治療した。お腹を壊したのだろう。
カナは監督の唾をハンカチで入念に拭きながら、治療のために指を舐める必要があったのだろうかと考えた。
教室で、再び問題を前にして、カナは青ざめた。四択問題が手つかずであった。試験時間はあとわずかである。目をスキャナーのようにして、急いで解き始めるが、時間が足りない。結局、最後の十五問は秘策を用いた。
『ゴーン、ゴーン』
試験終了を告げる鐘の音が無情に鳴り響く。
ぐったりしたカナは机に突っ伏した。誰かがやってくる気配がする。
「カナはどうだった? 途中、教室を出て行ったけれど、気分が悪くなったの?」
カナの頭上に鈴の鳴るような高い声がする。ソフィーだ。悪いとは思いつつ顔を上げる気力も湧かなかった。
「一度死んだけれど、今は、大丈夫」
「あははは」
大きな笑い声に、むっとしてカナは顔を上げた。
涙目のカナを見て、ソフィーはサラリと言う。
「ごめん、ごめん。でも、簡単だったじゃない。私は満点よ」
確かに、時間さえあれば、カナも満点に近かっただろう。
「時間が無かったのよ。記述式は解けたけれど、四択の最後の十五問は、問題文を読めなかったのよ」
「と言うことは、残り三十五問が合っていたとしても七十点で、不合格と言うこと?」
さずがに、ソフィーは同情して深刻な顔をしてくれる。
「いえ、最後は秘策を使ったの」
「秘策?」
「そう秘策よ。四択問題の場合、正解は三番目である確率が高いの」
「正解の確率? どうして」
「どうしてって…… それは、作問者の心理よ。初めの方は正解にしたくないと言う心理が働いて不正解が多いし、最後は最後で目立つから、やっぱり不正解が多いのよ。だから正解は三番目である確率が高い」
「へぇー よくそんなことを考えるわね」
ソフィーが感心するが、これは、カナが中学受験の時に塾で教えてもらった秘策だ。正解がランダムに出現するとして、四択であるから、あてずっぽうで回答しても二割五分ぐらいは正解になる。もし、秘策の通りの確率であれば、さらに正解は増えるだろう。
カナが、まともに解いた三十五問は、満点の自信があるから、残り十五問中五問を正解できれば、八割正解で合格だ。カナは五問以上で正解が三番目であることに賭けたのだ。
上を向いて考え込んでいたソフィーが口を開く。
「四択の最後の十五問よね…… 三番目が正解なのは四問。つまり」
「つまり?」
カナにもソフィーの言った意味がすぐに理解できたが、そう簡単には理解したくなかった。ソフィーが最後の審判を下した。
「つまり、カナは七十八点で不合格」
「……」
その後のソフィーのセリフはカナの右耳から左耳へと抜けて行った。
「残念だわ~ 折角、先代の巫女の一番弟子と言う評判の美女と同期になれると思ったのに…… ゆくゆくは、オルテス家専属の地の巫女として、領地の発展に貢献してもらおうと思っていたのに…… まあ、一年後輩の方が付き合いやすいかもしれないけれど……」
カナは残りの筆記試験、精霊学と治癒学とを無難にこなした。もう緊張する気力も湧かなかった。ソフィーは残りも満点だったと、サラリと言った。わざわざ、それをカナに告げるのは、彼女がマゾだからであろう。もちろん、カナも残りは満点の自信があったが、黙っていた。他の筆記が満点でも薬学で基準の八割に達していなければ不合格であるから、口に出して言っても余計に落ち込むだけである。
指がこわばったのは誤算であった。若い監督が筋肉をほぐしてくれたのは、嬉しい誤算であったが、結局は時間が足りなかった。
カナは、後悔し、落ち込んだ。
カナの気がつかなかった誤算がもう一つだけあった。ソフィーは満点ではなかったのだ。ソフィーはそのことに、内部生同士で答え合わせをしていた気がついた。が、そのことをカナに告げる前に、カナはアカデミーを去っていた。
* * * *
宿に帰ったカナは、一人にさせてほしいとナパに言った。護衛であるナパはなかなか承知しなかったが、最後には、人のいない所には行かないようと条件をつけてOKを出した。
カナは一人で夕飯を食べてくると言って宿を後にした。
祭りの初日を翌日に控えたシエーナの街は賑やかである。夜の食堂からは陽気な笑い声が聞こえる。カナは小さくて静かな食堂を選んだ。
ランプの灯る小さなテーブルが並ぶ店内は、シックな装いで、小奇麗だ。なるべく客の少ない辺りをと、見回すと、赤ら顔、赤毛の男性と目が合う。
先方もすぐに気が付き、手招きをする。試験会場で隣に座った眼鏡の男性である。
「こんばんは」
とカナが挨拶をすると、男は
「やあ、また会ったね。そこに座ってよ」
と言って、小さなテーブルの向いを指さす。カナは一人で夕飯を食べるつもりだったが、この男性なら、余計なことは言わないような気がした。なによりも、男性の視線に、娘を見るような温かさを感じた。
最近、カナは自分に向けられる視線の匂いを感じられる気がしていた。視線の匂いというのは変な表現であるが、カナにとっては匂いに似ている。
カナに向けられる多くの視線は、異性としての視線である。特に若い青年は、ほとんどがその匂いを帯びている。年齢が上がってくると、可愛がる視線が増えるし、商売人だと隙を窺うような視線も多い。子供の場合は、おねだりする視線が多く、次いで尊敬する視線、畏れる視線が多い。
目の前の中年の男性から邪悪な匂いは感じられない。子供がいてもおかしくない年であるから、カナを見て自分の子を思い出しているのかもしれない。
カナは大人しく座った。
「お酒を飲んでいるのですか?」
男が握るグラスには透明な液体が入っている。蒸留酒であろう。
「うん。これは、麦焼酎のストレート。今日は、そういう気分なんだ。君は?」
「私は……」
カナは、やけ食いをするつもりだった。ラーメンでもオムライスでもなんでもいいから二人前頼むつもりだった。
筆記試験の結果は、明後日発表され、合格者は実技試験に臨む。薬学を落としたことがほぼ確実なカナは、実技試験を受けることはないだろう。不合格なら、来年も受ければいいだけであるから、今までの勉強が無駄になるわけではない。だけど今は、そんな先のことまで考えられなかった。ただただ、忘れたかった。試験のことなど忘れたかった。
「私も同じ気分。同じものをもらうわ」
そう言って、カナは麦焼酎のストレートを頼んだ。
一刻ほど経った後、酩酊した男女がうつむいたままグラスだけをわずかに持ち上げている。
「ホセさんの娘に乾杯!」
「それじゃ、僕は、カナさんの初恋の相手に乾杯!」
カナ達は乾杯をした。カナの記憶が正しければ、イモ焼酎に変えて三杯目である。ナッツとドライフルーツを形ばかりのつまみにしてぐいぐい飲んだから、酔いが回るのが速い。酔っているのはホセと呼ばれた眼鏡の男性も同じ。
酒の席であるから、どういう経緯で愛娘と初恋が話題なったかなんて二人は覚えていない。それでも、意気投合したことだけは確かである。二人とも試験に苦労したこと、二人ともその試験に落ちそうだということで共感したのだ。
「薬学なんてくそくらえ!」
「そうだ薬なんて、術師に任せればいいんだ!」
酒がストレスを発散させるとすれば、普段言えない悪口、愚痴を言えるからであろう。
「カナさんはえらいっす。俺がそんな境遇だったら、泣いていましたよ」
「ホセさんだって偉いわ。いくら娘のためとは言え、そんな悪妻に耐えていたなんて」
酒の力を借りて、ひとしきり自分の不幸を披露し、互いに慰めあえば、飲酒の目的はほぼ達成されたと言っていいだろう。
「あたしは、いつか、世界中を巡り歩いてファンタジー小説家になるの」
「俺は、悪代官になってハーレムを作るぞ」
意味不明の大風呂敷を広げるようになると、酒宴の終わりは近い。大抵は、しらふの者が一人くらいは居て、宴が乱に変わる前に終わらせるのだが……
「ちょっと、あんたたち、何やっているの!」
いつの間にかやってきたナパが、二人の頭に冷水を注いだ。
念のため。日本では飲酒は二十歳になってからです。異世界では?