裸足の少女
枯れたバナナの葉で葺いた片幅十メートル程の三角屋根が幾列も続いている。一列ごとに屋根の高さが上下しており、隣の屋根との隙間が採光と換気に使われている。それら全体が一辺一スタジオン(約二百メートル)の広大な天井を成し、その天井は等間隔に立てられた丸木柱で支えられ、下から見上げる高さは背丈の四倍ほどである。
天井の下には絵具箱のように様々な色が広がる。籠に盛られた赤や青の果物、銀色に光る鮮魚、原色豊かな布地の山、重ねられた白磁の器、吊り下げられた茶の革製品、ガラスケースの中の金銀の装飾品。食材から宝石まで、ありとあらゆる品物が並べられた市場が広がる。ここはシエーナと呼ばれる王都でも有数の市場である。
市場には食事処もある。リズミカルに野菜を切る横で、蒸籠が白い蒸気をあげる。揚げ物が景気の良い音を響かせる横で、山盛りされた白米が供される。売り子も客も区別なく、市場の喧騒に負けじと食事をしている。この都が豊かであることがよくわかる光景だ。
どんなに豊かな街であっても、必ず貧しい者がいる。
元は白かったと思われる薄汚れたワンピースに垢じみた濃緑色の腰紐。明らかに貧しいとわかる裸足の少女が立っていた。年の頃は十歳。痩せているし、胸も平坦であるが、赤毛は手入れをすれば輝きを放つだろう。その少女の大きな瞳には、麺をすする二人の美女が映っていた。
そろいの麻のチュニックに紅潮した頬。一人は金髪をポニーテールにした美女。くりくりした青い瞳とショートパンツから覗く足が活動的な印象を与える。もう一人は豊かな黒髪を低い位置でゆるく結わえており、伏し目がちの瞳と六分丈の黒パンツが落ち着いた印象を与える。十八歳になったナパポーンとカナである。
二人は、ビックママと王都シエーナに来たところである。これからしばらく都に滞在して、ナパは術師の、カナは巫女の資格試験を受けるのである。
宿に荷を置くとビックママは顧問である精霊アカデミーに用があると言ってすぐに出ていった。彼女が出て行くのを待ちかねたかのように、二人は街へと繰り出した。何せ王都は二人とも初めてである。
二人とも受験生であるから、直前まで勉強していてもいいはずであるが、ナパは、少しぐらい勉強したからと言って合否が変ることはないと言い、カナは、緊張をほぐす方が大事ともっともな言い訳けをし、互いに頷きあったのだ。
まずは珍しい物をと、市場を徘徊し、ひと巡りした二人は、今、麺をふうふう言いながら食べている。二人が顔を紅潮させているのは、熱いからではなく、辛いのである。
カナがふと視線をあげる。
「あれ?」
「どうしたの?」
ナパが箸を止め、怪訝な表情でカナを覗き込む。
「誰か、誰かに見られている」
「どこ?」
ナパと違って、カナは視線、気配に敏感である。ほんの一瞬目をつぶってから
「後ろ!」
と言って、勢いよく振り向く。遅れてナパも振り返る。ビックリした顔をしている男がちらほら。美女が二人揃っているのだから、注目を浴びないはずはないが、明らかに怪しい男はいなかった。
「へんねぇ、確かに不穏な視線を感じたのだけれど……」
「カナの気のせいじゃない。それに、田舎者は目立つのだと思うわ」
自分たちは田舎者だとナパは思っている。田舎者というのは、あながち間違いではない。実際、二人とも審美眼が肥えていないから、自分たちが美人であるとはつゆほども考えていなかった。
カナは、稲穂の文様を刺繍した藍染の巾着袋をテーブルの上に置いていた。それがすっと移動してカナの視界から消えた。
「あっ、調! あたしの調が!」
カナが目で追う先には、痩せた赤毛の少女の後ろ姿。カナが震える声をあげる。
「と、盗られた…… ど、泥棒!」
残念なことにその声は、市場の喧騒に埋もれるほど小さい。カナが立ち上がり、少女を追いかけ始める。
事態をすぐに理解したナパが大声で
「泥棒!」
と叫ぶ。座ったナパからカナが逃げていくように見える。カナの行く手を一人の男が塞ぐ。迷彩柄のTシャツを着た筋肉男が両手を広げている。
「お前か、泥棒は!」
カナを泥棒と勘違いしたのだ。
「ち、違う。私じゃない!」
「お前だろう!」
ナパが追いついて男の誤解を解くが、既に、赤毛の少女は遠くへ行っている。
多彩な市場でも動く赤毛は目立つ。カナは筋肉男をひと睨みすると、少女を必死で追いかけ始めた。人ごみの中を左右にステップを踏みながら器用にすり抜ける。竹やぶの中でイタチを追いかけることを思えば、動きの遅い人ごみなど彼女の障害ではない。ぐんぐん距離を縮めていくカナに少女が青ざめる。と、少女が巾着袋の首にかけ、一本の丸木柱を登り始めた。登れるように金属のかすがいが打ち込んである。そこに手と足を駆け、裸足でするすると登っていく。ワンピースの内側が見えるのもかまわずに、細い足で登っていく。カナが丸木柱のかすがいに手をかけると同時に、少女は屋根の上へと消えた。
カナが藍染の巾着袋に入れて持ち歩いていたのは調。調は巫女が診断と治療に用いる大事な道具である。外見は聴診器と同じであるが、重要なのは霊石(追熟成した宝石)である。それにより、精霊素を介した診断と治療の精度が著しく向上する。カナの調には、薄レモン色の霊石がついている。
調が高価な道具であることはもちろんであるが、カナのそれは、伝説の巫女と呼ばれたリンダ・ショウインの遺品である。彼女の遺言によりカナが譲り受けたものであるから、お金には換えられない。失うわけにはいかなかった。
カナが登りきった所は小さな物見台のようになっており、周りが見回せる。手すりには、端をくくりつけた長い縄がかけてある。屋根の修理の時に命綱として使うのだろう。赤毛の少女は物見台から続く三角屋根の尾根を走っている。尾根の部分だけが板、いわゆる棟押さえ板で覆われており、そこを裸足で走るタッタッタという軽い足音が響く。カナもその板へそっと降り立つ。カナの体重に耐えられる強度はありそうだが、余計な力を加えれば、板を留めている細縄が切れるだろう。
カナは猫のようにしなやかな足運びで追いかけ始めた。そのスピードは野生の獣そのもの。あっという間に追いついたカナは少女の腰紐をつかまえた。
「くそっ!」
少女があばれ、二人はバランスを崩す。カナが踏み出した足の下はバナナの葉。つるっと滑り、思わず少女の腰紐から手が離れる。すってんと転んだカナの体が、そのまま傾いた屋根を滑り落ちそうになる。
とっさに両手を棟押さえ板にかけたことで、カナの体が停まる。隣を見ると少女も同じような格好をしている。少女も転んだのだ。
「返しなさい!」
カナが巾着袋に片手を伸ばし、それを少女が振り払う。
「ちょっと! 危ねぇな!」
少女の口調はまるで男の子のように荒い。だが、黙っているわけにはいかない。
「だったら、素直に返しなさい!」
とカナは言って、手を伸ばすが、はたかれる。
「触るな! 落ちるだろう! この高さならただじゃ済まねぇ」
少女の身勝手な文句にカナは唖然とし、言葉が出なかった。少女の舌は止まらない。
「落ちて死んだら化けて出るぞ! ばばあ!」
プチッと切れたカナは思わず、手と口を出した。
「このガキンチョが……」
少女はひょいとカナの手をかわし、素早くバナナ葺き屋根に立つ。少女は裸足であるから滑らないが、カナはショートブーツである。あわてて立ち上がろうとしたカナは再びすてんと転ぶ。棟押さえ板へ伸ばした手はむなしく空をつかみ、するするすると斜面を滑っていく。
カナは思い出していた。小学生になったころだと思う。近所の公園で滑り台を何度も何度も滑った。足を下にして、両手をばんざいして、仰向けになって滑っていく。他に誰もいないのをいいことに、登っては滑り、登っては滑り、そうやってぐるぐる回った。父親が呆れ返ってもやめなかった。よほど面白かったのだろう。その時の面白さを今のカナは思い出せない。
「キャー! 滑る~!」
受験生にとって『滑る』は禁句であるはずだが、隣の屋根との隙間へカナが吸い込まれていく。悲鳴を上げたまま採光と換気のための隙間へと吸い込まれて少女の視界から消えた。そして、バンという大きな音が響く。赤毛の少女はにんまりとして、再び屋根を歩き始めた。
少女は市場の隅の柱を滑るように降りて、周りを見回す。市場は先ほどと同じ喧騒の中。猫とネズミの鬼ごっこなど誰も気にかけない。少女はほっと胸をなでおろして、小型船の並ぶ河岸へ出た。
と、巾着袋の紐が首に食い込む。
「うっ」
振り返ると、怖い顔のお姉さんが巾着袋をつかんでいた。
「返してもらうわよ」
カナは巾着袋を少女ごと引き寄せて、首から抜きとる。そして、すぐに少女の手首をつかんで目を細めた。
「さて、おいたした子はどうしましょうか?」
カナの怒りは収まりそうになかった。それでもナパが
「市場の警備員に突き出しましょう」
と言うと、瞬きをしてナパを見返した。そこまでしなくてもいいのではとカナは動揺する。
「頼むっ! なんでもするからそれだけは勘弁してぇ」
少女が涙目で懇願した。
「この子はきっと孤児よ、警備員に突き出せば、どこかの孤児院に入れてくれるわ」
ナパの口調は淡々としている。
「孤児院?」
「そう、孤児院よ」
「孤児院なんて可哀そうじゃない?」
「シエーナの孤児院は、どこもそんなにひどくないという噂よ」
親が孤児院を経営しているというナパの言うことだから、間違いではないのだろう。それでも、いきなり孤児院に放り込むのもどうかとカナは思案した。そんなカナに
「もし、孤児院がこの子を引き取らなかったらどうなると思う」
とナパが問いかける。
「さあ……」
カナには想像もつかない。ナパが少女の顎をつかんで、泣きそうな顔を上向かせる。
「この整った顔…… 遊女に身を落とすわ、絶対に!」
「えっ、遊女!」
カナは驚いて、ナパを振り返る。ナパは冷静だ。
顎をつかまれた少女が口を開く。
「孤児じゃねぇ。おばばがいる!」
それを聞いてカナはほっとするが、ナパが畳みかける。
「この子は、スリをしなければ生きていけないのよ。孤児じゃなくても孤児院の方が幸せだわ」
カナは目をつぶって考えた。この場の判断は彼女に任されている。警備員に突き出すのか、突き出さないのであればそのまま見逃すのか。その判断のいかんによっては、この子の運命が変るのだ。
ナパと少女が注目する中、眉を寄せていたカナの表情が急に明るくなる。
「とりあえず、罰として、この街を案内して頂戴。観光案内よ」
その答えに、カナ以外の二人が唖然とする。
少女はメルセデス・ガルシアと名乗った。
ルチエン王国の首都であるシエーナは、この国最大の湖であるマルテン湖の湖畔に位置する。マルテン湖自体は乾季と雨季で大きく水位と面積が変るのだが、シエーナの辺りは、水深が深く良港となっている。港から歩いて十分ほどの丘に宮殿があり、宮殿を中心にして旧市街が広がる。旧市街は城壁に囲まれているが、増え続ける人口は城壁の外へあふれ、旧市街を取り囲むように新市街が広がる。人口百万の都市を支えるためには、食料と水と燃料が必要であった。食料はマルテン湖周辺の平野から供給され、燃料は月晶石の形で同じ平野から供給される。どちらも船で運ばれる。大型帆船の場合は港で荷揚げされ、小型船であれは、新市街に張り巡らされた水路を使って、直接市場まで届けられる。
港と水運はシエーナが発展できた大きな理由であるが、もう一つの理由は街の北方の山から引いた上水である。途中までは露天掘りで、最後は木樋を通って、旧市街や新市街の各所に運ばれる。
三人の目の前で、盛大な噴水が虹を作っていた。そこは、旧市街にある大きな石畳の広場である。こぶし大程の四角い花崗岩を敷き詰めてある。その真ん中に丸い池があり、中央から四方八方に水が噴き上がっている。池の淵には老若男女が腰をかけ、思い思いにくつろいでいる。
広場を石造りの建物群が囲んでいる。たいていは、三階建てで、緑色がかった大きなブロック状の石を積み上げた壁の上に瓦屋根を載せている。壁石はきれいに切りだされているから大谷石と同様の凝灰岩なのだろう。
それらの落ち着いた色調と涼しげな水音と憩う人々の中で、ナパが田舎者丸出しのセリフを吐く。
「わぁ、すごいわねぇ。こんなに立派な噴水は初めてよ」
紹介したメルセデスは自慢げにほほ笑んでいる。
カナは元の世界の噴水を思い出していた。電気仕掛けの噴水は、もっと豪華でダイナミックだったし、スポットライトに水しぶきが浮かび上がる夜の噴水も見事だった。電気のないこの世界の噴水と比べるのは酷であるが、カナに比べるなというのもまた酷である。
彼女の冷めた表情を少女が見とがめる。
「カナは、珍しくないの?」
「あっ、いや、珍しくないわけじゃないのだけれど……」
わざとらしく喜ぶのも気が引ける。空気が読めないわけではないが、嘘をつくのは嫌いだ。
「あっ、メルちゃん、気にしないでね。カナはいつもこうだから。カナはからくりが嫌いなのよ」
とナパが茶化す。
「ごめんね、メルちゃん。お姉さんが感動できなくって」
カナはメルと呼ばれた赤毛の少女に素直に謝る。本名はメルセデスであるが、二人は勝手にメルと呼んでいる。メルセデス自身も、それを訂正しないから、その呼び名が嫌いではないのだろう。
噴き上がる水は池を潤し、四方へのびる小さな水路に流れこむ。水路上にはところどころに仕切り板が設けられ、それが流路を決めている。池のすぐそばにひと際大きい仕切り板があり、その先に人が入れるほどの大穴が口を開けている。暗く底が見えないその大穴は異質な雰囲気を醸し出しており、まるで、黄泉への入り口のようである。
「……」
大穴をじっと見つめるカナに、メルが声をかける。
「何だと思う?」
「つるべもないから井戸ではないわよねぇ…… 池の水を流すのだろうけれど……」
「いい線いっているぜ。この穴は下水につながってんだ」
「下水? 下水道が整備されているの?」
「その昔、疫病がはやったことがある。それから下水道を整備したと言う話さ。もっとも新市街の大部分には下水道は無いから片手落ちなんだけれど。とにかく、時々、掃除をするために下水道に池の水を流すんだ。ザッバーッとね」
カナは、歳にも身なりにも似合わない物知りな少女に当惑していた。きっとそれなりの家庭に育ったのだろう。それが、今は、薄汚い服に、靴もなく、スリにまで身を落とした。そして、いつかはナパの言うように遊女となるのだろうか。
カナは下水へ通じるという真っ黒な穴を見つめた。せめてもの救いは、少女の生意気さであろう。一方、カナは身寄りもなく、ビックママに養われている。少女に手を差し伸べることはできない。目前の試験に合格して巫女になるまでは、カナは非力な未成年である。
三人は、徐々に坂を下りながら名所を見て回る。
中央伝文局の裏手には、馬屋と鳩舎があった。馬は普通文、鳩は早文に使われる。馬屋は珍しくもないが、クー、クーと鳴く何百羽の鳩が首を並べる鳩箱は壮観である。
餌皿には独特の赤紫色の種が混ぜてある。『聞き種』と呼ばれるもので、鳩主の指示を理解しやすくする、指示に従いやすくするための種である。伝説的な『くぐつ種』のように強制力はないが、『聞き種』を飼料に混ぜることにより、早文の成功率が飛躍的に上がったとされている。
板塀に囲まれていた予備騎士団の敷地からは、『おっす! おっす!』という若者達の声が聞こえる。
「元気がいいわね」
とナパが言うと、少女は露骨に眉をひそめる。
「けっ、騎士なんておぼっちゃまの道楽だよ」
「道楽?」
「ああそうさ。安全な所で高みの見物をしてるのが騎士。矢面に立って魔獣と戦うのはパパみたいな兵士さ」
「ふーん、メルのおパパは兵隊さんなの?」
とカナが尋ねる。
「そう、二年前から、二度目の兵役でバモーの森に行っている」
バモーの森は、カナも知っている。北部妖変地域に隣接するチークの森である。王国の材木の主要産地であり、直轄地となっている。ただ、妖変魔獣が多いことでも知られ、王国の騎士と兵士から構成される軍一個旅団が常駐している。王国軍の駐屯地としては危険度が高い所である。
「それじゃ、もうすぐ兵役が終わるんでしょう。パパが帰ってくるんでしょう?」
ナパの問いかけに少女は目を伏せる。その表情は暗い。
「多分…… いや、絶対、帰って来る」
そう言って、少女はこぶしを握りしめた。
兵役中に魔獣との戦いで命を落とすこともないわけではないから、それを心配しているのだろう。ナパが不用意に
「パパが帰ってきたら、メルとママで歓迎しないとね」
と励ますが、少女は唇を震わせた。
「ママはいない」
「…… あっ、ごめん…… 亡くなったの?」
「あの女、裏切り者は出て行った。パパのお金を持って別の男の所へ行った」
「……」
ナパとカナには、返す言葉がなかった。
* * * *
この国の兵力は、プロである騎士と兵役に応募した兵士で構成される。どちらも国から給料をもらうという意味では同じである。たいていの騎士は、予備騎士団での三年間の訓練を経てから正規の騎士に採用される。一方、兵士の方は、貧しい者が稼ぐ手段として兵役につくことが多い。そうやって編成した王国軍が国防を担うのだが、主な役割は、国境から侵入してくる魔獣の退治である。
もっとも、長大な国境線全てを監視し、侵入する魔獣を完璧に駆除するのは無理であり、打ち漏らした魔獣を退治するのが冒険者と呼ばれる者たちである。冒険者は国境に近い町や村の依頼を受けて魔獣を退治するが、ほとんどは歩合制であり、魔獣探知と退治の能力がなければやっていけない。
結局、腕に覚えがあり、安定した職を望むものは騎士となり、組織を嫌って自由を好むものは冒険者となり、金のない者は兵役に応募する。
現在、王国では、食糧、エネルギーは足りており、敵対する国外勢力もほとんどないため、妖変魔獣が最大の脅威となっている。民から集めた税の少なからぬ割合が軍事費に回されるから、騎士、兵士の待遇はそれほど悪いものではない。家族に兵士が一人いれば、十分に生活できるぐらいの給与を得ることができる。ただし、危険と隣合わせであることと、頻繁に家族の元に帰るわけにいかないことから、多くの兵士は二年間の兵役を終えてやめていく。
兵士をやめて、皆が皆、別の職につけるわけではない。中には何度か兵役を続けた後に騎士に転職する者もいるし、地方都市専属の守備隊に入隊する者もいる。
国が民と地方に供給する最大のサービスはこの軍事力であるが、もう一つ見逃せないのが巫女の存在である。精霊アカデミーが巫女の資格試験を行い、毎年、五百人ほどの新人の巫女が誕生する。その大部分は女性であるが、毎年十人前後の男性が合格する。男の場合はかんなぎと呼ばれる。
新人巫女は約二年間の巡礼を行わなければならない。平たく言えば、地方に設けられた巡礼診療所に赴任させられるのだ。半年ごとに診療所を移動しながらその地域の医療を担う。いわゆる『月の巫女』である。ある程度の規模の町になれば、高額の報酬と住環境で巫女を引き留め診療所を維持することができるが、小さな村は、王国の派遣する新人巫女に頼ることになる。といっても新人巫女の人数は限られているから、村は必死である。
巡礼診療所としての王国の指定を死守することはもちろん、見目麗しい男性に新人巫女の世話をさせ、結婚して村に住みついてもらうよう、つまり『地の巫女』となってもらうよう画策したりすることは普通である。才能がありそうな子供がいれば、学費・生活費を負担して精霊アカデミーの養成コース送りこむこともある。彼女が巫女となって故郷に戻ってくることを期待するのである。
巫女の資格試験と新人巫女の巡礼が制度として確立したのは、二百年ほど前のことであり、現在の月の巫女、地の巫女という呼び方の意味合いは古来とは異なる。制度のできる以前は、定住せずに移動しながら診療を行うことを巡礼、巡礼する巫女を『月の巫女』と呼び、定住する巫女を『地の巫女』と呼んでいた。どちらの呼び名も月神に仕える巫女に対する尊敬と畏怖の念が込められていたが、現在はそういう宗教色は薄れつつある。
それでも神への素朴な信仰心が民から消えることは無く、それを利用しようと機をうかがっている者たちがいるのも確かである。
八月は、新人の巫女、騎士、兵士が誕生し、彼らを送りだす月である。八月の満月の夜を末日とする豊穣祭はこの王都シエーナ最大の祭りであり、それはすなわちこのルチエン王国最大の祭りである。
元々、豊穣祭は、これまでの豊穣を精霊に感謝し、これからの豊穣を祈念するためのもので、全国の町や村で行われる。王都シエーナの祭りが、規模と派手さで他の都市を凌駕することは当然とし、ここの祭りは王国の権威を示す場でもある。すなわち、新人巫女、騎士、兵士の壮行式とパレードが祭りに組み込まれている。
* * * *
旧市街の門をくぐって新市街に入った所に駅舎があった。隣接する街へ行く乗合馬車、それらを利用する人々、馬の世話をする人々で駅舎の周りはごった返していた。
そしてそこから南北に新市街のメインストリートが走る。両側に立ち並ぶ商家は漆喰を上塗りした白壁の家々が多く、旧市街とは雰囲気の異なる明るい街を形成している。
そのまま、街路を横切り湖の方へと向かうと、いくつもの商店が見慣れない商品を軒先に並べている。三十センチほどの丸木に細い棒を立てて、小さな帆が張ってある。子供のおもちゃのような舟である。商品は二種類あって、一方には、こぶし大程の透明な月晶石がくくりつけられている。
メルの解説によれば、月晶石のない方が『迎え舟』で、ある方が『送り舟』である。迎え舟は祭りの初日にマルテン湖に浮かべられ、送り船は末日に使われる。元々は死者の魂を迎え、送りだすための儀式であるが、現在は、親しい人が無事に帰ってくることを祈り、親しかった者との別れにけじめをつけることに使われる。
軒下に火を灯した月晶石が一つ吊り下げられている。それに目を留めた一行にすかさず店主が声をかける。
「お嬢さん方、お眼が高いね。こいつあ、都にしかない新式の『送り石』だよ」
「新式?」
都以外の地方都市にも迎え舟、送り船の風習はある。ナパには、彼女の知っている送り石と同じように見えた。日に焼けた店主が真っ白な歯を見せて答える。
「そう、新式さ。火がともるのは当たり前だが、こいつは音が出る。ちょっと耳を済ませてごらんよ」
「……」
音など聞こえぬと怪訝な表情を三人が見せていると
『リーン』
ガラスの風鈴のような澄んだ音が店先に響いた。カナは、その美しい響きが辺りを浄化したような錯覚を覚えた。かっかっかっと店主が笑う。
「どうだい、良い音色だろう。別嬪さんには安くしておくよ。銀貨一枚でどうだい?」
「考えておきます」
ナパは笑顔を見せて、離れ難そうにしているメルを引きずって行った。
都から西方にマルテン湖が広がる。マルテン湖は巨大な湖である。三人が湖岸に到着すると、水平線に真っ赤な夕日が触れようとしていた。閑散とした左右の桟橋には夕日を受けて大きな影を従えた帆船が静かに並ぶ。凪いだ湖面に無数の波紋が浮かび、真っ赤な夕日を散乱している。
三人の正面には、まるで湖上舞台のような広い木製デッキが湖に突き出している。誰からともなく、自然にデッキへと歩みを進めた。そのデッキの先端で美しく静かな光景に魅入られた三人はそれぞれに沈思黙考する。
メルは首にかけた『双子石』を服の上から握りしめていた。父親が帰ってくることを願っていたが、不安もあった。ここ一年ほど便りがないのである。出て行った母親の元に父親の給与の大部分が毎月渡されているらしいことから、父親が生きているのは間違いないが、何を考えているのか、わからなかった。このまま父親が帰ってこなければ、ナパの言うように遊女にでもなるほかはないのかもしれない。
ナパは、術師になった後のことを考えていた。ビックママには好きにしていいと言われている。故郷で孤児院を開いている親の所へ帰ってもいいし、巫女となるカナの任地についていくのも魅力的だった。都でなにか大きなことをしたいという漠然とした思いもあった。いずれにしろ、ビックママの元に戻るつもりはなかった。
カナは日本を思い出していた。家族旅行で行った伊豆の海に沈む夕日も目の前の夕日に劣ることはなかったと思うが、もうその記憶も曖昧である。学校の光景、都会の雑踏の匂い、家族団欒の味、ゲーム仲間とのチャット。それらはどうやっても鮮明にならず、徐々に薄れていった。
ナパに促されて帰ろうとした三人は占い師に呼び止められた。