月想姫(番外)
雰囲気が本編とは異なるので番外としました。
さわやかな風が木造校舎を吹き抜けていく。
新学期を迎えたと言っても八年目となれば、生徒に初々しさはない。どこか人を馬鹿にしたような視線を送る女子たちは、新任教師にとっては侮れない存在だ。一方、男子は、時折爪を光らせることはあるが、まだまだあどけなさが感じられる。
八年生の社会の授業を担当することになったのは、新任の若い女性。新人らしく、七分丈スカートにハイネックブラウスを着ているが、団扇でしきりに顔をあおいでいるから女子の目は冷たい。つい先日まで学究の徒であったこの女性は、人に見られるということを理解していなかった。適当に香水を振りかけて、教頭先生に言われたとおりの服を着ていれば、それで済むと思っていた。そして、生徒に対しては、熱意を持って接すれば何とかなると考えている節がある。
「それでは、ショウイン君、朗読してください」
よく通る高い声が木の壁でわずかに反響する。若先生が名簿を見ながら指名した。
「えっ?」
少年は窓の外をぼんやり見ていた。
「……」
彼女はどうかしたのかとでも言いたげに顔をあげる。決して美人ではないが、眼鏡の奥の大きな瞳に見つめられると、ショウインはいつもドキドキしてしまう。
少年は早く大人になりたかった。早く小学校を卒業し、誰かの元で修行をして、手に職をつけて大人になりたいと思っていた。小学校で習う精霊学は家の本の知識に比べれば、まるでつまらなかった。ボールを持って運動場を駆けまわることなど、元剣士から習う剣術に比べれば、幼稚過ぎてやる気も起きなかった。早く大人になって、カナのそばに居たいと思っていた。
早熟な少年である。否、早熟であろうとする少年であった。だが、授業に身が入らないのは、それだけが理由ではなかった。
初めてショウインが彼女を見かけたのは、職員室前の廊下である。背のたかい女性が廊下をずんずんと歩いていく、まるでショウインなど見えないかのようであった。その残り香は、母親の薬の匂いとも、クリスの放つ洗濯の匂いとも違っていた。フローラル系の香り、わずかに甘ったるさも混じっている大人の香りであった。
少年は、若先生が気になってしょうがなかった。その結果、彼は窓の外を見て、授業に身の入らないふりをしていたのだ。そしてそれに気づいてほしいと無意識に考えていた。
「は、はい」
とりあえず、勢いよく席を立つ。隣の女子が机の上の紙片を朗読するよう小声で教える。ショウインは、ちらりと先生を見やってから、ゆっくりと読み始めた。
* * * *
月想姫
夏祭りの帰り路、浴衣を着た小さな君は紅の髪飾りをつける。母の手を握りつつ、はしゃぐ。そんな穢れを知らぬ君を宙のウサギが見守る。
欠けゆくそれは白く輝く弓となったかと思うと、暗赤色の円となる。いつも利発そうな君も、この時ばかりは呆けていた。そんな君の肩に父が手を置く。
月は慈しみ、月は憧れ。
人類最初の一歩。その白黒画像をくい入るように見つめる君の手は汗で湿る。あたしも行くと昂然と言い放った君に親友がほほ笑む。
隠れていた金星が暗縁から顔を出す。その煌めきは黄玉。指を絡めて見つめあう君たち。その瞳の輝きは金星にも劣らない。
月は勇気、月は希望。
疲れを知らぬ君。仕事が楽しくて仕方ないと言う。きっと君の心の中には熱いマグマの海があるのだと思う。
想い人は、いつも別の娘を見ていたことに君は気づく。真夜中の林を彷徨う君を十六夜の光が導く。
月は源、月はしるべ。
一人旅。飛び立つ孤独なそれを、首が痛くなるまで見上げ続けた君。サトウキビの柔らかな甘みと、耳に残る轟音を決して忘れない。
高層住宅の狭い部屋を駆け回るやんちゃに嘆息する君。終の住まいは静かに地球を愛でられる表側がいいと言う。
月は過去、月は未来。
いつも、君の胸には月がある。
僕にも夢と憧れがあったことを忘れていた。僕には誇りと翼があったことを忘れていた。だけど、今の僕の翼はとてもひ弱で雲母のように薄い。
だから、待っていてほしい。いつか、大きな翼を力強く広げて迎えに行く。君を背に乗せ、月へ行こう。アペニン山脈を飛び越え、雨の海を泳ぎ、しるしを辿ってコペルニクスの縁に立とう。
月はしるし、月は約束。
* * * *
「ふぅー」
少年は大きな息を吐いた。途中から若先生が彼の横に並び立っていたのだが、ブラウスのボタンが二つほど外れて豊かな胸が覗いているのに気がついた少年は、朗読している内容が全く頭に入らなかった。きちんと読めば、彼は作者に共感しただろうに。
「はい、よくできました。ご苦労様」
若先生がそう言って教卓の方へ戻っていく。ショウインは、大きく深呼吸して残り香を吸いこんでから席に着いた。そんな彼を二人の女子が怖い顔で見つめていた。
「では、この詩の解説です。実は、これはとても貴重な史料です」
そう言って、若先生は笑顔で教室を見回してから、視線を紙に落とした。
「これは『超古代文明』の史料です…… 私が解読したものです」
ほんのり顔を紅潮させて話し始めた。
「皆さんも知っているように、歴史的には、今は『月神の加護』と呼ばれる時代です。この時代は、約三千年前の『月神の憤怒』と呼ばれる災厄を境に古代と中世・近現代に分けられます。二つの違いは…… もう習っていますよね。ジェニファーさん、説明してみてください」
指名されたのは、このクラス一番の優等生。大人びた顔立ちの美少女で、ブスブスと言葉で他の生徒を刺すことがある。
「宗教的には、月神の加護がすべての人類、戦好きの愚かな民も含めてすべての民に行きわたっていたのが古代です。それに対して、信仰心が厚く、慈悲深い民を月神が選んで、約束の地を与えたのが中世・近現代です」
「宗教的には…… ですか。それでは、科学的にはどういう違いがありますか?」
と先生が説明を促す。
「科学的というのを確実な事実と言いかえれば、『月神の憤怒』以前は何一つ確かではありません」
若先生は反論をしようと小さな口を開きかけるが、ジェニファーは構わずに続ける。
「それに対して、中世・近現代は、北部妖変地域と南部妖変地域が存在します。その二つに挟まれた地域、ルチエン王国を含むこの地域には精霊素が満ちており、それが月神の加護と呼ばれる現象を引き起こしていると考えられています。ただ…… 精霊素も月神の加護も、その存在は科学的に実証されていません」
「間違っているわ!」
大きな声が教室に凛と響く。人形のような白い肌の少女が立ちあがっていた。美少女というよりも美幼女と言った方がいい女子である。ジェニファーを睨みながら
「このような不信心な者を月神は許しませんよ。あなたは巫女の世話になったことがないの? 健やかな体と、豊かな実りを与えてくれる巫女の存在こそ、神の存在証明です」
と少女がまくしたてる。名はザネリ。母親がこのフエの町の『地の巫女』をしている。
ジェニファーは、ザネリに向けていた視線をショウインに移した。彼の意見を聞きたいのだろう。亡くなった彼の母親は巫女だった。とても有能な巫女だったと噂されている。その息子のショウインならば、ザネリにきちんと反論してくれるであろうとジェニファーは期待したのだ。
ショウインははっと身を固くして眉をひそめた。面倒事には首を突っ込みたくなかった。ジェニファーとザネリは、何かと反発している。論理的で冷めたジェニファー、感情的で姐御肌のザネリ。どちらも見本のように極端な性格だ。二人とも、親が地元の名士というのも、互いの競争意識をあおっているのだろう。
若先生は、ボヤを消しにかかる。
「まあまあ、月神の話はそのくらいにしておきましょう。この詩は、古代よりもさらに古い、『超古代』のものと考えられています」
「先生、超古代ということは、ラピュータとか、ルナホープワンとか、アキバタウンとかの都市があった時代でしょうか?」
背の低い男子が目をキラキラさせて質問する。若先生はニコリとする。
「よく知っていますね。ラピュータは風神、ルナホープワンは月神、アキバタウンは雷神が住んでいたとされます。先ほどの詩は、『雷神の加護』と呼ばれる『月の加護』の一つ前の時代のものです。この時代の特徴は、エレクトロンと呼ばれる精霊素です。ルナクルと呼ばれる現在の精霊素と違ってエレクトロンは怖ろしいものだったそうです。人類はエレクトロンに洗脳され、書物ばかりか、人間の記憶もエレクトロンに蓄えられ、エレクトロンなしでは一日も生きられなかったと考えられます」
「先生、やっぱり、慈悲深い月神さまがいらしたから、私達が幸せなのじゃありませんか」
我が意を得たとばかりにザネリが口をはさむ。若先生はほんの少し頷く。
「ザネリさんの言う通りかもしれないし、そうではないかもしれない。大事なことは、ある時を境に雷神もエレクトロンも地球上から消えたということです。同時に膨大な知識や歴史を記したエレクトロンも無くなり、この『雷神の加護』の時代の史料はほとんど残っていないのが現状です」
若先生は咳払いをする。
「ところが、ところがですよ。その史料が見つかったのです!」
「……」
拳を振り上げた若先生に生徒たちがしらけている。若先生はあわてて視線を紙に落とす。
「というわけで、この詩の最新の解釈を紹介したいと思います…… まず、ざっくり言って、この詩の主要な登場人物は月に憧れる女性と詩の作者です」
「先生! 用語がところどころわからないのですが?」
調子に乗りかけていた若先生をある男子が止める。
「えーっと、どこでしょう?」
「『宙のウサギ』とか」
「そうですね…… では、最初に主な難語を解説していきます。まず『宙のウサギ』とはうさぎ座のことです」
「先生! うさぎ座なんて星座はあるのでしょうか?」
「多分、昔はあったのでしょう…… 『白黒画像』は小さな絵をたくさん貼りつけた彫像です」
「先生! どうして白黒なのですか?」
「きっと、お金がなくて、色絵具が買えなかったのだと思います…… 『マグマの海』は『マンゴーの海』が訛ったもので、『雨の海』は『飴の海』の間違いです」
「先生! 本当にそんな海はあったのですか?」
「多分。 ……そんな海があったら、泳ぎたいと思いませんか?」
「全然!!」
と何人もの生徒が口をそろえて言った。
「『高層住宅』は、創世記にあるバベルの塔のことだと思われます」
「……」
生徒は誰一人として先生の解釈を信じていないようである。いらついたジェニファーが声をあげる。
「先生! 結局、この詩は何の詩なのでしょうか?」
「う~ん、いくつか解釈がありますが…… 一つは、風神が姫を月に連れていく経緯を記した詩であって、その姫が後に月神になったという解釈です」
「ロマンチックね」
ザネリが一人で自分の世界に浸っている。
「もう一つの解釈は、恋の詩です。月に恋する乙女に恋をした男の詩です」
「先生、恋は恋でも不倫じゃないですか? 既婚者同士の不倫ですよ」
「不倫?」
「だって、先生、最後の部分は、駆け落ちしましょうと言っているように読めますよ」
ジェニファーが冷静に指摘する。彼女の指摘にザネリが血相を変える。
「ば、ばかなことを言わないでよ! 月神さまは、今でも純潔を守っているわ。けがらわしい想像をしないで」
ジェニファーがザネリをあざける。
「あははは。あなたの夢を壊してごめんなさい。でも、心配しなくてもいいわよ。月神さまも、あなたも永遠に純潔だから」
「どういうこと!」
「あなたを誘惑する人はいないってことよ」
「きーっ! 勉強しか頭にない『おとこおんな』に言われたくないわ」
「だ、誰が『おとこおんな』ですって!」
いつも冷静なジェニファーも熱くなっている。こうなると誰も手がつけられない。悪いことに、感情的なザネリも熱くなるだけではなく、舌が回ることもある。
「あら、なんなら、ショウインに聞いてごらんなさい。ショウインはあなたを女だと思っていないわ」
とザネリが話をショウインに振る。
「そんなことは無いわ。ショウイン、あんな洗濯板女と違って、私は魅力的な女性でしょう?」
とジェニファーも話を彼に振る。
「せ、洗濯板ですって! 板なわけはないわよね、ショウイン!」
二人の視線が彼に集まるが、
「……」
突然話を振られても彼は答えられない。
二人が口をそろえて
「はっきりしなさいよ!!」
とすごむ。自分がどうして睨まれているのかわからない彼が地雷を踏むのは当然の結末である。
「ふ、二人とも喧嘩はやめて、仲良くしようよ! 全く『子供』なんだから。ねぇ、先生!」
「バシッ!!」
ショウインの両頬にしっかりと手形がついた。