探し人
昼でも薄暗い書斎で、ビックママは老眼鏡をかけて早文をもう一度読み返した。早文とは、伝書鳩を用いた手紙で、届くときは、通常の手紙よりもずっと速く届く。クリスから届いたその小さな紙片は不幸な知らせであった。予想していたこととは言え、つらい知らせである。その短い文面をビックママは三度読み返したが、彼女が今すべきことは何もなかった。すぐにフエにむかったとしても、彼女がつくころにはすべて終わっているだろう。待つしかない。彼女のすべきことが記されている手紙が来るのを待つしかなかった。老眼鏡をはずし、涙がこぼれによう宙を睨んだ。
* * * *
巫女の治療の基本は診断と処置である。その診断の基本は精霊素を介した異常の『探り』であるが、異常を探知するだけでは不十分で、どの臓器のどのような異常であるかを把握できなければならない。そのためには訓練だけでなく、知識が必要である。人体のどこにどのような構造があるのかを示した書物がある。いわゆる解体新書である。その書物を学ぶだけでも知識は得られるが、実際に目で見るという経験が重要である。そういう経験があれば、捉えたイメージを正確に解釈し、異常の部位と種類を診断できる。
例えば癌を治療するときには、近傍の精霊素を発熱させて癌を焼く。その時にどれが癌細胞でどれが正常細胞であるかを区別できなければならない。骨折を直すには、どの骨とどの骨が接合していたのかを知らなければならない。骨の意識と記憶を探ってもいいのだが、あらかじめ知識として正常な状態を知っている方がずっと速く正確に診断・治療が可能となる。
カナは、ビックママの指示で、最寄りの村キトに通った。最初は魚屋。クリスからもらった黒月晶石の片刃ナイフで捨てられた魚の内蔵を切り刻んだ。そして、肉屋、とさつ場へと足を運んだ。カナの熱中具合は少々度が過ぎており、村人は彼女を『黒髪の死神』と呼んで遠巻きにしていたが、そのうち、彼女の真剣な眼差しに気づいて、『カラスの子』と呼んでかわいがった。
カナはこのころから『調』と呼ばれる『霊石』付きの聴診器を持ち歩くようになった。聴診器は、もちろん心音や呼吸音を聴くための道具であるが、霊石は拡大鏡の役割を果たす重要な道具である。精霊素を介した探りにおいて、対象のイメージを拡大したり、微細な治療を行う時に威力を発揮する。例えば、切れた血管を接合するときに、霊石を用いることで微細な対象を正確に捉え、細かい操作をすることが可能となる。
霊石は月晶化した宝石の一種である。以前は天然ものをそのまま研磨して用いていたが、現在では石匠がレンズで集光した月光をあてて追熟成させている。下手な追熟成を行うと、却ってイメージがぼやけるから石匠の技量の発揮しどころである。また、一流の石匠であれば、使用する巫女との相性を調整するから、霊石はオーダーメイドの眼鏡のようなものである。丁度、バイオリニストが名器にこだわるように、ピアニストが調律にこだわるように、巫女も霊石にこだわる。もっとも、カナが使用しているのは訓練用の霊石であるから、そこまでの値打ちと性能はない。カナは霊石のついた調を持って村や森を駆け回った。
治療の練習は、もっぱら森の動物が対象である。わざと動物に傷つけて治療をするのである。魚までは平気だった。カエルはなんとかできたが、スズメはだめだった。残酷で、カナにはできなかったのだ。最初の頃は治療が下手だったこともあったから、なおさら傷をつけるなんてことはできなかった。
そんなカナに業を煮やしたビックママは、ある時、自らの腕を切りつけて治せと迫った。カナは飛び上がらんばかりに驚いて、びくびくしながら治療した。おかげで、傷跡がしっかり残った。ビックママはわざと傷跡をそのままにして、事あるごとにカナに見せて皮肉った。カナはもうただただ小さくなっていた。
それでも、カナが鳥類、哺乳類を傷つけることはなかった。その代わりに、彼女は怪我をしている動物、病気の動物を探した。得意になった探りを利用して森中を探した。巣からおちて羽を痛めた雛、骨折した鹿、目を患った兎、尾の切れたトカゲも治療した。
動物を用いた治療の練習は、巫女の修行としては一般的なものである。人間の治療をするには資格が必要であり、それまでは、動物が相手である。
ルチエン王国で、巫女や術師の資格を得るには、必ず精霊アカデミーの課す試験に合格しなければならない。アカデミーに三年ほど通ってから試験をうける内部生と、アカデミーには通わずに資格試験だけを受ける外部受験生がいる。大抵の外部受験生は地方の巫女や術師の弟子である。弟子として何年間か修業して、内部生と同じ試験を受けるのだ。
カナは、ビックママのもとで修業をしており、アカデミーに通っているわけではないので、外部受験組である。ただ、ビックママは現役の巫女ではないから怪我人や病人が来ることはほとんどない。そこで、カナは村の診療所に通って、見習いとして巫女の仕事を手伝った。
カナが村へ行く時は、ナパが護衛としてついていく。ビックママの森は結界石に守られているので一人で徘徊できるが、村は安全ではない。カナを誘拐しようとする者がいるのである。エドと気球に乗った時にカラスに乗った男に襲われたし、フエの町でつけられたこともある。
ナパはいつものようにカナを診療所の巫女に引き渡して、受付の中年の女性と雑談に花を咲かせていた。そろそろ市場に行こうとした時に異様な男が入ってきた。異様と感じたのは、男が長剣を背負っていたからではない。その男が人間のように感じられなかったからである。確かに見た目は人間なのだけれど、人間特有の匂いやリズムがナパには知覚できなかった。
生物にはその種特有の神経活動があり、体中を巡る神経パルス群は、潮騒のような音を奏でる。もちろん、実際の音ではないのだが、精霊使いであれば、それが音や匂いのように知覚される。気配と言ってもいいかもしれない。親しい人の気配、殺気、怒気。精霊使いはそういった気配をより明確に知覚することができる。
だが、ナパは、男の気配を全く感じられなかった。まるで、ガラス窓の向こうにいるかのように、何も感じることができなかった。試みに、探ってみるが、肌の暖かさも、心臓の鼓動も、血のめぐりも、まるで不可視の壁で覆われているように見えなかった。
年の頃は二十代半ば。下から上まで黒ずくめである。ロングブーツ、ぴったりとしたズボン、革の上着、ソフト帽から覗く黒髪とするどい目つき。どんな男かと問われれば、十人中十人が不審者と答えるだろう。しかし、帽子を取った素顔は、わずかに幼さを残している。鋭い目つきも、よく見れば背伸びをしているのがわかるだろう。
青年は童顔をほころばせて、受付の女性に
「おはようございます」
と挨拶する。青年らしいさわやかな口調である。受付の彼女はほんの少々緊張を解いた。
「おはようございます。診察券があれば出してください」
一方、ナパは警戒を解かずに成り行きを見守る。エドから黒衣の男に襲われたと聞いていたから、この黒衣の青年も、もしかしたら、その一味かもしれない。そうナパは考えていた。
「いえ、診察ではなく、巫女様にお聞きしたいことがあるのです」
丁寧な青年の言葉に、受付の女性はわずかに眉根をよせる。
「あいにく、今、最初の患者さんを見ている最中ですので、ちょっとお待ち願えますか。それと…… 差し支えなければ、要件をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん…… 人を探しています」
そう言って、背年は宙を睨んだ。やはりこの男はカナを狙っているのではないかとナパは疑い、短剣の柄に手をそっと添える。と、殺気がほんの一瞬、ナパに向けられる。気配の読める剣士、それも相当な使い手であろう。ナパは、青年の言葉に耳を傾けた。
その口調はあくまでも、穏やかである。
「私と同じように黒目黒髪を持ち、おそらく、有能な巫女か術師でしょう」
黒目黒髪自体は珍しいというほどではないし、黒目黒髪をもつ精霊使いも沢山いるはずである。ただ、ここは小さな村である。ナパでも全員の顔を知っているほどである。村の精霊使いと言えば、この診療所の巫女が一人と、他には鍛冶職人を兼ねている匠が一人だけである。あとは先代の巫女長であったビックママと修行中のカナがいる。その四人の中で黒目黒髪を持つ者はカナだけである。やはり、カナを探しているのだろうかとナパは緊張するが、青年の次の言葉を聴いて、ほっと胸をなでおろした。
「年は三十二か三、もちろん女性ですが、この村にいるかどうかもわかりません」
「そんな人は…… この村にはいません。精霊使いでなくても、そういう人は村にはおりませんが、念のため、私が巫女様に聞いてまいります。よろしいですか?」
「えっ、ええ構いません。お願いします」
青年は巫女に会わせくれないのを不満に思いつつも頷いた。受付の女性は、笑顔を見せて診察室へ行った。自分の役割を果たして満足しているのがはたから見ていてもよくわかる。
予想通り知らないとの返事をもらった彼女は、申し訳なさそうな顔を作って青年に答える。青年は礼を言って、出ていこうとするが、ふと立ち止る。
「あ、そうそう。この村に先代の巫女長の家があると聞いたのですが、どちらへ行けばいいでしょうか?」
何気なく、言い足したその言葉に、ナパは思わず声を出す。
「えっ!」
青年が振り向いてニヤリとする。まるで、悪戯が成功してほくそ笑む悪童である。ナパの虚を突いたのが楽しいらしい。ナパは舌打ちをして
「村の外です。この診療所の前の道をひたすら北へ北へと行くと、つり橋があります。それを渡った所に三角屋根の家があります。そこです」
と答えた。ナパが黙っていても誰かが答えるだろう。ならば、ナパが教えても問題はないはずである。
青年は礼を言ってさっと出ていく。一瞬おくれて、ナパは診療所を飛び出した。が、すでに青年の姿はなかった。彼女はしばらく逡巡して、カナを護衛するために診療所に戻った。ビックママに任せておけばいい、一対一でビックママとやりあえるのはエドぐらいだからと自分に言い聞かせた。
青年は、探し人の年齢を勘違いしていた。元の世界で彼が彼女に助けられ時、彼は八歳で、彼女は十五歳だった。つまり、彼は七歳年下であった。この世界に現れた時、二人の年齢差は変らないと彼は考えていたから、今の彼が二十六であれば、彼女は三十二、三のはずである。実際には、彼女は十七であるから、九歳年下であるのだが、どんな方法で世界を渡ったのかを知らない彼には、年齢の逆転など想像できなかった。それでも、もし、彼が診療所で彼女に会っていれば、すぐに気がついたはずである。
青年は二十歳の時に交通事故に遭った。通り魔に遭った彼女がそうであったように、元の世界で彼は死んだはずである。そして、彼はこの世界に現れた。彼女もこの世界のどこかに現れ、どこかで生きているはずである。初恋とは言えないほどのほんの淡い感情から始まった思慕。そして、彼女に伝えなければならない言葉。その二つを胸中に抱いて、探していた。この世界に来て六年間、ずっと探して続けていた。
* * * *
青年はかずらのつり橋の真ん中あたりで立ち止まって思案していた。風が吹き、つり橋がゆっくりと揺れる。眼下は深い谷になっており、そんな所で立ち止まる者はよほどの酔狂者である。彼は二対の結界石が橋の真ん中に設けてあるのに気づいたのだ。
慎重に調べると一対はくるぶし辺りの高さ、もう一対は胸のあたりの高さを結んでいる。訪問者がそこを横切れば、結界石が発動する。鈴石を鳴動させるのが一般的であるが、罠が仕掛けられているかもしれない。
青年は、背負った長剣をおろして右手で鞘をもつ。そうして、慎重に足をあげて、二対の結界石の間に体を滑り込ませた。
「ごめん下さい」
室内まで響く大声に、ビックママはすぐに反応する。鈴石が鳴動させずに訪問者が現れるのは異常事態だ。仕掛け石と弓矢を取り、鏡も見ずにベランダに出る。普段なら鏡を見て口紅と眉を直して、ゆっくり玄関から顔を出すのだが、事態が事態であるからそんなことはしていられない。
ビックママが鋭い視線を投げる先には、見知らぬ黒衣の剣士が立っていた。
「何者じゃ」
「リョウ・カンザキと申します」
「怪しい。何者じゃ」
再度発せられた問に、青年は苦笑しつつ
「一応、冒険者です。届けたいものがあってまいりました」
と丁寧に答える。
「結界をくぐり抜けるとは怪しい奴じゃ。それに…… 妙な匂いがする…… 妖変の匂いがするぞ。きさま妖変魔人か!」
匂いを言い当てられて、青年はわずかに肩をすくめる。青年が口を開いて声を発するより早く、ビックママは
「問答無用!」
と叫んで仕掛け石を握りつぶした。
左右から何かが飛び出し、陽光をキラキラ反射させながら青年に向かう。くるくると回転する竹筒である。両端を斜に切って、鋭く尖らせている。その切り口は月晶化され、光を反射している。そんな巨大な竹手裏剣が左右から三つずつ。
青年は素早く前方に移動しその四つを避け、避けられぬ右の一つを持っていた長剣の鞘で弾き、左側の一つを素手で捕まえる。
ほっと息を突く間もなく、今度は四方八方から、前後左右そして地面から何十本という枯れたツタが伸びてくる。何本かを長剣ではたき落そうとするが、まるで意思を持っているかのようにツタが巻きつく。あっという間に彼はからめ捕られ、縛られ、地面に固定される。地面に這いつくばらせようとするツタに抗して立っているのがやっとである。
「いきなり、何をするんですか!」
青年は真っ赤になって叫ぶ。竹手裏剣までは予想の範囲内であったが、自在に動くツタは初めて経験するものだった。余裕があると思っていたのが、窮地に陥った。己の慢心とふがいなさに動転し、たがが外れかかる。
ビックママはフンと鼻を鳴らす。
「お前さん、妖変魔人じゃないのか。人攫いに来たのだろう」
「何のことだ。俺にはさっぱり……」
「さあ、洗いざらい喋ってもらおうか」
「断る!」
「断れないさ。お前さんには真実の種を飲んでもらう」
「断れるさ」
青年は気を吐く。その気は身を縛るツタの中の精霊素を一瞬で燃やし、その熱はわずかに残る水分を蒸発させる。体積を増やした水蒸気はツタを内部から破裂させる。いわゆる水蒸気爆発である。パンと乾いた音を立てて、青年を拘束していたツタがちぎれてバラバラと落ちる。
ビックママはあわてて弓に矢をつがえようとするが、青年が一気にベランダへ駆けのぼる方が早い。間合いに入った青年は、長剣を鞘から抜きざまに彼女に切りつけようとするが、
『リーン』
澄んだ音が青年の手元から響く。抜こうとした剣は、人差し指ほど長さの刀身を見せたまま止まっている。
鞘の根元にくるみ程の大きさのガラス玉がつけられている。澄んだ音を出したのはその玉である。玉から剣の鍔へとぴんと張った鎖が伸びている。つまり、鎖のおかげで剣を鞘から抜くことができないのだ。
鞘から抜くことのできない剣に毒気を抜かれたのはビックママだけではない。持ち主であるこの青年も、いまだに慣れることができない。
「ちっ、全く面倒なからくりだよ」
青年はそう言って剣を収めた。碧色のガラス玉には白い稲穂の文様が散らしてあり、ビックママは見覚えのあるその文様から目を離せなかった。
「リンダさんが作ったからくりだ」
その説明にビックママが眉をあげる。
「この鈴が鳴ってから百拍の間待たないと鎖が外れないんだ。そして、待っている間に、頭を冷やせと言うのが…… いや、これ以上喋るのはよそう。渡すものを渡したら帰らせてもらう」
ビックママも不気味な笑顔を作って、いつものしゃがれ声をだす。
「驚かせて悪かったね。謝るよ。だから今のことは忘れてくれ。それより、折角、遠路はるばるやってきたんだ。お茶でも飲みながら、リンダの最期を聞かせておくれ」
青年が巾着袋から取り出したのは、『調』。薄いレモン色の霊石がはめてある。
「リンダの物だね。これをどうしろと言っていた」
青年はその問いには答えず、今度は、ふくさから手紙を取り出して、黙ってビックママに渡した。どうやら、完全にへそを曲げたらしい。彼女はため息をついて老眼鏡を取った。
ビックママは、時折、呟きながら手紙を読み進める。そして、そのたびに、上目使いに青年をちらちらと見やる。そうやって、青年の瞳の揺らぎを確かめているのだ。だてに、百年以上生きているわけではない。真実の種を使わなくとも、若者から情報を引き出すことなど造作ない。
「手紙が書かれたのは、一週間ほど前、無くなる直前だね」
青年は、出された茶の匂いを嗅いでから口をつける。
「リンダを看取ったのは、息子のショウインとクリスとお前さんか」
青年は一瞬、宙を睨む。
「一体、お前さんとリンダはどういう関係なんだ。まさか、お前さんはショウインの父親か?」
青年は、ぶっと吹いて、茶しぶきが散る。
「そうか、違うのか。ならば、リンダの夫とお前の関係は?」
ビックママは、『リンダの夫』と言うのに合わせてわざと手紙をかざした。青年がせき込んで、ようやく口を開く。
「し、師匠のことが手紙に書かれてあるのですか?」
ビックママがニヤリと笑う。
「そうか、リンダの夫はお前の師匠なのか?」
しまったという顔を青年が見せる。
「剣術の師匠か、それとも、術師の師匠なのか…… どちらにしろ妖変魔人を師匠にするとは……」
ビックママはカマをかけていた。
リンダは、ショウインの父親が誰であるかを決して明かそうとしなかった。だが、彼女が妖変地域で行方不明になって、一年後に戻ってきたときには、ショウインをお腹に宿していた。禁忌の夫となれば、妖変魔人としか考えられない。もちろん、妖変魔人の性質も存在もこの王国では全くの未知である。だから、巫女長として、どうしても妖変魔人を突き留めておきたかった。リンダに真実の種を飲ませようと思ったことは一度や二度ではなかった。だが、リンダが悲しむようなことはできなかった。彼女は盟友だったから。
リンダの遺書に真実が記されていると期待したが、その期待は裏切られた。唯一の鍵は目の前のへそを曲げた男である。
「妖変魔人とはいったいどんな奴だ。魔獣とおなじように狂っているのか?」
青年の瞳には怒気が現れている。
「妖変の匂いがするお前さんも妖変魔人なのか?」
青年は首を縦にも横にも振らないが、瞳が揺れ、言下に否定できないと知れる。
「ならば、退治せねば。お前さんも……」
青年が殺気を放ち、右手を立てかけた長剣に伸ばしかける。
「そして、ショウインも」
虚を突かれた青年が口を滑らせる。
「えっ、ショウは、魔人ではない!」
「だろうな。リンダの遺書にはそうとは記されていないが……」
「何と記されているんですか?」
真実を明かすことにも明かさぬことにも覚悟が要る。リンダには死んでも守りたい者がいる。だから、すべてを手紙に記すわけにはいかなかった。青年には守りたい秘密がある。それは、生きていく術であったから。ビックママは、全てを知り、全てを明かさないつもりだった。それが彼女の役割だから。
「ショウインの面倒を見てほしいと書かれてある。クリスの所から学校に通って、卒業したら、この家で面倒を見てほしいらしい。あの子には精霊使いの才能があるとリンダが書いている」
「そうですか」
青年は肩の力を抜いた。ほっとしたのだろう。
「それから、お前さん、リョウ・カンザキのこともよろしくと書かれてあるぞ」
「えっ、俺のこと?」
「お前を助けてやってほしいと書かれてあるが……」
「お断りします」
きっぱりと言い切る青年にビックママは目を細めた。二十代半ばの成年でも、ビックママにしてみれば、十七のカナとそれほど違いはない。
「面白い男だ。困ったらおいで。あたしはいつでも歓迎するよ」
「あんな歓迎は遠慮しておきます」
青年は過去の仕打ちを根に持つタイプらしい。
もう少し青年が己を明かしていれば、もう少しビックママが強引でなければ、あるいは、もう少し二人の警戒心が薄ければ、探し人の名『カナ』という名がビックママの口から出て、青年は気がついたはずである。そうでなくても、先代の巫女長というまたとない人物に、探し人の心当たりを尋ねるべきであったろう。己の感情に翻弄され、なすべきことを見失うのは、青年が大人になるための通過儀礼である。
出会うのが運命なら、出会わぬもまた運命である。この時、リョウ・カンザキ二十六歳とカナ・マツシタ十七歳は出あわなかった。それが運命であった。
今年、祖谷のかずら橋に行きました。前に行った時より観光地化されていました。この辺りは秘境。トンネルもなく、道も整備されていない昔は大変だったと思います。平家の落人の里というのも納得できます。