ある青年
小さな交差点の真ん中でフロントガラスにひびが入った車が停まっており、その前方には、一人の青年が仰向けに横たわっていた。
青年は、最期の時を迎え、空を見つめながらぼんやりと考えていた。
痛みはないが、まるで穴のあいた鍋のように、命という液体が体からするすると抜けていくような感覚がする。狭くなった視界には、青空にぽっかり浮かんだ月しか見えない。聴覚の方はまだ正常のようである。人々が徐々に集まってくる気配がする。
ただ、誰一人として青年に声をかけない。どうやら、生きているとは思われていないらしい。
「動かないぞ、即死じゃないのか」
ひそひそと囁くような声が聞こえる。
「うぇ~ん、痛いよ~」
少女の泣き声が聞こえる。
「大丈夫。ちょっとすりむいただけだから」
年配の女性が少女の無事を伝えた。
安心した青年は、瞼を閉じようとしたが瞼が動かない。それどころか、視線させ動かせない。一瞬、走馬灯が回り始めるが、視界の中の月がある事件を思い起こさせた。
彼が小学生だった頃のことである。
高校生だったある女性が、自分の命と引き換えに彼の命を救ったのだ。あの時も、今と同じ上弦の月が出ていた。そして、その月が一瞬煌めき、彼女の魂は月へと昇っていた。現代科学では説明できないことであるが、少年だった彼は、魂が昇っていくのを感じたのだ。
青年にとっては、不思議な体験だった。自分は生き延びたのだと思い出すたびに、月へ昇って行った魂を思い出していた。
最期を迎えた彼女は、唇を動かして声にならない声でささやいていた。その唇の動きを青年は、何年もたってから理解した。彼女は『ママ、パパありがとう』とささやいていた。
今、死にゆくこの青年には感謝したいという思う親はいなかった。感謝するとすれば、命を救ってくれた高校生の彼女か、それともたった今、命を救った少女だろうか。救われて救う。それが自分の存在意義だったと青年は自分に言い聞かせた。
ほとんど機能を停止した青年の網膜に、月面上で超新星のように煌めく光が映った。そして、彼は直感した。自分の魂も月に行くのだと。だとすれば、青年の存在意義は未完成である。