第一章弐幕「城」
題名も同じって…。
ほんと、どこが違うんだろう?
……一瞬だけ「白」ってやってやろうかと、深夜テンションになりかけの頭で思ったことは内緒。
緑の森を抜け、黄色い砂が覆う大地を歩くこと体内時計で二時間。私の強さも理解できずに飛び出してくる愚かな雑魚たちを鎮めながら歩いていて、さすがの私も疲れてきた。そんな時だった。ようやく彼らの“城”が見えて来たのは。
それは、いくら目の敵にされているからと言ってここまで徹底しなくてもいいだろうに…。と思うような荒れ果てた場所に、彼らの「城」はあった。
城、と言っても、古びた洋館、といった感じの建物だ。乾いて割れた大地に黄色い砂が湧いている。大地が盛り上がったところに、その“城”は建っていた。外から見ると、まるで某ネズミの国のハリウッドの有名俳優主演で映画にもなった、有名人気アトラクションのお化け屋敷のようだ。深夜二時から四時までの、世に言う丑三つ時には、なにかしら人知の及ばぬ存在が我が物顔で遊び歩いていたりしているのかもしれない。もしかしたら、九十九人の幽霊が住んでいて、百人目を待っていたりするのかも。そんな雰囲気をさらに出すためではないだろうが、館を這うように若いアイビーの緑と枯れた茶色が上へと登っていた。三階建ての洋館、その三階部分の一角が崩れて中の木が見えてしまっていた。アイビーはその部屋を目指して登っているのか?
そんな城を見上げて、私は思わず呟いてしまった。「ボロッ…」
聞こえてきた侮辱ともとれる単語に、牛が振り返る。その顔は何分、牛なので、極端に泣いていたりしていなければ表情が分かりにくいが、今の彼は泣いても、笑っても、怒ってもいなかった。どれかと言えば、困ったように笑っている。
「古い建物なので、いろんなところにガタがきていますが、住めば都、というように慣れてしまえば意外と居心地がいいんですよ。それにボロボロの部屋ばかりでもありませんし。」
そんなものなのだろうか。
両親と三人で住む我が家は、築十年のコンクリートがむき出しのモダンな建物だ。社会現象にまでなった某ロボットアニメのヒロインが住んでいる部屋に憧れたデザイナーが設計したその家は、冷たい印象とは裏腹に、権力を掌握している主の人柄を如実に表しているのか、温かみを持つ家庭になっている。
とにかく、何が言いたいのかと言うと、「古い建物の良さなんてわかんない」ってこと。十年前まで住んでいた家だって、築数年のマンションだった。埃アレルギーの母と私のため、父が気を使ってくれていたのだ。私の大切な大好きな場所だ。
“帰る場所”の言葉が咄嗟に出てこなくて、そんな自分に驚いた。人間は嫌いだ、みんな私や私と一緒にいてくれる人たちを傷つける。だが、家は好きだった。私が私でいても受け入れてくれる。大好きな人たちが集まる場所だから。それなのに…、なぜだろう?
「おもしろい、おばば、いる。」
リーリエも、私の不思議そうな、不機嫌そうな顔色を察したのか、新しい情報をくれる。
「オババは、ボクたち半端者に居場所を与えてくれた偉大な方です。」
「おばば、やさしい。すき」
牛の補足の後に続いたリーリエの言葉に、私は驚いた。目を見開いて、びっくり発言をしてくれたリーリエを凝視したが彼女は気付かず、オババを思い出しているのか、楽しそうにハミングしながら歩いている。
リーリエは優しくて、あまり物事を否定しない性質だ。だからなのか、特別嫌いなものもないけれど、好きになることもまた、なかった。その中で、私だけが別格だったのだ。けれどそれも、プログラミングされた、強制された好意だ。彼女が自発的にそう感じているわけではない。だから、リーリエが自分から「好き」だと口にしたことが驚きだった。胸にモヤモヤとあまりよくない感情が浮かぶ。これまで感じたことのない種類のものだ。それに戸惑う。
「ねえ、うし…、ミノタウロスさん。」
「…はい?なんでしょう。」
呼びかければ、彼は歩きを止めずに顔だけ振り返って、答えてくれる。牛の顔に輝くつぶらな瞳は、人間が笑みを浮かべる時と同じように細められていた。
「オババって、どんな人なんですか?」
正面に向き直って、背中しか見えない私からもわかる。彼は腕を組んで考え込んだ。牛の頭が斜めに傾いている。斜め上を見上げて、彼の人の姿を思い浮かべているのだろう。
考え込みながらも歩みを止めない彼。そんなに急いで帰りたいのか。う~ん、と唸る声が聞こえる。「もぉ~」ではなかったのが、地味に悔しい。怒らせるか、呆れさせれば言ってくれるだろうか?
牛の答えを待つ間、私も歩みを止めずに考える。人から与えられた疑問の答えを真剣に考えてくれる彼に比べたら、私の思考を埋めるのはなんてくだらないものなんだろう。
自分のくだらない思考に落ち込みかけていると、横を歩いていたリーリエが白い手で私の手に触れた。慰めるように肩をポンっと優しく叩いてくれる。
ところどころ欠けた石段を登り、古くて、ドアノブを握っただけで扉全体がミシッと音を立てる。私の倍くらいは高さがありそうな扉だった。ミシミシッと軋ませながら牛が押していく。マスター、と促されて入った室内は薄暗かった。一本廊下が通っているが、奥が暗くて見えない。
進める場所はひとつしかないので、そのまままっすぐ進む。
「オババは、」
それまで歩きながらもずっと唸り続けていた牛がようやく人の言葉を発した。リーリエと揃って牛を見る。
「オババは、なんていうかつかみどころのない方です。いつも城にいるというわけでもありませんしね。」
仕方がない。そう言いたげな苦笑で牛は言った。
散々考え込んで出てきた答えがそれか。
そう、言いたくなかったわけではないが、ここは言わずにおく。実際にオババと会ってみれば、私も理解できるだろう。ただ、一つ問題があるとすれば、オババが城にいるときログインできるか、ということだ。私は今、この世界で生きているが、現実世界でも同じように生きているのだ。あちらにも、あちらでの生活がある。
「今は、いるかな?」
誰にともなく呟いた。
「さあ?どうでしょうか。気まぐれな方ですから。」
「マスター、あいたい?」
同時に喋った二人の半獣。
その息の合い具合がおかしくて、私は笑った。現実世界では、数少ない人々の前でしか見せない顔。ここでは、自然と浮かんでしまう。この空間が愛しかった。
「会えたら嬉しい、かな?リーリエがそんなにはっきり好きだって言う人、今までいなかったし。興味があるから。会っては見たい。」
「マスターが、そういうなら、きっとあえる。おばば、そういうひと。」
「そうですね。オババは自分を必要としている者の想いにこたえてくれる、そんなところがありますから。『会いたい!』と願っていれば、どこからともなくやってくるんですよ。」
二人は楽しそうに笑っていた。
そうやって、どこからともなくやってきたオババの姿を思い出していたのかもしれない。
私の知らない人を、リーリエが思って笑っている。それが、なんとも寂しく感じられた。これまでは、リーリエの心に住んでいたのは私だけだったはずなのに…。私の心に黒いモヤモヤとした嫌な感覚が広がっていく。気持ち悪い。
「…やっぱり、会いたいかは微妙かも。」
小さく零れた言葉は、楽しそうに笑いあう二人には届かなかった。
それで、いい。
自分でも無意識に発した本心が、自分には大きく響いて、驚く。リーリエが私以外に好意を寄せることがなかったのと同じように、私もまた、他人を羨むようなことを考えたりはしたことがなかった。容姿を見てからならいざ知らず、まだ見ぬ相手になんて、興味もなかったのに…。初めての感覚に、小さな恐怖が生まれる。私は、どうなってしまうんだろう。
気分を変えよう。
胸に広がりかけた黒いモヤモヤが嫌で、建物の中を見回しながら歩くことにした。
ボロッ。
一言で言うならそれに限る。現実世界にもある物で例えるならば、ここはお化け屋敷だ。下手に作られたものではなく、実際に長い時を経てきた威厳ある建物にしか出せない空気を、ここは放っている。創立百年を過ぎた学校の旧校舎が持つ空気と同じものを感じる。余談だが、私の通っていた小学校が、まさにその創立百二十年を過ぎた古い学校だった。
古くて恐怖を感じると同時に、どこか懐かしくも感じる内部の埃臭い空気を少し、少しずつ吸い込みながら、観察してみた。
窓にはかけたガラスしかはまっていない。そこから入って来る生温かい風が、古く、破れてボロボロの布切れになり果てた白かったんだろうレース地の薄いカーテンと、赤か茶色のカーテンだったんだろう分厚い布切れをなびかせる。カーテンだったものが舞うたび、一緒に舞う埃、というよりも砂が入らないよう、口に手を添える。
少し入ったかも?
口を覆った手の中で、心配症のリーリエに気付かれないよう、小さく、抑えて咳をした。反射だ。
大丈夫、まだ大丈夫。
忠実に現実の私を再現してくれているゲームだったが、厄介なアレルギーまで再現することを私は当然許さなかった。夢の中でくらい、面倒がなくしたって良いじゃないか。
歩き、進んでいく。キィキィと鳴く床を、肝試ししてみたいな、なんて思いながら歩いていく。牛の足音と私の足音。リーリエは足音を立てない。虎の四肢をしなやかにすらすらと動かして歩いていく姿は、お化け屋敷のようなこの建物には似合わないが、やはり美しい。突然襲ってきた満足感に、私は我慢できずにニヤリと微笑んだ。自覚はないが、きっと臆病な牛あたりが見たら涙を浮かべていたかもしれない。
「アズサさん?どうかしましたか?」
口を覆っている私の様子に気がついたのか、牛が不思議そうに、心配そうに立ち止まって私が近づいてくるのを待った。振り返って歩いてきた道を見返してみると、一つ扉があって、その二メートル先は曲がっていて見えなくなっていた。多分、階段だ。石段とは別に、なんかを登ってきた気がする。
「私、現実ではアレルギーで、埃とかダメだから…、癖で。」
「そうですか。」
特に疑問を持たれる様子もなく、牛はホッとしたようにそう言って、またすぐに前を向いて歩きだした。
心配されると面倒だが、心配されないのもなんだか寂しい。
自然と表情は硬くなる。前を向いた牛に気付かれないように、覆った手の中で舌を出す。
「マスター、くるしい?」
ちょうどよく、私の苛立つ手前で心を配ってくれるリーリエの存在がやはり嬉しい。
笑顔を返すことができた。
五十メートル走ができそうな、長い廊下を歩き続け、突き当たりの、ひと際大きく、豪華な扉の部屋に入る。牛はノックをしなかった。自分の部屋なのだろうか。それとも近しいものの部屋か。
「オババ、お兄、お客さんだよ。」
大きな扉の先にいたのは、小さな魔女っぽいおばあさんと、
「ミノタウロス、部屋に入って来る時にはまずノックをして、許可を取ってからだと何度言ったらわかるんだ?」
やけに理屈っぽい馬でした。名前はきっと、ケンタウロス。
「でも、ケンタウロス兄…、」
やっぱりな。
「でもじゃない。それが礼儀だ。」
「お兄ぃ~」
「情けない声を出すんじゃない!」
兄弟喧嘩の最中、割り込むのも失礼かと思い、室内の観察をさせてもらう。
馬とおばあさんが居るのは部屋の中央に置かれた、円卓。古いながらも綺麗な姿を保っているそれは、とても大切に扱われてきたのだろうことがうかがえる。豪華な装飾などされていないのだが、木目の自然な美しさが、それにはあった。
あとはあのおばあさんくらいならそのまま放りこんで、丸々焼けてしまえそうな大きさの暖炉に、きっと数え切れないほどの者に座られてきたのだろう、擦り切れた座席部分が年代を感じさせるソファが、窓際に向かい合って置かれている。
「客とは、その子かえ?」
しわしわの外見とは違い、いやに艶のある喋り方と声だった。
話す声だけを聞いていれば、その発信源が皺くちゃのおばあさんだとはだれも思うまい。牛とリーリエの話から、「昔は、夜の繁華街をブイブイ言わせたもんじゃ。」なんて、仲良くなってきたら言いそうな人なんじゃないかと思ってしまう。それだったら面白いんだけど…。
「アズサと言います。」
ひとつ、軽く頭を下げる。
オババは楽しそうに、満足そうに笑った。おほほほほ、と上品な笑い声が響くが、大きく開いた口を隠そうともしない。すべての歯がよく見える。欠けた所も、虫歯もない、健康そのものの歯並びだった。
「妾の名は、訳あって教えること叶わぬ。オババとでも呼べ。」
「はい。」
うん、そういう不思議設定、いいよ。ゲームのだいご味だよね。これが本当は世界の神様だったりするんだよ。でも、そこまでやっちゃうとぎゃくに興ざめかな?ここは本当はエルフを裏切ってきたハイエルフの長老、くらいにしとこうかな。
リーリエが無条件で許し、慕っていることにやきもきしていたのも忘れ、私はオババという新キャラが持つ神秘性にオババの裏設定を考えていた。裏を探るのが、私は地味に好きだ。
「俺はケンタウロス。そこのミノタウロスは俺の養い子だ。」
「だけど、年近いからお兄ちゃんって、呼んでます♪」
「ここではリーダーのようなことをしている。」
「アズサです、よろしく。」
ふむ。と、ケンタウロスは頷いて、「茶でもどうだ?」と手ずからティーセットのポットを持ってカップにお茶を淹れてくれた。その手つきが顔と体躯に似合わず繊細で、思わず「料理とか得意かも」と思ってしまったのがまずかった。似合わないという印象つながりで、ふりふりのレースが裾に付いたピンクのエプロン姿のケンタウロスを想像してしまった。笑い出しそうなのを堪えて、笑顔を浮かべる。…くっ、…ちょっと歪んでしまったかもしれない。許せ、馬!
カップの数は三つ。円卓の上にはティーセットの他に、アンティークのキャンディーボックスや、小さく欠けた所もある何十枚とクッキーが山盛りになった大きなお皿が乗っていた。
「あ、どうも。」
「いや。」
短い会話を交わしながら、私と牛は円卓とセットなのか、違うのか。なんとなく違和感を感じる椅子に座り、リーリエは椅子をどかして虎の四肢の後ろ脚を折って床に直接座る。
何度も何度も、色が出なくなるまで使うのだろう。普通の紅茶だと思うのだが、これまでに見たことがないくらい薄い色しか出ていないお茶をすすりながら、私は「ここではどんなクエストがあるんだろう?」と考えていた。
左隣に座るリーリエに視線をやって、「今、何時?」時間を訊く。機械的に、すぐ「ごご、ごじ。」と返ってきた。口調だけリーリエが残っていて、ちょっと気持ちが悪い。
カップを置いて、クッキーの手を伸ばす。届かないそれをお皿ごと、牛がこちらに寄せてくれた。「ありがとう」と言うと、笑顔で「いいえ。」と返って来る。そこに、牛と馬の義理兄弟である関係性を感じる。何時頃に帰ろうか、考えながら甘さ控えめ、というか素材の味を大切にしているクッキーを噛んだ。
気になってしかたがない。
何が気になるのか、馬がさっきから素材の味を大切にしたクッキーをかじる私の方へ、円卓を回り込んで徐々に近づきながらチラリ、チラリと視線を投げてくる馬。どうかしたのか、私に変なところがあるだろうか、もしかしてクッキーを不味い!と思っていることがばれたのだろうか、等々考えていた私だったが、訊いた方が早い、と結論付けて、ついに隣に座っているリーリエの横まで来ていた馬が視線を投げてきたところにこちらからも睨みつける勢いで視線を合わせ、キャッチした。私から「何ですか?」と尋ねることなく、馬は照れたように男らしい肉の少ない引き締まった頬を桃色に染めて、味はどうだろうか?と尋ねてきた。言葉の内容に驚く、どころではない衝撃を受ける。クッキーと紅茶を吹き出しそうになるのを堪えて、私は真面目な顔を作った。馬の顔が不安そうな色になる。
まず、…言いかけて考えた。
馬はここのリーダー的存在だと言っていた。その彼の印象を悪くしてしまったら、私のパートナーであるリーリエの待遇に影響が出てしまうかもしれない。だれだって、嫌いだと思った相手とつながっている存在には冷たくしてしまうものだ。
これは新しいクエストだろうか?しかし、ここはこの地区に設けられた私たちの種族陣営に与えられた休憩所のはずだ。そこでは体力回復アイテムの購入や他のプレイヤーとの交流、パートナーのレベル上げに必要なミニゲームしかできない。見たところ、ここには他のプレイヤーはいない。オババの不思議設定といい、彼女はプレイヤーキャラクターではない。馬も、牛も違うだろう。プレイヤーキャラは指導者にはなれない。
私は考えた。どうすれば偽りにならず、この不味さを伝えられるのか。そして、先ほどから何度も何度も使っていた言い回しを伝えることにした。きっと、わかってくれるよ。
ちゃんと褒めるから、そんな期待したキラキラ光る目で見つめないで!
「…えーっと…、…なんというか、とても素材の味を大切にしていると、思います…?」
そう言った私の目は、きっと泳いでいたことだろう。私自身が、「視線、定まらないな~」と感じていたのだから確実だ。瞬きをするたびに、視線の位置を変えていた。
言い終わり、馬を見る。彼は私の太ももくらいはありそうな太さの腕を組み、満足そうにうん、うん頷いていた。なんだ?と目を瞬かせていると、馬は嬉しそうにはにかんで「そうか、そうか」と、幼い子供にするように、優しく頭を撫でていった。その時の馬は園児におやつを与える保父さんと同じだった。
優しくて、いい人(半分は馬だけど)だと感じられる人物だっただけに、本気の本音を言えなかったことが苦しい。
「…リーリエ、私、そろそろ帰ろうかな?」
居づらくなった私は、手っ取り早く逃げることにした。リーリエはもちろん、牛も残念そうに「え~、もう言っちゃうんですか?」なんて言っている。原因である馬はと言えば、威厳たっぷりに腕組をして「また食べたくなったら、来なさい。」と言っていた。ごめんなさい、それだと私、もうここには来られない…。
「なぁに、また遊びにいらっしゃいな。今度は他の子供たちを紹介しましょうて。」
オババは、理由もなにもかも察しているのか、いないのか、外見には似合わない上品な笑い声を響かせて送り出してくれた。それぞれに別れを告げて、目をつぶる。意識が上に引き上げられる感覚が私を襲う。ジェット虎スターや車で急な坂道を下りているときに感じるあのなんとも言えない浮遊感が一瞬、瞼の向こうに光が溢れた。
「おかえり、梓ちゃん。」
しわがれた声が聞こえてきて、戻ったのだと知る。頭に被さったヘッドセットが元の位置に帰って行くのを待ってから、椅子の後ろに立っているおばあちゃんを見た。
「今日、初めてのフィールドに行っちゃった!」
「それはよかったね。」
おばあちゃんは楽しそうに、笑顔で私の話を聞いてくれる。きっと、ゲーム内の話しをされたって、わからないだろうに、文句を言うでもなく、ただ笑顔で付き合ってくれた。わざわざ電車を乗り継いでまでここに通うようになった理由は、そこにあるといっても過言ではない。このおばあちゃんが好きなのだ、私は。
挿入口からシュッと軽い空気音とともに出てきたカードを受け取って、胸ポケットに入れれば、帰り支度が終わる。
「それじゃ、明日も来るから。」
「待ってるよ。」
そう言って別れたふたりだったが、二度と顔を合わせることは叶わなかった。
翌日、平成の世からひとりの少女が消えた。彼女の両親は警察や児童相談所など、思いつく限りの場所を当たったが、愛娘の行方はようとして知れず、再び一家団欒の時を迎えることなく、悲嘆に暮れる中で天寿をまっとうしこの世を去ることとなる。
*
午前七時
今日も昨日と同じ目覚めの時を迎える。
目をつぶっていても眩しい朝の光を浴びて、梓は目覚めた。季節に見合った紅葉模様のベッド用具。毛布から上半身を出し、大きく伸びをする。「ん~!」
まだぬくもりの残るベッドに入りっぱなしの下半身も冷たいコンクリートむき出しの床に下ろし、立ちあがって歩く。女の子らしい暖色を基調とした物で揃えられた部屋を出て、灰色の堅い階段を下り、母が居るであろうキッチンへ。中に入ろうとドアを開けると、美味しそうな音とともに匂いも香ってきた。ジュー、と美味しく焼けているだろうベーコンかウィンナーの声が半分寝ている梓の頭を呼び覚ます。
「おはよう!」
フライパンを左手に、なぜかお玉を右手に持って、楽しそうに鼻歌を歌っている母に声をかける。常に穏やかな笑顔で、愛する家族を包み込んでくれる優しい母。彼女の背中の中ほどまで伸びる梓とは正反対の黒い髪は、踊るように揺れる本体につられて左右に揺られていた。それが大きくなびいて、梓によく似た顔が見える。
「あら、おはよう梓ちゃん、今日も早いのね~♪」
フライパンをコンロに置き、お玉を体と垂直に持ち上げた状態で振り向いた母。限界まで細められた微笑む瞳もまた、梓とは違う茶色である。
これだけ色素が違うのに、顔だけが同じ系統というのは、何度見ても不思議なものだ。そう思いながら、梓は母から視線をコンロの上に載せられたフライパンへと向かった。母はよく、物を焦がす。
「お母さん、またウィンナー焦げかけてるよ」
「あら、いけない!」
慌てたように言いながらも、その動作はゆったりしたものだ。若干端の方が炭になりかけているウィンナーを見つめながら、梓は朝一番のため息を吐いた。これもまた毎朝の恒例行事であった。
「私が結婚して、家出たらどうするの?」
「あらあら!そうしたら梓ちゃんが家事をするようになっていると思うわ♪」
「…確かに、ね。」
「梓ちゃん…、そこは『それまでにはもっと上手くなってるよ、お母さん!』って言うところよ~」
悲しそうに眉をハの字にしながら、体をくねくね揺する。娘が十五歳になり、自身もまたそれだけの年月を重ねているはずなのに、変わらず愛らしい動作の似合う母が、梓は好きだった。まるで、年の離れた姉妹が交わす会話のような、母との交流。外の世界では冷たいばかりの会話を嫌悪していた梓にとって、暖かく感じるこの家族との対話は大切な時間だった。
「…それは、冗談でもそう言える人に対して言う言葉だよ。お母さんそうじゃないんだもん。」
「……でもね、梓ちゃん…、」
「『お母さん、これでも新婚の頃よりは上手くなったのよ?』なら、もう古いよ。新しいネタを披露する時期だと思います!」
腕を組み、プイッと顔をそむけて譲らない姿勢を示す。すると母は「そんなぁ~…」と残念そうな、無念そうな眉根を寄せた顔をして見せたが、それでも娘の態度が変わらないことを知ると、諦めたようにだらりと両手の力を抜いて俯いた。「精進します…」宣言を聞いて、梓も耐えきれない、というように吹き出す。つられて母も笑い出し、しばらく女性ふたりの高い、けれど、抑え込んだ小さな笑い声が朝のキッチンに響いていた。
力を抜いていた手に力を入れ、持っていたお玉を持ちなおす。今度はフライパンの隣に置かれた小さな鍋に向かって、格闘し始めた。両手に重ねた三枚の白い無地の皿を持って、フライパンの中で出番を待つ端が炭になりかけているウィンナーを迎えに行く。ついでに、ちらりと横目で鍋の中身を確認した。
「味噌汁…、何が入っているかは、口に入れてからのお楽しみバージョン…」心の中で呟いて、これが出来上がらない内に、出かける準備をしに部屋へ退散した方がいいのだろうか?しかし、それでは父ひとりに被害が集中してしまう。…どうしようか?
「おはよう!…う~ん、今日も朝からいい香りだねぇ…」
何も知らない子羊がやってきた。四十歳も半ばを過ぎても、いまだ爽やかな好青年の風体を保っている、母と同じく、年齢詐称疑惑のある父親だ。ご近所さんでも娘の悪評とは正反対に「あそこの奥さん、いつまでもお若いわよねぇ、どこの化粧品使ってるのかしら?」とか、「旦那さん、かっこいいわよね~この間なんて、近所だからって重たい荷物持ってくれたのよぉ」それは老人扱いされただけなのでは?なんて、言ってはいけない。…とまあ、両親揃ってご近所では評判の夫婦なのだ。
この家に住む者で、ご近所に受け入れられない存在は私しかいない。私の存在が、両親が親切を振りまいて上げた、この家を取り巻く周囲の評判を落としているのだ。
ごめんなさい。梓は物心ついてから、この容姿が普通ではないのだと、自分の周りにいる人たちから受け入れてもらえない姿なのだと理解してから何度も繰り返してきた言葉を心の中でそっと呟いた。目の前にそろった両親には届かない謝罪。今さっき母と笑いあった笑顔はそのままに、心で静かに涙した。
三人で、食べよう。
フライパンを左手に持って、右手に持った一枚の白い皿の上まで持っていく。真上でフライパンを徐々に傾けていくと、思惑通り汚れなき白い地に、こんがりをやや通り越したウィンナーが降り立った。横でそれを見ていた母が、「梓ちゃんはお料理上手ね~」とのんきに呟いていた。母は母で、問題作を仕上げていく。冷蔵庫から味噌を取り出し、以前「これをやりたくて、お嫁さんになったの~」と言っていた、お玉で味噌を溶かす工程を、実に楽しそうに鼻歌をハミングしながら行う。けれど、小さなお玉とはいえ、それ一杯の味噌を二リットルもない味噌汁に入れてしまっていいのだろうか?注意してしまいたいが、なんでもかんでも入れてみなければ気が済まない『入れたがり』である母に言って、それに代わって別の何かを入れられても怖い。
「おはよう、お父さん…、これ、テーブルに運んで!」
「お!これ、梓が作ったのか?美味そうだ~!」
お皿に乗ったウィンナーに鼻を近づけて湧きあがる香りを楽しむ。
「いや、よく見てよ、それ。端のところ炭になりかけてるから。焼くだけの料理とも呼べないそれを作るのに、私だったら炭を作ったりしないから!」
「母さんかぁ~…うん、でも美味そうだ!」
遠い目をしながらそう言った父の視線の先、私の背後では母が輝く笑みを浮かべた顔の横まで持ち上げたお玉を光らせていた。
「あ、ふざけてないでさっさと食べよう。遅刻しちゃうよ?」
「「は~い!」」
いい年した大人が声をそろえて娘の言葉に従う様は何とも言えない無気力感を感じさせる光景だ。梓は日常となったその光景に溜息をこぼしながらも、笑みを浮かべていた。
自分の席、と定めた椅子に腰をおろして手を合わせる。
「いただきます!」と重なった三種類の声に、いつも通りの一日が始まったことを改めて感じた梓だった。
お父さんがつけたテレビの中で、テレビ用の笑顔を振りまいたお天気お姉さんが「今日の天気は晴れ。お洗濯日和の一日となるでしょう。」と言う声を聞いた、午前七時三十分。
*
朝食を食べ終え、三人で作業を分担して片づけも終えた、午前八時。
食器洗いと綺麗になった食器を拭く作業で濡れた手の水分をタオルで拭い終われば、今日も、家族のため、ひいては一人娘である私のために、母と父は仕事へ出かけていく。
「気をつけてね。」
母も、そして父も、出かけるときには必ず、一声、そう私に言ってから家を出る。ふたりの言葉に含まれた意味。幼いころから、聞かされてきた周囲の人間の心ない言葉たちが頭をよぎる。そんな暗い過去を振り返る時には必ず、鋭い痛みが頭の深いところを刺す。
異端な私を愛してくれる両親、そして少ない友人たちの心に暗い影を落とさないように、私は彼らの前では普通の子を演じる。なんでもないよ、大丈夫だよ。そう、言い続ける。
あたたかい両親が居なくなったことで、やけに薄暗く感じる家の中を、二階にある自室へ向かって歩く。家族お揃いで買ったスリッパがタン、タンとリズミカルに軽い音を、自分の息遣いしか存在しない静かな灰色の空間に響いた。さっきまではあんなにあたたかみを帯びた家だったのに、急に寒くなってきた。
早く人が居る所へ行こう。私を、受け入れてくれる場所へ。
タンタンと音を速めて、自室に駆け込む。バンッと派手な音を孤独な家中に響かせて、ドアを開けた。お財布と鍵、ワンダーランドカードを手に取って、それぞれ上着のポケットに突っ込んだ。
こんな静かで、寂しい家にこれ以上用はない!とばかりに、大急ぎで家を出て、玄関のドアに鍵をかける。
昨日と同じ道を駅へと向かって歩いているとき、不意に家から誰かに呼ばれているような気がした。家には、私と両親が住んでいるだけで、他には誰もいない。両親はすでに仕事へ出かけ、私も今、駅へと向かって歩いている最中だ。だから、誰かに呼ばれるなんてこと、あるわけがないのだ。そう想い、確信があるものの、なぜだか振り向かなければならない気がした。確かめなければ。
振り返って、そびえ立つ住宅の中でも、ひと際大きなコンクリート造りの家。
そこにはあたたかな光も、人のいる気配もない。
「…気のせいか、やっぱり。」
そう呟いてみるも、なぜだか釈然としなかった。
駅方面へ顔を向け、体を前へと進ませる。だがしかし、四、五歩進んだところで、また振り返らなければならないような気がして立ち止まった。今度は先ほどよりも、さらに強い感覚。
今一度振り返って、家を見つめる。
十年前に引っ越して住み始めた家。生まれた家よりも思い入れがある。コンクリートのいつまでも変わらない灰色が見えた。なぜだか涙がにじむ。どうしてか、もう二度とこの家を見ることが叶わないような気がしてきた。
重たい、まるで「動きたくない、歩きだしてしまえばもうここには戻れない」とでも言っているかのように、足が別の生き物のように重い。しかし動かなければならない理由が、私にはあった。午前九時を回ったこの時間、噂大好きなおばさんの活動時間が近い。チラリと目だけであたりを見回すと、ちらほらエプロンをつけたままのおばさん達が家から出てきた姿をとらえた。
小太りの主婦数名が、私の白銀の髪を見つけて息をのむ。サッとその巨体からは想像ができないほどの速さと身軽さで十字路の一角に集合すると、ひそひそと片手を口元に充てて小声でささやき始めた。視線はそのままに私に向ってきているので、何の話をしているのか、その同じ女とは思えない野太い声が聞こえなくてもわかる。
私は逃げるように、重たい足を動かして駆けだした。これ以上、おばさんたちの噂話のネタになってやるつもりは微塵もなかった。
早く、リーリエに会いたい!
その思いだけで、私は走った。走りながら、毎日お世話になっている、母お手製の毛糸の帽子を目深にかぶる。そして、何も見ないで済むように目をつぶり、何物をも近づけさせないよう大きく腕を振って。米神を伝う水滴には気付かないふりを通して。十年間、慣れ親しんだ駅までの道のり。電子マネーで改札を抜け、ホームの中ほどまで走り、『一番線の電車、間もなく発車いたします。ご利用の方はご乗車になってお待ちください。』の声を背中で聞きながらゆっくりとスピードを落としながら乗り込む。小さく電車が傾いた。
午前八時二十二分、私の乗った電車は人身事故や車両トラブルを起こすことも、巻き込まれることもなく、定刻通りに発車した。ガタン、ゴトンと頭に響く音を立てながらゆっくりと進み、徐々にスピードを上げていく。
『次は~、下落合、次は~下落合。』語尾を伸ばし、気取った喋り方をするアナウンスだった。車掌のものまね見ているんじゃないんだからと気落ちしながらも、目的地到着までの時間を計算してみる。
あと、十分もあれば着くだろう。
あたりをつけて、落ち着くと、窓の外を見て気を紛らわせた。輝く窓に薄く映った車内の客が、帽子から零れ落ちた異端な髪を見ているのではないか、と疑心暗鬼にさらされた。早く走って電車!念じながら何でもない風を装って、絶えず流れ続ける外の景色を見る。
『下落合~、下落合~。お出口は左側です。』そう言って、電車は止まり、左側のドアがプシュ~と気の抜ける空気音を立てて開いた。この駅で降りる人は少ない。私から遠くの方に座っていた会社員風のスーツを着たおじさんと、私と同じかちょっと下くらいの中学生の女の子が数人、おじさんとは違うドアから固まって降りた。それを見送っている最中で、チラリと彼らの視線がこちらを向いたのではないか、と疑う。窓に映る自分を見て、髪が零れていないか確認する。ついでに手でも帽子の淵を触って、髪の毛の感触がしないか確認。大丈夫だったことをしっかり確認して安堵の息をこっそり、静かに吐く。
早くこの、人が居る空間から出たい。その一心で電車が動かないかと念じてみるが、当然念で動くわけがなく、さらに悪いことに、『只今、下落合駅構内の非常停止ボタンが働いたため、安全を確認するまで停車いたします。お急ぎのところまことに申し訳ございません。』そう思っているなら早くしろ!と声を大にして叫びたい衝動に駆られるアナウンスが、沈黙が落ちる十両編成電車の四両目の中に虚しく響く。
いつも思うことだが、アナウンスでの常とう文句である『お急ぎのところ誠に申し訳ございません。』を、本当に心からそう思って言っている人は何人いるのだろうか?少なくとも、電車内のアナウンスで聞こえる声は、そう思ってはいないだろう、と私は思う。彼らの本心は何も思っていないか、「面倒臭ぇな、急いでるならもっと余裕持って家出ろよ。」とでも思っているのではないだろうか。どちらにしろ、謝る態度ではないと思う。
思わぬ事情で遅れてしまった。小さなそれに、心が粟立つ。
早く、速く、ハヤク!
そう願っていたのに、この仕打ち。神様は私がお嫌いですか?…好きだったらこんな容姿を与えて、苦行を強いたりはしませんよね。
もしかして、このまま一時間とか止まってしまうのかしら、と心配しかけたその時、再びなんの感情も感じさせない声が車内に響いた。『安全の確認が取れましたので、発車いたします。』軽い空気音とともにドアが閉じ、ぐらりと揺れて、黄色い電車が走り出す。しかし、その歩みはいつもよりもゆっくり、ゆったりしたものだった。走らせ方を忘れたか?運転手さんの頭を心配しかけて、その思いを感じ取ったわけではないだろうが、もう一度アナウンス。『下落合駅構内の非常停止ボタンが作動いたしました関係で、この電車、高田馬場駅までスピードを落としての運転となっております。お急ぎのところ誠に申し訳ございません。』、本当に、今日はなんだかついていない。
ゆったり流れる景色を赤い瞳に映す。
窓から見える道路とそれに沿った歩道。歩道を走る自転車が、電車を追い抜いて行ったのを目にしたとき、なんだか言い知れない悔しさが私を襲った。いつもなら、電車の方が早いんだからな!と届きもしない言い訳を窓に張り付きながら心で叫ぶ。近くの座席に座っていた、大学生くらいの若いお姉さんが、不審なものを見るように私を見た。「髪の毛!」心配して頭に手を添えるより前に、鼻を鳴らして視線を逸らされた。安心してもいいのか、ちょっと疑問。複雑な気分だ。
いつもの倍ほどの時間をかけて、大事に進んできた電車。まるでその姿は、私にこの景色を焼きつけようとしているかのようだった。
帰りも見られるのに、なぜかそう感じた。
遅れを取った分は、これから挽回しなければならない。私は急いでホームを人の間を縫って走り、階段を下り、改札を抜ける。ここまでの百数メートルばかりの距離で、日ごろ運動とはかけ離れた生活をしている者にはきつい。もっと早く、と望む心とは裏腹に、耳の横から鼓動と呼吸音が聞こえると錯覚するほどに息が上がり、足が言うことを聞かなくなる。しまいには視界がチカチカと白く点滅を始めてしまった。信号を渡ったところで立ち止まって膝に手を乗せて、背中を丸めて無様にもぜえぜえと乱れる息を整えた。竜宮城まであと少しなのに、その少しがとてつもなく遠く感じられる。
今日はまるで、「来るな」とでも言うように、思い通りに進めない。
何かあるんじゃないか?と勘繰ってみるが、生まれたときから神様に見放された私に、そんな面倒なことをする存在はいないだろう。そんなことをしても、だれの得にはならないのだから。労力の無駄だ。
ただの偶然が重なって、それを自分が自身で勘繰って何かあるんじゃないかと考えていただけなのに、だれかに足止めされている、とか自分を否定されたような気がして悲しくなる。
けれど、そんなことを考えているうちに徐々に元の静かな呼吸が戻ってきた。膝から手を離し、胸に手を当てて深呼吸を数度。瞬きしながら周りを見回して、視界に異常がないことを確認する。
よし、あと百メートル。竜宮城まで行けば、あとは椅子に座って眠っているのと同じ状態なんだから、速く行ってしまおう。秋の冷たい空気が心地よい、熱くなった体を覚ましていく。
あと少し、あと少し。
古ぼけた竜宮城の扉を開け、中に入ると、そこでも普段とは違った光景が待っていた。
いつもの、優しい皺くちゃの顔が見えない。(薄暗いから、というわけでもなく)
「おはよう、梓ちゃん。」聞こえてくるはずの声が聞こえてこなくて、寂しくなる。今日はよく寂しさを感じる日だな。考えながら人を求めて進んでいくと、ワンダーランドの機械の横に、ヴィジュアル系の服を着た、腰まで伸びる艶のある黒髪を束ねることもなく、ただ流したお兄さんが掃除中だったのかモップを持って立っていた。腕には一本一本は軽そうなシルバーのブレスレットがいくつも付けられている。数が多すぎて、もはや太いブレスレット一本のように見えてしまっている。
お兄さんは近付く私に気がついたのか、振り向くと二コリ、と美形だけれど、どことなくハ虫類を思わせるいやらしい笑みを浮かべた。我ながら初対面のお兄さん相手によく言えたものだ。
「いらっしゃい、お嬢さん。こんな時間から遊ぶのかい?」
見た眼からはわからなかった、優しそうな声が耳に届く。けれど、私はなぜかその声が気持ち悪く感じた。お兄さんとの距離は二メートルと特別近いわけでもないのに、首に手をかけられ、いつでも絞められる状態なんだと感じさせる。
怖かった。
もしかしたら、ここで殺されてしまうのかもしれない。いつもいるのに、今日はいないおばあちゃんは、もしかしたらこのお兄さんに殺されてしまったのかもしれない。と、おおよそ初めて会った相手に持つ印象ではないことを思う。今の私では到底思えないけれど、お兄さんが善良な一市民だったなら、失礼にもほどがある内容である。
「…はい、いつもはおばあちゃんがいるんですけど、今日はいないんですか?」
震える体に、気付かれただろうか?
体は恐怖で震えているのに、声はいつも通りの自然な声が出てきた。意外と私の体と精神は別々の回路でつながっていて、精神の方は図太くできているのかもしれない。
まっすぐにお兄さんの黒い、蛇のような黒眼を人の白眼が囲んでいる瞳を見据えて話す。
お兄さんは笑った。
犯罪者がなにかを誤魔化すための笑顔ではなく、楽しそうな、妹と話しているお兄さんのような、自然と出てきた笑みに見えた。私に兄弟はいないから、イメージでしかないのだけれど。
「ぼく、おばあちゃんの親戚でね。祖母と孫ってわけでもないんだけど。今日、おばあちゃんは新しいゲームの入荷日で、自分で車運転して仕入れに行っちゃっててね。だからぼくはただの代打で、おばあちゃんが帰って来るまでの店番、…意外とお小遣い弾んでくれるから、親戚の間では結構競争率高いんだよ?」
最後は内緒話をするように、口に左手の甲を当てて、私の耳に寄りながら、ささやき声で、そう言った。
本当に、ここまですべて良いお兄さんなのに、私の恐怖は薄れない。近寄って来るお兄さんの体と顔に、恐怖のあまり動けず、それが返ってお兄さんの言葉の邪魔をすることなく、変だと思われることもなかった。それは幸い。でも、耳にかかった吐息に、ビクンッと体が大きく震えた。それには気付いたお兄さんは、「ごめんね」と笑って離れた。安心して、無意識のうちに胸に手を当てる。さっき走った時ほどではないけれど、やや速くなった鼓動が掌に伝わる。
「それじゃ、どうぞ。ワンダーランドで遊びたかったんでしょ?」
そう言って、お兄さんはモップを手に私が来た方向、出入り口の方へ歩いて行った。掃除はここで最後だったのだろうか?奥にはまだスペースがある。不思議に思いながらも、お兄さんの背中が見えなくなるまで見送ることなく、そうそうにシートに腰を落とした。ふかふかではない、堅い感触が伝わって、ようやく心から安心した。
カードを入れて、ヘッドセットをかぶり、意識をゲームの中へと落とした。
だから、気付かなかった。
歩いて行ったはずのお兄さんが足を止め、こちらを振り返って、シートに座ってヘッドセットをかぶり、ゲームの世界に向かう私を見ていたなんて。そして、お兄さんが小さく、なにかを呟いていたなんて、気がつくはずがなかった。
「おかえりなさい。死と再生を司る火の精霊王、入道 梓。」
そして、さようなら…。
言葉が音として空間に落ち、消えてしまうころには、音の主の姿は空間には存在しなかった。
*
【竜宮城】と変わった名前の古ぼけたゲームセンターが、東京新宿区にある。
この日、そこへ行くことのみを習慣としていた異端の白をまとう少女がひとり、姿を消した。彼女の両親は懸命に娘を探して回ったが、ついに愛する存在を見つけ出すことは永遠に叶わなかった。
*
十一月初旬。東京都内にある中学校に在籍していた女子学生が、遊びに出かけたのを最後に行方を絶った。
世間はその少女の容姿とそれまでの短い十五年の人生を面白おかしく報道し、騒ぎ立てた。珍しい容姿を生まれ持った少女は、世間に広められた人生で思い知った通り、それだけで話題性に乾いた社会でのヒロインとなりえたのだったが、ついに彼女がそれを知る機会は来なかった。いじめに敏感な現代、それを彼女が勇気を持って公にしていれば、あるいはこの結果は変わったのかもしれない。
少女は消えることもなく、彼女を愛した者たちは嘆き、悲しむこともなかった。
悲しみ、涙する“家族”の中でふたり、彼女の生存を信じ続ける者たちが居た。幼馴染である妙見寺刀馬と一色アヤメである。ふたりは世間と同じように消えた彼女をネタにする学校を見限り、愛する白い少女を探し求めた。来る日も、来る日も。平日も休日も。それぞれの家族に止められても、外出を禁じられても、禁を破って探し続けた。
そして努力は実を結び、台風が来るために荒れた天気の中、ふたりはついに、彼女が通っていたゲームセンターに辿り着いた。
ふたりは古びて風にギシギシと大きく、なにかを訴えてくるかのように耳障りな音を立てる扉を開けて、中へと入って行った。
三十分、一時間、二時間三時間、四時間五時間、ついには一日二日、一週間と時間は経ったが、ふたりは出てこなかった…。
*
「城に帰ったのです。」と、男は言った。
長い、腰まで届く黒髪を流している、ハ虫類のように笑う男だった。何もない、暗闇が支配する空間で、男は楽しそうに、地獄の底から湧きあがって来る憎しみと憎悪を込めて、笑った。
男の後ろに静かに控えるは、種族を表す褐色の肌に細長いとがった耳と光に透かせば銀にも見える、月光のような金髪を持った、艶やかな女性だった。
女はなんの色を浮かべることなく、男を見据えていた。
深夜テンションって、すごいですね。




