後編
― 後編 ―
「はぁ……」
部屋を満たしたのは、セシルの重い溜息だった。
昨日の昼過ぎにジーナが倒れたと聞いた時は慌てたものだけれど、今は目を覚まさない彼女が心配で仕方がない。疲れも溜まっていたためにただ眠っているだけだと医者は言っていたが、心配なのは変わらない。
(まさかジーナが負けるなんてね)
セシルは眠る幼馴染を見つめながら思う。
中性体、つまりは異物という事で幼い頃から理不尽な暴力を受ける事が多かったセシル。その暴力に抗う力の無かったセシルを守ってくれたのが、ジーナだった。自らよりも体格のいい男を、どこにそんな力があるのか、素手で倒してしまうのがこの人である。
セシルはそんな幼馴染に憧れた時もあった。でも、自身にはそんな力はない。そして、殴られるという事が如何に痛いのかを深く知っているセシルは、人を殴ろうとは思わない。ジーナやアニタに危害を加えるといのであれば動くかもしれないけれど、他の理由で暴力を振るおうとは思えないのだ。
「僕が強ければ――男であれば守れたかな」
そっとジーナの左手を握って囁くように呟く。
意識して呟いた訳ではない。ただ内なる想いが無意識に出てしまっただけである。幸い今は二人しかいない。聞いている者はいないだろう。
「セシル――あんたには向かないよ」
だが、唐突に張り詰めた声が届いてセシルは両目を見開く。すると握った手が強く握り返される。どうやらジーナが起きたらしい。いや、もしかすれば起きていたけれど様子を見ていたのかもしれない。それは彼女にしか分からないけれど。
それよりも気になる事は幼馴染の言葉である。
「向かない?」
「ああ。優しいセシルには殴り合いは向かない。私ですら……今回は内にある甘さのせいでこの様だからね。あんたは結晶を削っている方が向いてるよ。あれは大雑把な私には無理な事……誇っていいと思うけど」
問うたセシルに、ジーナはニヤリと笑って答えてくれた。
確かに彼女のいう事は正しい。殴れない者が争いの場に行っても何も出来はしないのだ。結晶を削っている方が自分らしいとも思う。それで生計を立てられるのであれば、他人にとやかく言われる筋合いはなく、胸を張っていればいいのだ。例え中性体であったとしても。
それでも浮かぶ想いは抑えられなかった。またジーナが倒れるのであれば守ってあげたいとも思う。幼い時に自身を守ってくれたように。
「僕は君を――」
「十年早い」
守りたい、そう言おうとしたセシルの言葉をジーナは遮る。見た事もないような柔らかな笑顔を向けて。ほのかに頬が朱色に染まっているのは気のせいだろうか。
それにしても十年とはあんまりではないだろうか。
「戦って欲しくないなら……あんたの仕事だけで食べさせてよ。私達二人をさ。ただ殴るだけが守る事ではないんだよ、セシル」
不満な顔を浮かべるセシルに幼馴染は語る。
言葉はすんなりとセシルの心へと沁み、想いを刻み込んでいく。
自身がどう生きていけばいいのか。どうすれば守れるのかを。まるで手に掴み取れるとさえ思えるほどに明確な形となって浮かんでくる。
「そうだね。僕は……僕の方法で君を守るよ」
迷いが晴れたセシルは彼女の手をそっと握り締める。
「……」
しかし、彼女は何も言わなかった。それ所かセシルから逃れるかのようにそっぽを向いてしまう。
(なんだろう?)
セシルは幼馴染の普段は見せない様子に小首を傾げる。
「そ……そんな事よりも今年は決めたのか?」
ようやく彼女が口を開いて出た言葉は一つの問いである。
その問いはセシルの心を乱すには十分だった。いや、中性体であれば誰しも平静ではいられない問いであるだろう。
「いや……仕事をする上ではどちらでも構わないからさ」
セシルは乱れる心を抑えて、何とか言葉を絞り出す。
先ほどまで固まっていた心は嘘のように乱れていく。おそらくこの固まりかけた関係が壊れるのがより恐ろしくなったのだろう。
「それならさっと決めてしまえばいいだろうに。どちらかに」
大雑把な幼馴染は上体を起こして言った。
どちらでも不都合がないのなら、決めてしまえばいい。ただそれだけだと言わんばかりの顔をしている。この迷いのない性格をセシルも見習いたいと常々に思う所である。
「そうだね」
しかし、セシルが言えたのはここまでだった。これ以上言えば口を滑らせてしまうと思ったから。
「うーん。言ってくれるまで聞かないようにしてたんだけど……どうして選ばないんだ?」
どうやらついに痺れを切らしたらしいジーナは、茶色の瞳を向けて覗き込んできた。まるで心の奥底を探る様に。
脳裏に浮かぶのは昨日、アニタと話した時の事だった。喉元まで出た言葉を必死に飲み込んだ、あの瞬間だった。今回も同じように喉元まで問いが出かけている。
「――」
セシルは口を引き結んで俯く。無駄な事を話さないように。
そんな時。
背に慌ただしい、ドアを勢いよく開け放つ音が届く。
慌ててセシルは俯いた顔を上げて、振り向くと。
「私も聞きたい」
そこにはアニタがいた。どうやらドアの向こうで会話を聞いていたらしい。
「アニタ、盗み聞きはいけないかな。でも……黙る奴も黙る奴か」
だんだんと幼馴染の声が低くなっていく。察しのいいジーナはどうやら二人の間で何かがあったと悟ったらしい。このまま黙っていれば力付くでも聞き出そうとするだろう。
それを証明するかのように前方からは鋭い威圧感がする。
そして、背には――
「昨日のセシルの様子がおかしかったから気になって――だから聞かせて」
アニタの真っ直ぐな言葉が突き刺さる。
二人共悪意を持ってやっている訳でない事は理解している。ただセシルを知りたいだけなのだ。何を想って中性体のままでいるのかを。それを知らなければ心が晴れる事はないのだろう。
(ここまで来たら……全部話すしかないよね)
セシルは観念して威圧感を放つジーナの瞳を見つめて一度頷く。
すると意図は通じたらしく幼馴染はいつもの陽気な笑顔を浮かべて言葉を待ってくれた。アニタもゆっくりとセシルへと近づき、その小さな体を背へと預けてきた。
触れた温もりが、セシルの心に浮かぶ不安を少しずつ消してくれる。今ならば何でも出来てしまう、そう思えるほどに力が湧いてくる。
「僕は――選ぶ事が恐い」
セシルは内に浮かぶ悩みを言葉へと変える。おそらくこれだけでは通じる事はないだろう。それでもこれが性別を選ぶ事が出来ない一番の理由なのだ。それを伝えなければ始まらないのである。
「何が恐いんだい?」
最初に問うたのは幼馴染だった。髪と同じ色の眉を歪ませて難解な問題に挑むような顔をしていた。その表情は「もっと簡単にしてくれ」とでも言いたげな様子にも見える。
もう隠すつもりはないセシルはゆっくりと口を開く。伝えるために。
「選ぶ事で変わってしまう事が恐い。この温かな……幸せな日常が」
セシルは背に感じる温もりを思いながら問いに答える。
それと同時にジーナに視線を向ける。彼女がどう反応するのか、それが知りたかったから。
「うーん。何か変わるの? セシルはセシルだよね?」
しかし、ジーナは歪めた眉はそのままに首を傾げるだけだった。
そんな彼女の様子を見て目を見開いたのはセシルである。彼女にとっては男になろうが、女になろうが大差はないらしい。根底は変わらないのだから当然と言えば当然なのだが。
しかし、何か思う所はないのだろうか。
「どちらを選んでも……ここにいるんだよね、セシル?」
次は背に甘えるようなアニタの言葉が届く。
どちらを選んでもアニタは側にいてくれるというのだろうか。変わらずこのままで。
それはセシルにとってはこの上ない幸せである。例え裕福になれずとも、二人がいれば笑っていられるような気がするから。
この冷たい世界で、ずっと笑っていられると思えるのだ。
しかし、セシルの心の内は依然晴れる事はない。もしかすれば彼女達が無理をしているのかもしれないから。
そう思ったセシルは――
「二人とも……いいの? アニタはお母さんが欲しいんだよね? ジーナは一緒に暮らすなら女性の方が楽なんじゃ」
早口で二人へと内に浮かぶ疑問を投げかける。何度飲み込んだから分からない言葉を。
「お母さんは欲しいかな。でも、セシルがお母さんの代わりなの」
アニタは背へと押し付けた滑らかな頬を、小動物のようにすり寄せてきた。
触れた合った身から伝わる温かさがアニタの言葉が嘘でないと教えてくれる。心から「母親」だとそう思ってくれているのだ。中性体であるセシルを。血の繋がりなどなくても。
「セシルが男性になってもこの気持ちは変わらないかな。私にとってのお母さんは――セシルだよ」
喜びに浸っていると再び背へとアニタの言葉が届く。
しかし、言葉の意味をすんなりと理解する事は叶わなかった。男性なのにお母さんとはどういう事だろうか。
「なるほどね。それならあたしがアニタのお父さんかな」
どうやらジーナは言葉の意味が分かったらしく楽しそうに、それでいて嬉しそうに頬を緩めていた。
「うん。頼りになるジーナがお父さんで、甘えられるセシルがお母さん」
アニタの嬉しそうな声が背中越しに、ジーナへと答える。
(そうか……性別なんて関係ないんだね。本当の親でもないし。役割だけでも果たせていれば、アニタには十分なんだ)
セシルは心中で呟いて苦笑する。
この二人に囲まれていると、固定観念に縛られている自分が愚かしく見えて仕方がない。悩む事事態が馬鹿らしく思えてしまうほどに。
「本当に二人は適当なんだから」
セシルは思ったままを口にする。
もうこの二人に濁した言葉はいらないと思ったから。
「あたしが大雑把な事は知ってるだろう? セシルが男になっても気にしないよ。まあ、こんな可愛らしい顔の男がいるなら襲ってしまうかもしれないけど」
ジーナはセシルが吹っ切れたと思ったらしく、さっそく冗談を飛ばす。いつものように。
「襲う?」
その冗談を聞いてアニタが小首を傾げる。
「そう。その後は――」
「ジーナ! アニタの前だよ!」
とんでもない事を口走りそうな幼馴染の口を飛び掛かるような勢いでセシルは塞ぐ。
「うー。また秘密なの」
アニタは両手を胸の高さで握り、頬を膨らませている。だからと言ってほいほいと教える訳にはいかないのだ。
「大きくなったら教えてあげるよ」
そう誤魔化すだけが精一杯だった。それと同時にさすがにこれ以上は問題発言をしないと信じて塞いでいた口を解放する。
すると。
「男になるなら……守ってよ」
ジーナが耳元で囁くように呟いた。当然、アニタには聞こえないような小声で。
「うん。僕にしか出来ない方法で」
その気持ちに応える様にセシルは囁くように呟いた。