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赤い月  作者: 粉雪草
セシル編
7/10

前編

― 前編 ―


 両手に朝食を持って歩いているのは、水色のエプロンを身に纏うセシル。

 右手に持っているのはパンの入ったバスケット、左手に持っているのは目玉焼きにベーコン、そして焼いたトマトを載せた小皿である。

 それらを焦げ茶色をした木製の円形テーブルに置いたセシルはとりあえず一息つく。

(――起こさないと)

 しかし、すぐに表情を引き締めて心中で呟く。

 早朝というのはどの家庭でも忙しいものである。それはセシルにとっても同じであり、やるべき事は数えきれないほどある。その一つが彼女達を起こす事だ。

 セシルが起こすべき相手。

 それは物心ついた頃から一緒にいる幼馴染のジーナと、一年前に拾ったアニタである。二人は毎朝セシルに起こされる事が習慣化してしまい自分達では起きてはこない。その事に対してセシルは何の不満もなく、むしろ役に立てる事が嬉しいとすら思っているほどだ。

(冷めない内に済ませないと)

 彼女達の笑顔を思い浮かべて表情を緩ませたセシルは、軋む音を響かせながら一歩、二歩と進んでいく。

 すると目的の部屋へと続くドアが視界へと入る。

「朝だよ。二人とも」

 まずは声を上げると共にドアを握った拳で数回叩く。

 本来であればドアを開けて叫んだ方が効率はいい。

 しかし、さすがに半分は男である中性体のセシルが、女性二人が眠っている寝室に入るのは気が引けるのだ。そのため毎朝どちらかが起きるまでこうして外で叫び続けている。

(起きないかな?)

 六回ほど叩いた所でセシルは一度手を止める。そして、さらなる大声、いや叫び声を上げるために肺に空気を取り込む。

 しかし、取り込んだ空気が叫び声として放たれる事はなかった。目的の部屋へと続くドアがゆっくりと開かれたからだ。

「おはよう」

 ドアが軋む音と同時に聞こえたのは、まだあどけなさを感じさせる声。どうやらジーナではなくて、アニタが先に目覚めたらしい。

 視線を合わせるために屈むと、予想通りにとろけた空色の瞳を左手で擦っているアニタがいた。まだ着替えてはいないらしく、淡いピンク色の就寝着のままであった。

(相変わらず……朝が弱いんだね)

 もう一度眠ってしまいそうな幼女を見つめながらセシルは思う。今年で五歳になるけれど、まだまだ幼さが抜けていないアニタ。それを示す様に、彼女の腰まで伸びている淡い金髪は寝癖だらけで外側に跳ねている。世話焼きのセシルからすれば、どこから手をつけていいのか悩むほどだ。

 そんな幼く未熟なアニタは見ていると自然と心が安らいでいく。まるで我が子を見ているかのように心が温まる。ただ漫然と生きていく事が幸せだと、そう思えてしまうほどに。

「おはよう。アニタ」

 心を満たしていく想いを確かめるために、セシルはまどろむアニタの細い肩を優しく抱きしめる。

 抱きしめられたアニタは心地良さそうに頬を緩ませていく。そして、次の瞬間には一定のリズムで呼吸を繰り返す。

(寝ちゃった)

 微かな寝息を右肩に感じながら心中で苦笑するセシル。

 起こしに来たというのに再び眠らせてしまってはいけないのだけれども、幸せそうなアニタを抱きしめていると起こすのは躊躇われた。

 とりあえず一人は保留。しかし、セシルにはまだ起こすべき人がいるのである。

(えっと……ジーナは?)

 目的の人物である幼馴染のジーナは、入ってきたドアから見て右奥に位置するベッドで、片足を真っ白なシーツから飛び出して寝相悪く眠っていた。

 彼女は言うなれば、セシルとは正反対の人間である。性格は大雑把で、常に明るい事しか考えない楽観主義者。料理、掃除、洗濯など家庭的な事は一切せずに、その腕っぷしだけで生きている。そんな人だった。

 その逆がセシルである。性格は細かく争い事は好まない。そして、男に近い中性体であるにも関わらず、この家の家事を全て行っている。

 そんな真逆な二人。真逆だからこそ一緒にいられるのか、それとも単に幼馴染だから一緒にいるのかは今ではよく分からない。ただ空気と同じように、その場にいる事が当たり前となってしまっているのだ。

(また掃除しないとね)

 セシルは、床へと投げ出された普段着のウェア、軍服に似せてデザインされたと言われる仕事着、その他にも左側の壁に沿うように配置されている机上に散在された本を見つめて密かに決意する。全てはジーナの私物だ。一緒に部屋を使用しているアニタの物では決してない。

 以前から何度も注意している。だが、「細かい奴だなー」と言って真紅の髪を掻きむしるだけで改善する様子の無い大雑把なジーナ。そんな彼女の世話を焼いてしまうセシル。

 これが二人の日常である。ずっと変わらない、平凡な日常だ。

 そんな日常を今日も始めるために、セシルは声を上げようと口を開きかける。

 すると。

「――朝か」

 まるで弾かれたようにジーナが半身を起こす。

 声ははっきりとしており、それでいてセシルを見つめる茶色の瞳には確かな光が宿っていた。今まで寝ていたのが嘘のような目覚めである。本人が言うには目覚めてすぐに夜盗の一人くらいは倒せるくらいに目覚めがいいらしい。セシルからすればよく分からない例えではあるが、目覚めがいい事は一度目にすれば分かる。

「朝食は用意してあるよ」

 セシルは幼馴染が急に目覚めた事に驚きながらも、とりあえずは必要な事を述べる。

「そうか。いつもありがと」

 ジーナは短く礼を述べるとベッドから、するりと抜け出す。

 彼女は白いワイシャツを身に纏っているだけだった。そんな彼女の姿は晒された長い脚と相まってどこか艶めかしい。

 しかし、自身の姿を見せつける素振りはなく、極自然な手つきで床に落ちている綿製のズボンを拾い上げる。そんな彼女はセシルがいる事もお構いなしに着替えを開始していく。といっても過度な露出を減らしているだけなのだが。

「僕が男性に近い中性体という事を忘れてない?」

「今さら隠すような事か?」

 とりあえず声を掛けてはみたが、ジーナは首を傾げるのみ。静止の声を掛ける間もなく、すぐさま身に纏うワイシャツを脱いで肌に合ったタイトなウェアを拾い上げる。

 ずっと一緒にいるのだ。肌くらい見せても何も恥ずかしい事はない。そう彼女は言いたいのだろう。それともただ単に異性として数えられていないのか。

(それを聞くのもね)

 聞きたい気もするけれど、それは聞いてはいけないような気がする。

「うぅ……」

 ジーナとのやり取りに集中していると、腕に抱くアニタが一度動く。

 起こしてしまったかと思い、注意深くアニタを見つめると。

 アニタはまだ健やかな寝息を立てていた。

「お母さん」

 そして、時折寝言まで呟く始末だった。

「お母さんか。確かにそうかもしんないねぇ」

 ジーナは、セシルとアニタを見つめて声を押し殺して笑う。

「もう一度言うけれど、僕は――」

「男には見えないって」

 男に近い中性体だと言おうとしたが、幼馴染は笑いを堪えた引きつった笑みを浮かべて断言した。

 料理に、掃除に、洗濯までこなしてしまうのだ。そう断言されても仕方がないような気もセシルはする。

 しかし、心は常に男であるつもりだ。幼馴染にまで否定された事に少なからずショックを受けていると。

「冗談だってぇ。お前は本当に面白い」

 ジーナは笑い声を隠しもせずに、ドアへ向けて、つまりはセシルに向けて歩いてくる。

 その様子を眺めながら何をするのかと訝しむセシル。そんなセシルを視界には収めずに彼女は眠るアニタに向けて手を伸ばす。

「アニタちゃーん。もう起きてね」

 そして、アニタの淡い金髪を乱暴に撫でた。

「うー?」

 撫でられたアニタは整った眉を一度歪ませる。

 しかし、次の瞬間には大きな空色の瞳を、さらに大きく見開いた。どうやら完全に目覚めたらしい。

「ご飯にしようか」

 ようやく動けるようになったセシルはゆっくりと抱擁を解いて立ち上がる。

「あいよ」

「うん」

 その瞬間に、セシルに応えるように二人の声が上がった。



「あー。暇だねぇ」

 天井を見つめて、意味もなく独語したのはジーナである。

 彼女が現在いるのは、「自警団」の詰所である。自警団とは盗賊、ごろつき、はたまた外から流れ込んできた荒くれ者を取り締まる者だ。仕事に必要なのは腕っぷしと、即座に介入出来る正義感、または行動力だけである。

 そんな彼女達自警団の詰所は襲撃に備えて岩を使用している。建物のほとんどが木製である、このストレアの街にとっては比較的珍しい作りである。しかもただの岩ではなく、その頑強さは巨大な斧ですら弾き飛ばすほどらしい。

 試しに自警団の一人が力任せに剣を振り下ろした事があるらしいが、その結果は腕が折れたとか、骨が粉砕したとか。そんな信じられないような話が伝わっているけれど、その真相をジーナは知らない。

 このまま何もする事がないのかと、じっと茶色の瞳を天井に向けていると。

「仕事がないのが一番だろ?」

 詰所の壁に背を預けている三十代半ばの同僚が声を掛けてきた。自警団指定の、どこか軍服に近いデザインが成された、深い青色の制服をきっちりと着込んだ男である。その着こなしと、厳つい顔とが相まって、どこか固そうなイメージがする。

 実際は固いというよりも寡黙で真面目な男らしい、という事は共に詰所で待機しているジーナは分かりつつある。制服のボタンを全て外して、両開きに開いている自由奔放なジーナとは天と地ほどの差があるに違いない。

 そんなセシルとは別の意味で違いのある彼の言葉を、ジーナは心中で呟いてみる。

(仕事がないのが……一番か)

 彼の言う事はまっとうだった。自警団が動くという事は何かが起きた時。それは言い換えれば誰かが不幸になった時だ。それは当然、無いに越した事はない。

「ただ存在して抑止力になればいい――だっけ?」

 背もたれのある椅子に背を預け、テーブルにだらしなく両足を投げ出してジーナは言葉を返す。

 一ヶ月前くらい前はほぼ毎日揉め事が起きていたのだが、今は多くて二日に一回くらい。この街も平和になってきたという事だろう。

「そうだ」

 同僚の男は肯定の意思を示すために一度首肯する。

 そんな彼を見つめて、ジーナは彼の印象を深める。やはり堅物で真面目だと。

 明らかに性格が合わない者同士がこれ以上会話が長続きする筈もなく、ジーナは口を引き結ぶ。

(あいつとは話せるのにな)

 そして、再び天井を見つめて思考の海へと浸っていく。

 あいつ、というのは当然セシルの事である。ジーナとは正反対できめ細かな気配りが出来る、彼とも彼女とも言えない中性体の事だ。

 セシルは、まるでジーナを支えるようにいろいろと尽くしてくれる。

 疲れを癒すような笑みを見せてくれたり。

 乱れた部屋を整理、整頓してくれたり。

 毎朝、朝食を作ってくれたり。

 挙げればきりがない。セシルは自身を男だと主張するが、ジーナよりもよほど女性らしい気がしてならない。自身がかなり極端であるのは否定出来ないけれど。

 男だと主張するのに、女性らしい。

 そんなセシルを気味悪く見る者もいる。影で悪く言う者など探せば幾らでもいるだろう。

 中には中性体という自身とは異なる存在というだけで差別する者もいるくらいだ。

(くだらないよな)

 ジーナは心中で吐き捨てる。

 大切なのは、その人の内面だ。あれだけ柔らかい人を否定する、この世界の狭さ、小ささには嫌気が差してしまう。話してみれば、セシルがどれだけ心が柔らかいのかは分かる筈だというのに。

 それでも『中性体』というだけで、損をしているセシル。それを知っているにも関わらず性別を決めない幼馴染。

(何が原因かな)

 すでに十六年も一緒にいるけれど、なぜ彼が性別を選ばないのかをジーナは知らない。聞いても答えてはくれないため、分からないのだ。

 ふと視線を右の壁へと、そこにかかっているカレンダーへと移す。正確にはカレンダーについた赤い丸印を。

「あと二日だな」

 ジーナの視線を追ったのか、同僚の男が口を開く。

 あと二日後に赤い月がこの世界を照らす。ジーナ達のようにすでに性別が決まっている者にとっては、ただ世界を赤く照らすだけの月。

 しかし、セシル達のような中性体にとっては深い意味を持っている月である。赤き月が昇る時に、自らの性別を強く決意した者は望んだ性別に変われるのだ。

 ある者には救いを与え、ある者には別れを告げさせる赤き月。

 性別は変わろうが中身は同じ。それが分からずに人は性別が変わるだけで距離感が変化してしまう。結果、悲しい別れが訪れる場合もある。逆に性別を選ぶ事で異性と結ばれ幸せになる者。はたまた仕事に役立てて成功する者もいる。

 全ては選ぶ者と、その周囲次第。中性体にとってはまさに人生の大きな節目と言っても過言ではない瞬間。それが赤き月が昇る日である。

「そうだね。ついに昇るんだ……今年も」

 ジーナはカレンダーから視線を外して呟く。これで会話は終わると思った。

 しかし――

「中性体の……セシルだったか? もう決めたのか?」

 なぜか同僚の彼はジーナに向けて問いを放ってきた。

 ジーナは言葉に驚いて視線を彼へと向ける。彼は厳つい顔を険しく歪めて、ジーナを黙って見つめていた。おそらく言葉を待っているのだろう。

(なんで聞くんだ?)

 それがまず頭に浮かんだ事だった。ジーナのように一緒に住んでいる者にとっては少なからず影響がある事だが、彼には何の関係もないように思えるのだ。

「なぜ聞くんだ?」

 疑問が晴れないジーナは脳裏に浮かんだままの言葉を発する。発した瞬間に問いに問いを返してしまった事に気づく。

「深い意味はない。そいつがどちらを選んだとしても俺には関係はないからな。ただ元中性体としては気になるんだ」

 男はジーナの言葉を気にした様子もなく、視線を外して問いに答えてくれた。

(なんだって?)

 言葉を受け取ったジーナは瞳を大きく見開いて、男を注意深く見つめる。しかし、どこからどう見ても周囲にいる成熟した男と変わらなかった。

「驚いたか? まあ、そうだろうな。中性体として生まれた者は、親がその存在を周囲にばれないように隠し……どちらかに決めてしまうケースが多い。俺は親に何度も『男』だと言い聞かされたよ。そのおかげで親と……今話したお前くらいしか事実を知らない」

 驚き放心しているジーナに男は淡々と語っていく。

 もはや過ぎた事だと言わんばかりの顔をしている所を見ると、別段気にしている訳ではないらしい。それでも話せば自身が不利になる事は分かりきっているために、今まで話さなかったのだろう。さらに言えば話す必要もない。

「そうか。親が決めてしまう事もあると聞くな。セシルの親は中性体が生まれた事に落胆して……どこか別の街に行ってしまったよ。だから、あのまま育ってしまったのかもしれない」

 ジーナは、幼馴染が変わらない理由を自らの足りない頭で考え、それを口にする。

「かもしれないな。何か特別な環境に置かれなければ変わろうとは思わないだろう。答えを出すのを待つのもいい。しかし、話を聞いて、背を押してやる事も必要だと思うぞ」

 同僚はどこか他人事のような口ぶりだったが、同じ中性体として生まれたセシルの事を放っておけないという心情は確かに伝わってきた。

「そうだな。考えとくよ」

 ジーナはそう言って瞳を閉じる。同僚は他に言葉を発する事はなかった。

 再び沈黙が訪れるが、それはいつもの沈黙と比べれば雲泥の差だった。

 しかし、暇である事は変わらず、巡回のために外でも回ってこようかと思った時。

 慌ただしい叫び声が詰所に響く。

「大変だ。ジーナ!」

 叫び声の正体は駆け込むように詰所へと入った、ジーナよりも一歳か二歳若い少年のものだった。

「どうした」

 まず反応したのは、同僚の男である。

 遅れてジーナもテーブルに上げていた足を、すぐにでも動き出せるように、降ろす。

「酒場の奴らが揉めているんだ!」

 そんな二人に向けて慌てた様子で少年がもう一度叫ぶ。

 その様子にジーナは眉根を寄せる。それは同僚の男も同じだ。

 理由は簡単である。

 酒場に集まった荒くれ程度であれば、詰所に報告したこの少年だけでも事が足りてしまうからだ。それとも予想以上に暴れている者が多いのだろうか。

「とりあえず行こう」

 同僚の男が詰所の外に向けて早足に進んでいく。聞くよりも実際に見た方が早いと、その背は語っているようだった。

「ああ」

 ジーナも街に起こった異変を一刻でも早く解決させるために、彼の後を追った。


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