後編
― 後編 ―
日々、変わらない世界。
しかし、一年に一度だけ世界は変質する。
不気味な月が空へと昇る事で。
「フィンス。今日は終わっていいぞ」
額に浮かぶ汗を拭っていると、低い声が掛けられる。確認せずとも親方の声である事は、すぐに分かる。
フィンスはちょうど空の台車を押している所であり、仕事を終えるタイミングとしては申し分ない。おそらく親方は空へと昇る、赤い月を気にしているのだろう。
そして、フィンスがどんな答えを出すのかを。
「――」
フィンスは無言で台車を押す。向かうのは水晶色の結晶の隣で腕を組む親方の前である。
「どうした?」
親方は厳つい顔を歪める。といっても眉根を寄せただけなのだが。
「お話があります」
台車から両手を離して、短く呟く。
もう飾った言葉はいらない。ただ、内にある言葉を伝えればいいだけなのだ。
「決めたのか?」
親方は察してくれた。
その瞬間に周囲の視線が集まる。それらの視線を無視して、見つめるのはただ一人。
一度、風が吹いて雪を思わせる白い髪が揺れる。
「はい。私は――女性として生きます」
揺れない想いを、意志を、言葉に変える。
その結果、この仕事を失う事になるかもしれない。それでも彼女の側にいたいから。
もっと賢い答えがあるのかもしれない。それでも、これが今のフィンスの精一杯だった。
「そうか。分かった」
親方は瞳を閉じて、短く呟くだけだった。厳つい顔は若干、緩んでいるようにも見える。
「し……仕事は?」
怒ってはいないようだが、明日の事が気になりフィンスは問う。
「この仕事は解雇だな」
緩んだ表情はそのままで呟く、親方。
単純な腕力だけを求める仕事だ。女性には不向きである。解雇と言われても文句を言う事は出来ない。しかし、まさか緩んだ表情のまま言われるとは思ってもいなかった、フィンスである。
「ありがとうございました」
どんな別れであっても世話になった事は事実であり、フィンスは当たり障りなく頭を下げる。これで終わり。明日の事は、明日考えるしかない生活の始まりである。
無計画だと笑われるかもしれない。それでも今進まなければ、ずっと変われないような気がするから。
「おい。なんで……お別れみたいな挨拶をしているんだ?」
下げた頭を再び上げて振り返ろうとすると、不機嫌そうな声が掛けられる。
「お別れみたい?」
体を止めて、フィンスは問いを返す。
何か間違った解釈をしただろうか。確かに「解雇」と耳にした気がする。
「運搬の仕事は解雇だ。しかし、やって欲しい仕事がある。明日もこの時間だ。いいな」
親方は念を押す様に、まるで拒否権など最初からないかのように、呟いた。
「やって欲しい仕事? まだ働ける?」
「ああ。お前にはぴったりの仕事だと思う。この俺に向かって叫んだのは、お前だけだからな」
呆気に取られていると、親方の大きな手はいつの間にかフィンスの頭の上に移動していた。
「な……なにしてるんですか!」
抗議の声を上げたが、親方はフィンスの髪を乱暴に撫でる。まるで我が子を可愛がるように、撫で続けた。最初は不快だったが、フィンスはいつの間にか笑っていた。
「いい笑顔だ。行ってこい。変わるために」
散々撫でた親方は、大きな手を除けて、低く呟く。いつものように。
「はい!」
フィンスは一つ頷いて、駆け出す。
もう何も心に浮かぶ不安はないから。
フィンスを包み込むのは、赤い月の光。
自身を変える光を、全身で感じながらフィンスは走る。
――想い人に会うために。
地面から突き出た結晶を右に、左に避けて、薄い茶色をした細かい岩を踏みしめて。
ほどなくして見えたのは二人が暮らす、小高い丘に向かうための道である。
固い岩の振動が、フィンスの疲労が溜まった両足に負荷をかける。走る事で息が乱れてくる。
それでもフィンスは止まれなかった。
内なる意志を貫くために。心を揺らがせないためにも。
「これで戻れない」
言葉を発して、自身の心をさらに固めていく。
固まった心は、想いは、空へと昇る。
想いは赤き月へと届き、光はフィンスを包み込む。まるで祝福するかのように。
視界はただ赤かった。前は見えない。
しかし、それは一瞬の事。
一度、二度、瞬いた時には視界は再び開ける。それと時を同じにして瞳に入ったのは、戻るべき場所だった。
彼女が待つ、帰るべき居場所である。
あと一息。小高い丘を越えればすぐにでも会える。
そう思った瞬間。
急に体の重さを感じて、フィンスは訝しんだ視線を自身の身へと向ける。
しかし、特に変わった所はない。
(重い――いや、鈍い。それに息が苦しい?)
動きの鈍さ、そして、なぜか乱れる呼吸を感じながら心中で呟く。
もう走る事は出来なかった。
「ここまで――来ればいいか」
すぐにでも、彼女に会いたい。
しかし、無理をする必要はないと思い額に浮かぶ汗を右手で拭う。
すると、違和感がした。それは自身の頬にかかっている見慣れない髪。
それは色鮮やかな桜色の髪だった。
白い髪は中性体を示す色。この明るい鮮やかな色が、自身の色だと言うのだろうか。
(もしかして)
丘を登りながら、確認するように自身の体に触れる。
手に触れた感触は、サーシャに触れた時の感触に近いものだった。
言いようのない柔らかさである。さすがに今の今まで肉体労働をしていただけはあって、サーシャほど柔らかくはない。しかし、今までの自分の体とは思えないくらいの柔らかさだった。
そして、よく見ると全身が丸みを帯びているような気がする。
自身は変わったのだ。求めていた姿に。サーシャと同じ、女性に。
変われたのだ。
その喜びを伝えようと、再び固い地面を蹴ろうとすると。
「綺麗な髪ね」
届いたのは柔らかい声だった。
声に導かれて視線を小高い丘の上へと向ける。そこにいたのは花が咲いたような笑顔を浮かべた、大切な人。
どうやら家で待っている事が出来ずに出てきてしまったらしい。
「綺麗かな」
彼女に褒められた事が嬉しくて、頬にかかった髪を優しく、愛おしそうに撫でる。
「今のフィーは――」
淡い金色の髪を揺らしながら彼女は近づいてくる。いつものように、ゆったりと。
そんな彼女を、フィンスは黙って待つ。
「さらに素敵だわ」
近づいた彼女は優しく、それでいて包むように抱きしめてくれた。溢れる想いを伝えるために。
「それだけで――私は十分だ」
彼女の想いに応えるために、サーシャの細い腰に腕を回す。まるで壊れ物を扱うかのように。
「私は幸せだから」
そして、フィンスは短い言葉に全ての想いを込めて伝える。ずっと一緒にいられる事を祈って。
「ずっと側にいてね、フィー」
「ああ。お前のフィーは――ずっといるよ」
フィーへと名を変えた少女は、腕の中にある幸せをずっと、ずっと抱きしめ続けた。