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赤い月  作者: 粉雪草
フィンス編
4/10

後編

― 後編 ―



 日々、変わらない世界。

 しかし、一年に一度だけ世界は変質する。

 不気味な月が空へと昇る事で。

「フィンス。今日は終わっていいぞ」

 額に浮かぶ汗を拭っていると、低い声が掛けられる。確認せずとも親方の声である事は、すぐに分かる。

 フィンスはちょうど空の台車を押している所であり、仕事を終えるタイミングとしては申し分ない。おそらく親方は空へと昇る、赤い月を気にしているのだろう。

 そして、フィンスがどんな答えを出すのかを。

「――」

 フィンスは無言で台車を押す。向かうのは水晶色の結晶の隣で腕を組む親方の前である。

「どうした?」

 親方は厳つい顔を歪める。といっても眉根を寄せただけなのだが。

「お話があります」

 台車から両手を離して、短く呟く。

 もう飾った言葉はいらない。ただ、内にある言葉を伝えればいいだけなのだ。

「決めたのか?」

 親方は察してくれた。

 その瞬間に周囲の視線が集まる。それらの視線を無視して、見つめるのはただ一人。

 一度、風が吹いて雪を思わせる白い髪が揺れる。

「はい。私は――女性として生きます」

 揺れない想いを、意志を、言葉に変える。

 その結果、この仕事を失う事になるかもしれない。それでも彼女の側にいたいから。

 もっと賢い答えがあるのかもしれない。それでも、これが今のフィンスの精一杯だった。

「そうか。分かった」

 親方は瞳を閉じて、短く呟くだけだった。厳つい顔は若干、緩んでいるようにも見える。

「し……仕事は?」

 怒ってはいないようだが、明日の事が気になりフィンスは問う。

「この仕事は解雇だな」

 緩んだ表情はそのままで呟く、親方。

 単純な腕力だけを求める仕事だ。女性には不向きである。解雇と言われても文句を言う事は出来ない。しかし、まさか緩んだ表情のまま言われるとは思ってもいなかった、フィンスである。

「ありがとうございました」

 どんな別れであっても世話になった事は事実であり、フィンスは当たり障りなく頭を下げる。これで終わり。明日の事は、明日考えるしかない生活の始まりである。

 無計画だと笑われるかもしれない。それでも今進まなければ、ずっと変われないような気がするから。

「おい。なんで……お別れみたいな挨拶をしているんだ?」

 下げた頭を再び上げて振り返ろうとすると、不機嫌そうな声が掛けられる。

「お別れみたい?」

 体を止めて、フィンスは問いを返す。

 何か間違った解釈をしただろうか。確かに「解雇」と耳にした気がする。

「運搬の仕事は解雇だ。しかし、やって欲しい仕事がある。明日もこの時間だ。いいな」

 親方は念を押す様に、まるで拒否権など最初からないかのように、呟いた。

「やって欲しい仕事? まだ働ける?」

「ああ。お前にはぴったりの仕事だと思う。この俺に向かって叫んだのは、お前だけだからな」

 呆気に取られていると、親方の大きな手はいつの間にかフィンスの頭の上に移動していた。

「な……なにしてるんですか!」

 抗議の声を上げたが、親方はフィンスの髪を乱暴に撫でる。まるで我が子を可愛がるように、撫で続けた。最初は不快だったが、フィンスはいつの間にか笑っていた。

「いい笑顔だ。行ってこい。変わるために」

 散々撫でた親方は、大きな手を除けて、低く呟く。いつものように。

「はい!」

 フィンスは一つ頷いて、駆け出す。

 もう何も心に浮かぶ不安はないから。

 フィンスを包み込むのは、赤い月の光。

 自身を変える光を、全身で感じながらフィンスは走る。

 ――想い人に会うために。

 地面から突き出た結晶を右に、左に避けて、薄い茶色をした細かい岩を踏みしめて。

 ほどなくして見えたのは二人が暮らす、小高い丘に向かうための道である。

 固い岩の振動が、フィンスの疲労が溜まった両足に負荷をかける。走る事で息が乱れてくる。

 それでもフィンスは止まれなかった。

 内なる意志を貫くために。心を揺らがせないためにも。

「これで戻れない」

 言葉を発して、自身の心をさらに固めていく。

 固まった心は、想いは、空へと昇る。

 想いは赤き月へと届き、光はフィンスを包み込む。まるで祝福するかのように。

 視界はただ赤かった。前は見えない。

 しかし、それは一瞬の事。

 一度、二度、瞬いた時には視界は再び開ける。それと時を同じにして瞳に入ったのは、戻るべき場所だった。

 彼女が待つ、帰るべき居場所である。

 あと一息。小高い丘を越えればすぐにでも会える。

 そう思った瞬間。

 急に体の重さを感じて、フィンスは訝しんだ視線を自身の身へと向ける。

 しかし、特に変わった所はない。

(重い――いや、鈍い。それに息が苦しい?)

 動きの鈍さ、そして、なぜか乱れる呼吸を感じながら心中で呟く。

 もう走る事は出来なかった。

「ここまで――来ればいいか」

 すぐにでも、彼女に会いたい。

 しかし、無理をする必要はないと思い額に浮かぶ汗を右手で拭う。

 すると、違和感がした。それは自身の頬にかかっている見慣れない髪。

 それは色鮮やかな桜色の髪だった。

 白い髪は中性体を示す色。この明るい鮮やかな色が、自身の色だと言うのだろうか。

(もしかして)

 丘を登りながら、確認するように自身の体に触れる。

 手に触れた感触は、サーシャに触れた時の感触に近いものだった。

 言いようのない柔らかさである。さすがに今の今まで肉体労働をしていただけはあって、サーシャほど柔らかくはない。しかし、今までの自分の体とは思えないくらいの柔らかさだった。

 そして、よく見ると全身が丸みを帯びているような気がする。

 自身は変わったのだ。求めていた姿に。サーシャと同じ、女性に。

 変われたのだ。

 その喜びを伝えようと、再び固い地面を蹴ろうとすると。

「綺麗な髪ね」

 届いたのは柔らかい声だった。

 声に導かれて視線を小高い丘の上へと向ける。そこにいたのは花が咲いたような笑顔を浮かべた、大切な人。

 どうやら家で待っている事が出来ずに出てきてしまったらしい。

「綺麗かな」

 彼女に褒められた事が嬉しくて、頬にかかった髪を優しく、愛おしそうに撫でる。

「今のフィーは――」

 淡い金色の髪を揺らしながら彼女は近づいてくる。いつものように、ゆったりと。

 そんな彼女を、フィンスは黙って待つ。

「さらに素敵だわ」

 近づいた彼女は優しく、それでいて包むように抱きしめてくれた。溢れる想いを伝えるために。

「それだけで――私は十分だ」

 彼女の想いに応えるために、サーシャの細い腰に腕を回す。まるで壊れ物を扱うかのように。

「私は幸せだから」

 そして、フィンスは短い言葉に全ての想いを込めて伝える。ずっと一緒にいられる事を祈って。

「ずっと側にいてね、フィー」

「ああ。お前のフィーは――ずっといるよ」

 フィーへと名を変えた少女は、腕の中にある幸せをずっと、ずっと抱きしめ続けた。


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