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赤い月  作者: 粉雪草
フィンス編
3/10

中編

― 中編 ―


 瞳に感じるのは淡い光。

 光は開いた瞳を焼く様に照らし、フィンスを徐々に覚醒させていく。

「もう朝か」

 独語して、上体をゆっくりと起こす。朝に強いフィンスは、すぐにでも起き上がる事が可能だ。それにも関わらずゆっくりと体を起こすには理由がある。

 全身に鋭利な針で突き刺したような痛みが駆け抜けたからだ。

 昨日、酷使した体が悲鳴を上げているのである。走った痛みはフィンスが想像したものを遥かに超えており、両肩を抱いて身を丸めるより他に出来る事がないくらいであった。

(このままでは――!)

 確実に体を壊してしまう。あの場で働き続ける事は不可能に思える。

 弱気になる自分が心中を駆け巡る。しかし、ここで止まってしまえば終わりなのである。フィンスには選択肢はないのだから。

 ――生きるためにも、サーシャのためにも。

 止まる訳にはいかないのである。

 全身を酷使した痛みを堪えて、何とかベッドから起き上がるフィンス。

 ただそれだけの動き。それにも関わらず額には嫌な汗が浮かんでいた。

(こんな所は見せられないな)

 溜息を吐くと共に、心中で呟く。

 言葉に出す訳にはいかないから。こんな弱々しい姿を見せれば彼女は心配してしまうから。深緑を思わせる、深い緑色の瞳を潤ませてしまうから。だから決して伝えない。

 もしかすれば気づいているのかもしれない。それでも隠せるのであれば隠したい。

(心が……痛い)

 自身を想ってくれる人に隠し事をしている。その事実が心を締め付け、引き裂かれるような痛みとなって駆け抜ける。痛みを胸の前で両手を握り締める事で耐え抜く。

 彼女の笑顔を崩さないために。彼女は、サーシャにだけは笑っていて欲しいから。

 体と心から上がる悲鳴に耐えていると。

 ほぼ日課と呼んでも差し支えのない音が響く。それはドアをノックする音である。

「朝だよ」

 次に届いたのは、痛む心を吹き飛ばすかのような明るい声だった。その声がどこか近くて、慌てて視線を左に移すと。

 彼女の輝く瞳と目が合った。どうやら声を上げると同時にドアを開けたらしい。いつもは声を掛けなければ開けないというのに。

 昨夜の彼女の様子にはどこか違和感があった。今朝の様子もいつもとは違う。何か彼女の中で変化があったのだろうか。仮にそうであるならば昨夜の会話が関係している気がする。

 フィンスが訝っていると。

「フィー? まだ眠いの?」

 フィンスの心を知ってか知らずか。淡い金色の髪を揺らしながら、いつものように一歩、二歩と近づいてくる。サーシャの、女性特有の甘い香りがするほどに近く。

「朝が強い事は知っているだろう?」

 唇が触れそうなくらいに近くなった彼女を見つめて呟く。

 視線を外す事は出来なかった。先ほどまで悲鳴を上げていた心は、現金なものですでに嬉しさに踊っていた。求めるものは、彼女のみ。

「そうだったね。おはよう、私のフィー」

 フィンスの心に応えてくれたように、彼女は優しく包んでくれた。痛む体を慈しむように、ただ優しく包んでくれた。

(私は弱いな)

 瞳が熱くなっていく事を感じながら、フィンスは心中で呟く。

 彼女が包んでくれるのが嬉しくて、甘えられない自分が悔しい。その想いが内側から、涙として外に出ようとしている。感情を抑えられない、自身の弱さがどこか恨めしい。

「おはよう。サーシャ」

 これ以上は、彼女に自身の気持ちが伝わらないように当たり障りのない言葉を掛ける。いつもなら、これで解放してくれる筈だった。

 しかし。

 彼女は離してはくれなかった。それ所か両肩を震わせている。

(なんだ?)

 サーシャがなぜ肩を震わせているのか、分からない。泣いているのか、怒っているのか。

「頼っていいんだよ?」

 抱きしめている腕を離した彼女は、瞳を涙で濡らして呟いた。

 目の前にいるサーシャの言葉。だが、すぐに理解する事が出来なかった。

「辛いとか、痛いとか……言っていいんだよ」

 儚く笑って、サーシャは言葉を紡いでいく。

 その言葉を聞いて、ようやくフィンスは理解出来た。彼女の想いを。

 苦しむ姿を見せなければ、泣かないと思っていた。

 フィンスが笑えば、彼女は笑顔を向けてくれると思っていた。

 だが、それは違った。

 隠した事で、伝えなかった事で、彼女を悲しませてしまっている。サーシャの端正な顔を歪ませたくなどないのに。涙など浮かべて欲しくはないのに。

「ごめん」

 それだけしか言えなかった。

 浮かぶ想いを言葉に出来ないのだ。しかし、溢れる想いは伝わったのか、サーシャは薄く微笑んでくれた。微笑みが、フィンスの心を晴らしていく。

 救ってくれる。

「いいわ。でも、今度は頼ってね。次に隠したら本気で怒るから」

 子供のように頬を膨らませる、サーシャ。

 そんな彼女はやはり可愛らしかった。年上であるというのに。

「大丈夫。力が湧いたから」

 フィンスは湧き上がる力を言葉に変える。

 体の痛みは消える事はないが、心を締め付けていた痛みはもうない。これなら何とか仕事に行けそうだった。どんな状態でも行くつもりではあるのだけれど。

「行ってらっしゃい」

 花が咲いたような笑顔を浮かべるサーシャ。

 愛しい人の笑顔を瞳に焼き付けたフィンスは――

「着替えるよ」

 背を向けて、淡い水色の就寝着へと手をかける。すると、部屋から出ると思っていた彼女が動く。半分は男である中性体である、フィンス。さすがに着替えは彼女も気にしてくれるだ。

 だが、今日は違った。

「手伝いましょうか?」

 言葉が届くと共に、フィンスの肩へと柔らかい手が触れる。

 刹那、耳へと触れたのは吐息。

「半分は男だって!」

 フィンスは慌てて、肩に触れている真っ白な手へと、自身の両手を伸ばす。さすがに着替えを見られるのは抵抗がある。サーシャを異性として思ってしまうのと、中性体という体に対する負い目があるからだ。

「私は気にしないわ」

 耳元で囁く甘い声。

 その瞬間、背筋に言いようのない感覚が走る。

 悪寒なのか、心地良いのか、両方なのか。それは分からなかった。

「私は恥ずかしいんだ!」

 慌てて叫ぶ。彼女を止めるために。

 その間にサーシャの手は胸元まで進んでいた。就寝着のボタンを外すために。

「そう。残念」

 ボタンを一つ、二つ、外した彼女はその手をピタリと止める。

 どうやら分かってくれたらしい。彼女の事ならある程度は分かっているつもりだったが、今回の彼女の行動はまるで理解は出来ない。

「どうしたんだ?」

 彼女の心に触れるために、問う。

「何でもない」

 しかし、彼女は寂しそうな声を上げて、フィンスの体から両手を離すだけだった。

 慌てて振り向いた先。そこに立っていたのは寂しそうな表情を浮かべたサーシャ。

(分からない)

 フィンスは心中で呟く。

 彼女の心が、感情が、まるで見えない。その事実がフィンスの心を不安にさせる。先ほどまでの湧き上がる力はすでに霧散していた。

 心を占めるのは、彼女を想う気持ち。

「出るね」

 儚く笑った彼女は言葉を残して、背を向ける。そんな彼女の背はどこか寂しそうだった。



 茶色の岩が転がる整備されていない道。

 道を照らすのは変わらない光である。闇を払い除ける、神聖なる月の光だ。

(今日が最後)

 フィンスは仕事に没頭する事で、考えないようにしていた。

 だが、月が地を照らす時刻になると、考えずにはいられない。

 ――自身の事を、二人の将来の事を。

 答えはまだ決まってはいない。むしろ、もう一年先送りにしようかとも思っているくらいだ。この体は不便ではある。だが、無理をしてまで変える必要はないように思ってしまうのだ。

 そう考えて、十四年間生きてきた。

 ズルズルと先延ばしにした結果が、今の自分。中性体という事で、蔑まれ、差別の瞳を向けられる日々を送る事になっているのである。

(全ては自身の弱さが原因)

 空の台車を押しながら、フィンスは思う。

 周囲の陰口が気に入らないのであれば、睨めばいい。

 力が欲しければ、男になればいい。

 答えは簡単だった。だが、それをしなかったのは弱い自分である。

 争い事を起こせば仕事を失う。男となれば、自身を曲げる事になってしまう。

 それが嫌だった。

 両手に伝わるのは、変わらない振動。毎日飽きるほどに感じている、地に無造作に転がる岩と台車の車輪が干渉する事で起こる振動である。

(まるで私のようだ)

 変わらない振動を感じながら、心中で呟く。

 フィンスは、この不変の振動と同じように、ずっと変われないのかもしれない。ずっと蔑まれたままなのかもしれない。

 それは悔しかった。

 心に膨らむのは、理不尽な環境に対する怒り。そして、弱い自身への怒りである。

 この怒りを、仮にぶつける事が出来るのであれば変われるのかもしれない。弱い自分を卒業出来るのかもしれない。

(馬鹿らしい)

 溜息をついて、作業へと戻る。

 なだらかな傾斜を降り、透き通った結晶を目指して歩く。意思を失った瞳を向けて。

 ――時刻は体感で午後十時頃。

 そろそろ苦痛な時間が訪れる頃である。先ほど心に浮かんだ、怒りが再び湧き上がる。

 どうやら赤い月が昇る前日という事で、自身の心が騒いでいるのかもしれない。抑えようと思っても、抑えられなかった。自身は、そこまで変わる事を望んでいるのだろうか。

 答えは決まっていない、というのに。

 結晶に向けて、一歩、二歩と進む。

 その瞬間、響いたのは台車を押す音。それもどこか慌てたような、急ぐような、激しい音だった。

「おっと」

 騒がしい音に混じって響くのは、どこかわざとらしい声。左腕に感じたのは燃やされたような熱と、吹き飛ばされるような衝撃だった。

 フィンスは痛みに表情を歪めて、素早く視線を向ける。

 その場にいたのは小太りな男。昨日、手短に答えを返して、無視した男だ。

(昨日の仕返しか)

 どうやらフィンスの反応が気に入らなかったらしい。わざとである事はいちいち確認せずとも分かる。それを証明するように耳に届くのは、笑い声。どこまでも下品な、汚らわしい声だった。

(こんな存在になりたくは――ない!)

 フィンスは心中で叫び、鋭い視線を前方に向ける。まるで睨むような、どこまでも真っ直ぐな瞳を。己を貫くために。

「フィンス。あと十往復だ」

 しかし、それを粉々に砕いたのは低い声。いつもの親方の指示である。

 全てが見えている筈なのに。

 注意もせずに、助けもせずに、口から出る言葉はそれだけなのか。火がついたフィンスの心は、体は、もう止まらなかった。許す事など、出来なかった。

「ふざっ――ふざけるな!」

 気づいていた時には、叫んでいた。

 場を包むのは、耳が痛いくらいの静寂。今の今まで黙っていた者が急に叫んだのだ、当然の反応だろう。

「――」

 皆が唖然として、目を見開く中で、一人顔色を変えないのは丸太のような太い腕を組み、髭を無造作に伸ばした男。親方である。

 臆さない親方を、フィンスは睨み続ける。

 生きるために男になる、そんな愚かしい選択肢を追い出すために。今思えば馬鹿らしいとしか思えない、愚考を捨て去るために。睨み続ける。

「どうして――私ばかり! 中性体だからか? 他に楽をしている者など、幾らでもいるだろう!」

 フィンスは、まるで山のように動かない親方に向けて、想いをぶつける。

 心へと押し込めた感情を吐き出すかのように。

「どうしてだ? 答えろ!」

 もはや知性、理性という言葉からは程遠い言葉。

 しかし、フィンスはこれで十分だと思った。彼らに対して礼儀を尽くす必要はもう感じなかったから。

 三度目の叫びを上げるために息を吸おうとすると。

 目の前の男は、まるで動くという事を思い出したかのように口を開いた。

「言いたい事はそれだけか?」

 しかし、発したのは理解に苦しむ言葉だった。謝罪でも、弁解でもない。突き放すかのような冷めた言葉だった。

(何だって?)

 フィンスは、言葉を何度も心の中で反芻する。

 彼は、フィンスが間違っているとでも言うつもりなのだろうか。思考を走らせながら、言葉を待つ。

「だとするならば――がっかりだ」

 親方は、はっきりと分かるように大げさに溜息を吐く。心底、呆れ果てたと言わんばかりに。

 彼のそんな様子は周りの男達も理解出来ないらしく、顔を見合わせている。当然、フィンスも訳が分からない。他人の心境だ、分かる訳はないのだが。

「俺はお前に必要以上の仕事をさせた。その意味が分かるか?」

 この場にいる誰もが理解していない事が分かったのか、言葉を変えて言い直す親方。

 しかし、まだ分からない。

 周囲のざわついた声は、さらに強まり、耳にうるさい。

 耳障りな音を、内に浮かんだ疑問を解消するために――

「中性体が嫌いなのだろう?」

 フィンスは問いに、問いを返す。答えを求めるために。

 今まであれば決して口にする事はなかった、遠慮のない問い。ざわついた音は一度、二度、瞬きする間だけ静まる。

 頬に湿った風を感じると同時に、言葉は返ってきた。

「それは違う」

 はっきりと断定する物言いで。言葉だけでなく、厳つい顔を左右へと振って、はっきりと否定の意思を伝えてくる親方。

(違う? では――なぜ?)

 フィンスの心は晴れない。

 ――中性体。

 この特異な体を嫌っていないというのであれば、なぜ。なぜフィンスにだけ、あからさまに多く仕事を振るのだろうか。

 フィンスは整った眉根を寄せて、親方の鋭い眼光を覗き込む。親方の心の内に自らが生きる上で大切な何かがあるような気がしたから。根拠はない。ただ、そう感じたフィンスは探り続ける。

 暗闇で失せ物を探すかのように。

「分からないか?」

 親方は問う。

 どこか落ち着いた声で。厳つい顔を一瞬だけ緩ませて。まるでフィンス自身で答えを見つけて欲しい、そう述べるかのように。

「分からない。ただ私を壊したいとしか思っていなかったから。必死で抗う私を見せて――こいつらの娯楽にしていたのだろう?」

 言葉を返すと共に、鋭い眼光を男達へと向ける。いや、人の皮を被った悪魔を睨みつける。まるで射殺すかのように、鋭く。

 男達はフィンスの殺気を含んだ瞳に、一歩後ずさる。腕の太さはフィンスの二倍、身長は頭二つ分高い彼らが。気の弱い者は、若干青ざめているようにも見えた。

 正直、いい気味だと思った。自身の中にここまで黒い感情があった事に嫌気が差すが、それでも浮かぶ感情を制御する事はもう出来なかった。

「俺は仕事が出来る者を見下したりはしない。フィンス――お前の仕事はこの中で一番。従ってお前を解雇する理由はない。仕事さえしてくれるのならば中性体のままでも構わないからな。しかし、周囲は違う。お前が受け入れられる事は難しいだろう」

 親方はそこで一度、言葉を切る。

 周囲を包むのは、再び静寂。

 受け入れられていない事は承知している。男でも、女でもないのだ。気味が悪いと思うのは当然なのだから。人は決して異物を認めないから。

「では、どうすればいいのか。俺はお前に、それを考えて欲しかった。答えが見つからないのであれば周囲よりも多くの仕事をこなし、胸を張っていて欲しいと思った。そんなお前を――一人、二人と受け入れてくれる者が現れる事を願って。俺が動く事は容易い。だが、それでは意味がないのだ。仮初の安泰などすぐに崩れるからな」

 親方は淡々と心の内を語っていく。

 基本的には無口で、時折低い声でぽつりと語るだけの親方。引き結んだ口で、心中に浮かんだ言葉を飲み込みながらも、ずっとフィンスの事を考えてくれていたのだ。

 手を差し伸ばすのは容易い。しかし、それではフィンスは何も変わらないから。変わるまで待ってくれていたのだ。ずっと。

「私は――」

 言葉を発した瞬間に全身の力が抜けて、膝から崩れていく。両膝に触れたのは、ひんやりと冷たい岩の感触だった。固い衝撃が両膝を痛めるが、起き上がる事は出来なかった。

 性別を決められなかったのは、己の弱さ。

 環境を変えられなかったのも、自身の弱さが原因である。

 だというのに、フィンスは叫び、怒りをぶつけてしまった。醜い感情と共に。

「今日はもう帰れ。そして――頭を冷やせ」

 親方は突き放すような言葉をフィンスにぶつける。

 しかし、言外にまたここで働いてもいい、と言ってくれているような気がした。

「すみません」

 フィンスは固い地面に両手をついて、込み上げてくる感情を抑えつける。ここから先は、全てフィンス自身の問題なのだから。これ以上は他人には関係のない話なのだから。

(決めないと)

 心中で呟いて、全身に力を込める。

 いつまでも、中性体だからと嘆いていてはいけないのだ。そんな甘い人間を、この地は許してはくれない。もっと豊かな場所であれば話は違うのかもしれない。しかし、明日の生活も不安なこの地では論外だ。

 ふらつきながら立ち上がるフィンスに誰も手を貸す事はない。

 それが当たり前の場所。

 だから気にはしなかった。フィンスはただ前を見つめて、壊れかけた体を引きずるようにして、帰るべき場所に進んでいった。



 身を包むのは、ほのかな青い光。

 岩で作られた道の左右に建てられた、絶壁に届くほどに高い石柱に取り付けられたランプの輝きである。月明かりだけでも歩けそうではあるが、至る所に窪みがある道はランプの明りがあった方が歩きやすいとも言える。

(落ち着くな)

 そして、澄んだ青い光は心を静めてくれる。身に溜まった疲れを綺麗に洗い流してくれるのだ。

 フィンスにとっては数少ない癒しの時間である。一番の癒しはサーシャに触れ合っている時なのだが。

 重い足取りで、数分歩いた所で。

 見えてきたのは、小高い丘の上に建てられた一軒家。砂色の岩で形作られた、天井が平らな横に長い長方形の形をした、戻るべき場所である。

(こんなに早いと……驚くかな)

 いつもよりも二、三時間ほど早い帰宅のために、フィンスはどこか内心落ち着かない。

 それでも外を無意味に歩いて時間を潰すのも無意味であり、する必要も感じなかった。フィンスが戻るべき場所は、ここなのだから。

 息を乱す事もなく、慣れた足取りで丘を登る。

「なるように……なるか」

 結局、言い訳などは浮かぶ事はなかった。ならば浮かんだ言葉を伝えればいいと思い、ひんやりと冷たいドアノブに手をかける。彼女の笑顔を見るために。

「ただいま」

 ドアを開けると共に一声。

 室内を照らす優しい光を全身に浴びながら、フィンスは彼女を探す。

「お帰りなさい」

 いつものように椅子にゆったりと腰掛けている彼女は、花が咲いたような笑顔を向けて応えてくれた。細かい事は聞かずに、ただ笑顔だけを向けてくれたのだ。

「お腹空いた」

 だからフィンスは、ごく自然に思ったままを口にする。

 そんなフィンスに、彼女は薄く笑うと淡い金色の髪を揺らして立ち上がった。その様子を視界に入れつつ、フィンスはテーブルに向けて進んでいく。

「昨日のスープと……パンだけでいい? ジャムもあるけれど」

 台所に歩みつつサーシャが問う。

 贅沢を言える環境ではないために、フィンスは一つ頷いて腰掛ける。

 そして、考える。

 自分の事を、明日の事を。

 親方はフィンスの仕事だけは認めてくれている。ならばこのまま仕事が出来るのであれば問題はない。

 脳裏の大半を占めているのは、ずっと一つの事。自身が中性体である、という事だ。

 そして、性別を決められない理由は一つ。

(サーシャは……どちらでもいいのだろうか?)

 鼻歌を歌いながら台所に立って、スープを温めている彼女。

 彼女の笑顔が、揺れる美しい髪が、フィンスを惹きつけて離さない。

 彼女と結ばれるためには、仕事をこのまま継続するには。

「男になった方が――いい」

 フィンスは言葉を発する。

 だが、その言葉は自身でもぞっとするほどに低かった。

 そして、身を引き裂くほどの痛みを全身に感じる。痛みは吐き気と変わり、胃にはたいして物を詰め込んでいないというのに、喉まで何かが這い上がってくる不快感がした。

 言葉を発してでも、決意しようとした瞬間にこれである。長年、男というものを拒絶してきたのだ。すんなりと体が、心が受け入れてくれる訳はないのだろう。

 中性体が性別を決めるために必要なのは、揺れない意志。こんな脆弱な意志ではおそらく中性体のまま変わる事はないだろう。

「自分に素直になったら」

 込み上げる吐き気と戦っていると、耳に心地良い柔らかい声が届く。左へと視線を向けると、サーシャが温めたスープを器に入れて運んでいた。

 空腹ではあるが吐き気のために、とてもではないが受け付けない。そんなフィンスを見た彼女はスープを固いテーブルに置いて背に回る。

「サーシャ?」

「本当は――女の子になりたいんでしょう?」

 言葉と共に触れたのは、彼女の温もり。

 言葉はすんなりと心へと沁みていく。まるで先ほど浮かべた想いを追い出すかのように。仕事のために、生きていくために、男になると決めた。そんな浅はかな想いを笑うように。

「そうだな。私は女に憧れている。サーシャみたいに綺麗にはなれないけれど」

 抱きしめてくれた彼女の柔らかい腕に触れる。自身にはない、女性特有の柔らかさを。

「それなら――決まりね!」

 元気よく弾んだ声を上げるサーシャ。

「でも、今日……一つだけ分かった事がある」

 そんな彼女に向けて、フィンスは言葉を紡ぐ。

 喜んでくれる彼女には、どこか申し訳なく思いながらも。

「なにを?」

 突如、彼女の声が固くなる。

 その理由は分からないフィンスは、内心で首を傾げながらもゆっくりと口を開く。内なる感情を伝えるために。

「今の今まで、私は……男は悪魔か何かだと思っていた」

 まずは今までの考えを、想いを語る。

 サーシャは何も言わなかった。これは一緒に暮らす中で幾度となく伝えてきた事だ。分かりきっているからだろう。

「周囲にいる男達は私を中性体というだけで差別した。親方も私を嫌い必要以上の仕事をさせていると思っていた。だが、違った。親方だけは私を差別していなかったんだ。変わる事を――期待してくれた」

 ゆっくりと、自身の心に語り掛けるように言葉を紡いでいく。

 サーシャに伝わるように。答えを見つけるために。

「男が汚い訳ではないんだ。親方のような人もいる。その人次第なんだ。性別は関係ない」

 込み上げる吐き気を堪えながら、フィンスは言い終える。

 そして、内なる感情を確かめる。自身の心を覗き込むように。

「そんな事は――ないわ」

 変化する心に触れようとした瞬間。

 低い声が鼓膜を震わせる。いや、鼓膜だけではない。全身が震えた。

 サーシャがあまりにも低い声を出したからだ。まるで呪いの言葉を口に出したかのように、負の感情の全てを込めたかのような声だった。

「男なんて。男なんてけだものよ。そこらにいる虫以下だわ」

 続けてサーシャは言葉を続ける。

 フィンスは耳を疑った。あの心優しい彼女の言葉とは思えなかったからだ。

「どうしたんだ?」

 フィンスは湧き上がる疑問を確かめるために問う。冗談で言っているとは、とてもではないが思えない。彼女の身に何があったというのだろうか。

 まるで何かに憑りつかれたかのように変わってしまった彼女を、心配しながら覗き込む。

「あいつらは私から全てを奪ったわ。全部、全部!」

 叫びながら、サーシャは腕に力を込める。息が出来なくなるくらいに強く。

 伝わったのは確かな怒り、憎しみだった。

 雪を思わせる白い髪に、温かい雫が落ちる。

(泣いている?)

 振り向く事は出来ないが、彼女は泣いていた。何かを思い出しているのだろう。

 その瞬間、脳裏に浮かんだのは。

 フィンスが女性になる事を強く願っている、サーシャだった。一体何が彼女を、そう思わせるのか。

「話して……くれ」

 フィンスは声を絞り出す。

 彼女をさらに深く知るために。彼女の全てを受け入れるために。

「あいつらは嫌がる私を襲ったわ。ただ己の欲望を満たすためだけに。汚らしい感情をむき出しにして!」

 サーシャは叫ぶ。悲鳴にも似た声を張り上げて。

 その言葉だけで理解出来た。なぜ彼女が男を嫌うのか。性別など関係はない。その人が善人か悪人なのかが問題。そんな理屈など襲われた者に言った所で通じる訳はない。

「私が男になってもけだものかな?」

 フィンスは彼女の想いを確かめるために問う。

「フィーが? 男?」

 彼女の言葉が、腕が震える。

 伝わるのは戸惑い、焦り。それらを背に感じてフィンスは言葉を待つ。

 すると。

「フィーからは離れたくないわ。離れたくない」

 彼女はずっと「離れたくない」と繰り返し呟いた。まるで壊れてしまったかのように。

(想ってくれている)

 フィンスは彼女の気持ちが偽りではない、そう信じた。彼女はずっと想ってくれる。フィンスがどちらを選んでも。そう信じる事が出来た。

「大丈夫だよ。サーシャ」

 言葉を繰り返し続ける、愛しい人に向けて優しく語り掛けるフィンス。

 言葉は届いたのか、サーシャは一度身を震わせた。そんな彼女を安心させるためにフィンスはゆっくりと口を開く。答えを伝えるために。

「結ばれないけど、いいかな?」

 出た言葉はどこまでも柔らかかった。すでに女性になったような気分だった。

「え? 結ばれない?」

 問われた彼女は言葉の意味が分かっていないらしい。これ以上言うのはどこか恥ずかしい気もする。しかし、半分は男が混じっているのだ。フィンスから言うべきだろう。

「男なら結婚出来たけど……女性になったら出来ない。それでもいいか?」

 言葉を変えて言い直す。

 ここまで言えば分かるだろう。言葉を吐き出した、フィンスはどこか清々しい気分だった。まるで長い呪いから解き放たれた。そんな気がした。

「どうして? あれだけ男になるって」

 サーシャはどうやら呆気に取られているらしい。男になると宣言してしまったのだ。この反応は当然だろう。

「サーシャを不快に思わせてまで男になる意味なんてない。それに女性になっても同じように想ってくれるなら――構わない」

 フィンスはゆっくりと噛み締めるように言葉を発する。

 言葉が耳へと伝わる度に、頬は火照っていく。サーシャは、どう思うだろうか。やはり女性では不都合なのだろうか。男となって、壁を乗り越えるべきなのだろうか。

「嬉しいわ。私のフィー」

 柔らかい声が鼓膜を震わせる。

 その瞬間、彼女の柔らかさが背に伝わった。先ほどまでの怒りに囚われた彼女ではなくて、いつもの彼女の温もりが背へと伝わる。決して離したくはない、温もりが。

(明日からは大変だな)

 フィンスは内心で苦笑する。

 女性になったら、今の仕事はどうなるのだろうか。そんな不安が脳裏を掠める。

 しかし、今はこの温もりだけを感じていたかった。そして、叶うのであればずっと感じていたい。そう強く思った。


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