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赤い月  作者: 粉雪草
フィンス編
2/10

前編

― 前編 ―


「さすがに痛むか」

 苦渋の表情を浮かべ自身の右肩を回しているのは、ほっそりとした体躯の人物。無理な力を加えれば折れてしまうのではないかと心配になるほどに細く頼りない体をしている。その身を包んでいるのは体にピッタリと合った漆黒のウェアに、カーキ色のカーゴパンツというラフな格好。

 そのラフな格好は一見すると少年のように見える。

 しかし、部屋へと響いた涼やかな声は耳に心地良い美声で少女を思わせる。

 少年とも、少女とも、断定しにくい不思議な雰囲気を醸し出している。

(だが、私がやらないと)

 一つ息を吐いて、自身の部屋をゆっくりと見渡す。

 築二十年を超えているらしい岩を積み上げただけの簡素な作りの家。鼻につくのはどこかかび臭い香り。淡いベージュ色の外壁塗装は何年か前に剥がれてしまい、どこかみすぼらしい。

 そんな部屋にある物は数少ない。

 まずは自身の背にある、ドアを開けて右側に見える部屋の最奥に位置するベッドと、左側の壁に寄り添うように配置された本棚のみである。本棚といえば聞こえはいい。しかし、収められているのは神の教えを説いた一冊の本と、もう何度読んだか分からない、一人の少女の冒険物語が描かれた一冊の小説だけである。

 おそらくこの部屋を見れば極貧な生活を、食べていくだけでも苦しい生活を送っている事は容易に想像出来てしまうだろう。

 けれども、これは特別な事ではない。皆が皆、裕福とは言えない生活を送っているのだから。この地では。

(生きていくためには――少しくらいは無理しないとな)

 思考に耽りながら、腕を、足を解していると。

「フィー、起きていますか?」

 柔らかい声と共に、ドアをノックする音が鳴り響く。

 どうやら入念に体を解していたために、いつもよりも時間を浪費してしまったらしい。

「ああ。もう着替えている」

 フィーと呼ばれた人物は左手側に見える、木製のドアへと答える。

 すると、すぐにドアは開き一人の少女が顔を覗かせる。

「朝食、出来ていますよ」

 少女は、フィーと呼んだ人物に、常に浮かべているほんわかした笑顔を向けて呟いた。

「その呼び方は止めてくれないか。まるで女の子だ」

 常にお花畑の中心にいるような彼女、サーシャに向けて腕を組んで一言。ちゃんと「フィンス」という名前があるのだ。そんな可愛らしい名前は気恥ずかしいためお断りである。呼ばれる度に気に入っているのは、絶対に口には出さないけれど。

「うーん。似合ってるのになぁ」

 子供のように唇を尖らせて、一歩、二歩と、腰まで伸びた淡い金色の髪を揺らしながら近づいてくるサーシャ。

 何をするつもりなのかと組んだ両腕を解いて、身構えていると。

 染み一つない真っ白な手が、フィンスの頬へと伸びる。

「この柔らかさは……絶対に女の子だよ!」

 柔らかな手が優しく、愛おしそうに、フィンスの頬を撫でる。その感触はどこかくすぐったくて、心地良い。

「一応……半分男だという事を忘れないでくれ」

 頬が火照っている事は顔中の熱さで分かる。それを隠すように普段は内に眠っている部分を引き合いに出して誤魔化す。

「中性体って、不思議よね。この真っ白な髪は、私よりも柔らかいもの」

 フィンスの言葉をまるで聞いていない彼女は、頬から雪を思わせる真っ白な髪へと手を差し向ける。一度、二度、撫でるように彼女の手が動く。どうやら触るついでに、右側の寝癖を手櫛で直してくれているらしい。

 中性体という事実を証明する、何色にも染まる髪を。

「私は……どちらかというと女性に近いから」

 答えて自身の髪を弄んでいる彼女の細い腕を掴み取る。

 腕を掴まれた彼女は、遊びを中断された子供のように頬を膨らませて、ご立腹のご様子。

「むー」

 しまいには何やら呻き声を上げる始末だ。

 こうなってしまうと手に負えないのが困った所である。フィンスよりも一歳年上で十五歳だというのに、これではどちらが年上だか分かったものではない。

 赤い月を眺めてから、約一年。二人の関係は何も変わっていないのだ。内にある感情も、決意も。

「悪かった。また時間があったら、好きにしてくれ」

 機嫌を直さない彼女へと、フィンスは肩を竦めて約束する。いつものように。

「約束だよ」

 すると、まるで花が咲いたような笑顔を向ける彼女。

 この変わり様は今でも慣れない。どうしてこんなにも感情が豊かなのだろうか。やはり女性であるからなのだろうか。それとも彼女が、感性豊かなのか。

 それは、フィンスには分からない。男性でも、女性でもない自身には分からない事なのだ。

 複雑な心境で、彼女の心を温めてくれる笑顔をしばし見つめていると。

「あと二日だね。フィーは決めた?」

 唐突に彼女は天井に視線を移して、ぽつりと呟いた。正確には天井を超えた先にある、今は見えないものを見つめて。

 どうやら彼女がこの部屋に訪れたのは、この問いを放つためだったのかもしれない。ただの思い付きの可能性もあるけれど。

「いいや」

 フィンスには短い言葉を返すのがやっとだった。他に言葉は出てこない。

 自身を変えられる日が近づいているというのに、まだ決めていないからだ。自分がどちらであるべきなのか、どちらを選びたいのか。それを決められていないのだ。

 ――男性か、女性か。

 ただそれだけの事を。どちらになったとしても、自身の根本は変わらない。それは事は分かっているのに。しかし、変わってしまう事が恐かった。

 恐怖する体は気づいた時には震えていた。やはり自身は女性に近いのだろうか。

(これは女性の弱さ? それとも……私の弱さ?)

 フィンスは心中で問う。

 しかし、答えは分からない。どちらかを決める、その時までは。

「そう。それなら……ゆっくりと決めて」

 彼女は、震えるフィンスを抱きしめてくれた。優しく、慈しむように。まるで子供をあやす様に。

「サーシャはそれでいいのか? 私が男になった方が仕事とか、その――」

 生活を考え言葉を紡ごうとするが、最後まで言い切る事は出来なかった。

 サーシャが抱く腕にさらなる力を加えたからである。彼女の豊かな胸に顔を埋めるという形で塞がれてしまったのである。

 完全な男であったのなら、正気ではいられないであろう光景。だが、フィンスは中性体。こんな時でも、こんな状態でも冷静でいられてしまう。

(やはり……私はおかしいのだろうか?)

 心中で問う。

 だが、やはり答えは見つからない。どれだけ考えても、絶対に。

「生活は気にしないで。貧しくても、フィーがいれば……幸せだから」

 優しい、包むような声が全身を包み込む。言葉が、想いが、心へと沁みていく。

(私は……やはりサーシャが好きだ)

 沁みていく想いを、心を心中で形にする。それは淡い気持ち。中性体でも人を好きになれるのだから。しばらく夢心地の気分を味わっていると。

「今日は……ここまで! 仕事に遅れてしまうわ」

 突如、温もりが遠ざかる。サーシャが体を離したのだ。

「そうだな。今日も稼がないと。男共に負けてはいられない」

 フィンスはどこか寂しい気持ちを心に感じながらも、現実に向けて思考を切り替える。生きる糧を得るために。彼女との生活を維持するために。

「まずは栄養をつけないと!」

 元気よく声を張り上げて背を向ける彼女。そんな彼女の背を優しく見つめてから、フィンスは一歩を踏み出した。



 両腕に伝わるのは、小刻みな振動。運搬用の手持ち台車から伝わる振動である。

「フィンス、これで何週目?」

 心を無にして台車を押していると。左隣に同じペースで歩く二十代後半の小太りな男が声を掛けてきた。彼の腕も、フィンスと同じように小刻みに振動している。

 なぜここまで揺れるのか。

 それは整備されていない地面のせいである。焦げ茶色をした、親指の第一関節程度の大きさの石が幾重にも転がり、中には身長百五十センチであるフィンスの膝程の高さを誇る岩まである。右を見ても、左を見ても岩だらけ。その中を四輪の車輪がついた台車を押しているのだ、揺れて当然だろう。

「――二十三週目」

 なだらかな傾斜を下りながら、フィンスはまるで独り言のように呟く。小太りな男は視界に収める事はない。

「ちっ――中性体が」

 声を掛けてきた男は、一度舌打ちをすると共に毒づく。

 何か会話のきっかけにしたかったのだろう。フィンスが女性となった時の事を思って。それは小太りな男から感じる全身を舐めるような不快感極まりない視線からはっきりと感じられる。

 悪寒が全身を駆け抜けるのを堪えながら歩くペースを上げる。背に感じる視線から逃げるように。

 ほどなくして傾斜を降りきって、平坦な整備された区画へと辿り着く。

 その場にあるのは、フィンスの身長ほどはある結晶。正面に立てば、向こう側がはっきりと見えるほどに透けた結晶である。

 その結晶に向けてつるはしを振り下ろすのは、フィンスの三倍は腕が太い屈強な男達。彼らが砕いた結晶を運ぶのが運搬係の仕事である。つまりはフィンスの仕事だ。

 体力、筋力さえあれば誰でも出来る仕事。ただの単純作業である。

 しかし、この仕事を馬鹿にする者はいない。ここに暮らす者にとっては仕事と呼べるものが、そもそも少ないからだ。

 ふと、現実から逃げるために視線を空へと向ける。視界に移るのは、地に転がる岩と同色の断崖絶壁。まるで、この地に幽閉するかのように囲む岩の壁である。視界に収めたくなくても見上げてしまう。壁の上にどんな世界が広がっているのか気になるから。

 しかし、この地から出る方法を皆は知らない。当然、上の世界を知る者はいない。

 知識のないフィンス達はただ黙々と結晶を壁の上へと届けるだけである。その見返りに食糧を得るために。それがこの地で生きるための唯一の方法だから。

 そして。

 フィンスが視界に収めたいものは、また別にもう一つある。絶壁を超えた先、人がどれだけ手を伸ばしても触れられないもの。

 闇を追い払うかのように、輝く月である。

 現在の時刻は午後九時。昇った月は作業場を唯一照らす光源である。

 フィンスが見上げてしまうのは、また別の理由がある。

 ――赤い月。

 中性体にとっては、ある種の救いとなる光である。女性でも、男性でもない、そんな呪縛から解き放つ光なのである。

 救いの月が昇るまで、あと二日。

 フィンスは答えを出さねばならない。次に昇るのは、また一年後なのだから。もう答えを出してもいい時期なのだ。この歳になって中性体でいるのは、フィンスくらいなのだから。

「フィンス! あと十往復だ」

 平坦な道を思考に浸りながら歩いていると、低い声が鼓膜を震わせる。声に導かれるように乾いた墨のような灰色の瞳を向ける。

 その場に腕を組んでいたのは無精髭を伸ばした禿頭の大男だった。この仕事を統括している親方だ。

「はい」

 フィンスは感情を消し去って、低い声で返事をする。

 この親方はフィンスにはなぜか厳しい。その証拠に、先ほど声を掛けてきた小太りな男は台車から手を離し、空に向けて手を伸ばしている。つまりは休憩をしているのだ。

 仕事の賃金は運んだ量では決まらない。時間で決まる。

 体を酷使した者が馬鹿をみるのだ。この仕事は。

「頑張るねー」

 男は下品な笑みを浮かべて呟く。

 それと共に届くのは笑い声。フィンスの心を抉るような声だった。

 それらを全て遮断して、フィンスは台車を結晶の前に止める。心を空にしなければ、内なる感情を爆発させてしまうから。

「あんたもよくやるよ」

 呟いて台車に結晶を載せた男は視界には入れない。顔を見てしまえば、おそらく睨んでしまうから。

「さっさと運べ」

 親方の低い声が、フィンスを現場へと向かわせる。

 その言葉に押されるように、フィンスは台車に力を込める。目的地までは、緩やかな傾斜を登っていくという過酷なもの。

(これを十回)

 心中で呟く。

 親方はどうやら中性体という厄介な存在を潰したいらしい。周りの者は人の不幸が楽しいのだろう。岩で囲まれた不便な土地。娯楽と呼べるものは数少ない。こんな些細な事でも楽しくて仕方がないのだろう。刺激を欲しているのだ。

 彼らに一重の良心があるのであれば手伝う筈だから。救いの手を差し伸ばす筈だと思うから。しかし、誰も手を貸す事はない。自分の事だけで精一杯だから。

(負ける訳にはいかない)

 言葉は外へは出さずに、心の内で留める。

 そして、心を無にする。

 それが、己を保つ唯一の方法である事を知っているから。ずっとそうしてきたから。感じる心を追い出したフィンスは、ただがむしゃらに台車を押し続けた。



 ひんやりとした冷たさを感じさせる薄茶色の岩で出来た円形の椅子に、姿勢を正して腰掛けているのはサーシャである。彼女の正面にあるのは、椅子と同じ材質で出来た円形のテーブル。

 そして、その上に窮屈そうに並んでいるのは待ち人のために用意した夕飯である。用意した、と言っても噛み切るには労力を要する固いパンと、サラダ、そして日持ちする具のないスープである。

 二人の部屋と同じように極貧生活をしている二人の家には物は少ない。右手側に見える台所には必要最低限の食器がある程度、背の壁には二人が着る服が干されているくらいか。

 特別に少ないのではない。これがここでの生活なのだ。

(上に住む人なら、もっといい物を食べてるんだろうなぁ)

 特にする事がないサーシャは心中で呟く。まだ見ない、正確に言えば見る事はない、絶壁の上に広がる世界へと空想を広げていく。

 耳にした噂では上の世界は、この程度の量の食事は朝に食べるらしい。そして、栄養価が高い野菜、それにお肉という名前の体が肥えてしまう程の食べ物もあるらしいのだ。

「どんなものでしょうね」

 心が弾んだサーシャは独語する。

 これは幸せな、夢心地な気分になった時の癖である。楽しい事は口に出して、耳で感じたいと思っているサーシャは特に気にしていない。フィーには変な人に見えるから止めろ、と注意されているのだけれども。しかし、そのフィーも今はいない。そのため今はサーシャの勝手である。

「柔らかいんですかねぇ」

 弾んだ声で呟く。

 未知なる食べ物を思い浮かべて。弾んでいく心は、一人で待つ心細さを一瞬だけ紛らわせてくれる。だから待っていられるのだ。

 共に暮らす、一人の人を。

 どれだけそうしていただろうか。

 瞼が重くなりかけた時――

「ただいま」

 鈴のような、凛とした声が鼓膜を震わせた。

 声の発生源は正面に見えるドア。そのドアを開けて入ってきたのは待ち人だった。砂色のロングコートは朝見た時よりも汚れており、滑らかな頬は土と泥で穢れていた。

「お帰りなさい」

 すかさず立ち上がり、淡い金色の髪を揺らしながら一歩、二歩と歩み寄る。

「座っていて……いいのに」

 フィーは憔悴した表情に笑みを浮かべる。

 正確に言うならば、口元を若干引き上げただけの作り笑いだ。本人は綺麗に笑っているつもりらしい。サーシャを心配させないため、そのためだけに。

 そんな心優しい彼女が、サーシャは愛おしくて堪らない。

 妹のようで、娘のようで、とにかく愛おしい。中性体であるという事を忘れてしまうくらいに愛らしく見えてしまうのだ。

「座ってなんかいられないわ。私のフィーが帰ってきたんだから」

 ご機嫌な笑みを浮かべて、想い人から年季の入った砂色のコートを受け取るサーシャ。

「ありがとう。少し食べるよ」

 フィーはぎこちない笑みを返して、テーブルに向けて歩いていく。

 そんなフィーの固い横顔をサーシャは見つめて――

(どうして……甘えてくれないのかな?)

 心中で問う。

 フィーが表情を固くしているのは震える両足に力を込めるためだ。限界を超えた体を叱咤するために。少し食べる、と言っていたが、正確に言えばあまりの疲労のために食べられない、という事は知っている。無理をして口に含んでいる姿を幾重にも渡って見ているのだから。

 全部、知っているのだ。フィーの事ならば、全部。

 甘えてくれるのなら頼ってくれるのならば、何でもしてあげたい。しかし、本人が望まないというのであれば、サーシャから手を伸ばす事は出来ない。

 あの小さな肩を、体を抱きしめたいと思う。でも、それは叶わない。フィーがそれを望んでいないから。

「サーシャ?」

 ずっと固まっている事を不審に思ったのか、フィーの疑うような声が背に届く。

「なんでもないわ。このコートもボロボロになったと思って。新品いるかな?」

 まるで踊るように、くるりと振り返ってサーシャが言葉を返す。いつもの変わらぬ笑みを浮かべて。

「そんな贅沢は出来ない。でも、私が――」

「そんな事で決めたら駄目よ、フィー。私の稼ぎもあるんだから」

 生活のために自身の性別を決めようとしているフィーの言葉を遮って、サーシャは子供叱るように人差し指を立てて、頬を膨らませる。

「だが、私は――私は――!」

 フィーは固いパンを右手で握り締める。左手は膝の上で震えていた。

 フィーの仕事は結晶の運搬。上の世界では明りに使われている、結晶体の運搬である。必要なのは体力と、両腕の力のみ。力で勝る男であった方が、都合がいい事はわざわざ説明するまでもない。

(私がもっと稼げればいいのに)

 サーシャの行っている仕事は上からの物資の配給。そして、身に纏う衣服の手直し、という内職だ。それだけでは当然食べていけない。

 そのためにフィーが体を壊してまで無理をしているのだ。生きていくために。そのために性別まで決めてしまう。そんなフィーに対して強い口調で否定は出来ない。

 それでも思わずにはいられないのだ。

 ――これ以上、フィーから何かを奪ってもいいのかと。

 フィー一人なら、どうしてでも生きていけると思うのである。しかし、サーシャがいるから、フィーを追い詰めているような気がするのである。

 その証拠に、今もフィーは滑らかな頬を涙で濡らしていた。流れる雫がカーゴパンツを濡らす事も構わずに。

「フィーは男になりたくないんだよね」

 砂色のコートを、残ったフィーの温もりを、しっかりと抱きしめて呟く。

 言葉が心へと沁みていく事を願って。

「――!」

 フィーは言葉を返さずに、両目を見開く。

 その瞬間に灰色の瞳に溜まった涙が弾ける。よほど驚いたらしい。おそらく心を覗き込まれたような気分を味わっているのかもしれない。

「男なんて――力が強いだけで、醜い存在。そう思っていない?」

 サーシャは、戸惑っているフィーに立て続けに言葉を掛ける。

 返事はない。しかし、それは肯定しているという事なのだろう。

 サーシャ自身も、そう思っている。いや、正確に言えばフィー以上に嫌っている。どす黒い感情が湧き上がるほどに。

 湧き上がる感情を、今ここで言葉にしてもいい。

 だが、サーシャは言葉を待つ。フィーの言葉を。

 ほどなくすると。

「あいつらは――悪魔か、何かだよ」

 フィーは俯いて、短く呟いた。しかし、言葉は続かなかった。ただ黙々とパンを齧り、サラダを無理やり胃の中に押し込めるように、詰め込んでいく。言外に話は終わった、と言っているようだった。

「スープは?」

「明日、飲む」

 問いにも、どこか素っ気ない答え。こうなってしまうと、フィーは何も語らない。どうやらサーシャは触れてはいけない部分に触れてしまったのかもしれない。

 ――残り一日。

 ゆっくり考えられる時間は、それだけ。二日後には、赤い月が昇る。

 その日に揺れない意志を天へと誓った中性体は変われる。性別を選べるのだ。この変わらない地で唯一変われるのがフィー達中性体である。

 フィーが選ぶのは、男性か、女性か。

 その答えで、二人の関係は変化してしまうかもしれない。

(離れたくない)

 別々になるなど考えるだけでも恐ろしかった。しかし、彼女には選んでほしい。もう迷って欲しくはないのである。そして、叶うのであればずっと側にいたい。

 サーシャは出来れば、フィーには女性になって欲しいと思っている。汚らわしい男にはなって欲しくはないのだ。

 その感情が喉を通り、吐き出されようとした時に。

「眠るよ」

 食事を終えたフィーは右手にパンを載せた皿を持ち、左手にはサラダが入ったガラスの器を持って、立ち上がっていた。向かうのは当然、台所だろう。

「洗っておくわ」

「なら、体を水で流してくる」

 ぎこちなく笑うサーシャを、フィーは視界に収めてはくれなかった。意図的に逸らしている事はすぐに分かる。

(可愛くない)

 そんなフィーを見ていると、内心が燃え上がるように熱くなっていく。迂闊にも口を滑らせたのは自分だ。この空気を作ってしまったのはサーシャなのである。

 しかし、まるで頼ってくれないフィーに対しては少なからず怒りを覚えてしまう。身勝手な感情である事は分かっている。それでも内なる怒りを解消するためには行動するしかないのだ。

「先に寝ているね」

 身を清めるために再び外へと向かうフィーに、いつもの笑顔を張りつけたサーシャは右手を振りながら呟く。その姿を視界に収めたフィーは、整った眉を怪訝に歪める。しかし、何かを口にする事はなかった。


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