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Canonシリーズ

Paranoid Love

作者: 藤夜 要

 ――この穢れた血も肉も骨も。あの真っ白な無垢に浄化され、彼女の一部になって生きられたら。

 あとかたもなく、彼女に食まれ、喰らわれてしまいたい。

 それが心の奥深くに眠る、心の底から湧く願いごと。

 それが叶わないのならばいっそ、彼女の小さな胸に大輪の牡丹を咲かせたい――。




 藪は小磯が運んできた急患二人の眠る顔を交互に見比べながら渋面で一人考え込んでいた。

 栄養補給の点滴を打つ。カテーテルの数は、こんな小さな少女の細い腕に、六本。瞳はまだ開かない。

 その隣で眠らせた青年は、一体何を背負っているのだろう。

 青年は少女の姿を見た途端、意識を失って倒れたかと思うと、すぐに立ち上がって――笑った。

「海藤のぼんぼんと、その愛人の妹、か。高木の奴、厄介なもんを押しつけて来たもんだ」

 独りごちながら、筆のように太く真っ白な眉に爪を立てる。痒くもないのに爪を立てて掻きむしる。声を失った少女は意識を失い、少女を失った青年は理性と希望を失った。

 藪は昏々と眠る二人を見下ろすと、また一つ深い溜息をついた。




『克也……』

 青年は、意識のなくなった少女の名を力なくそう呼んだ。

『外的要因は、ないんだとよ』

 東京時代の旧友だった小磯が、彼にそんな説明をしているところだった。藪はそのやり取りから、今にも倒れそうなその青年が高木の言っていた海藤辰巳だと推察した。詳しい説明責任は自分にあると判断し、小磯の話を次ぐつもりで病室へ足を踏み入れた。

『辰巳? おい、辰巳!』

(お? 限界だったか)

 辰巳のやたらと大きな長身が崩れていく様を見ても、藪が小磯ほど驚くことはなかった。彼や高木の話から考察するに、彼が無二の宝としているらしいこの娘の現状を知れば、これが当然の精神反応だろうという予測が出来ていた。自己崩壊を防ぐために意識を断つ。よくあるヒステリーの一種だ。

『小磯よ』

 心配するな、と言い掛けた藪の言葉がやんだ。咥えていた煙草もぽたりと落ちた。看護師が慌ててそれを拾い、火災を防ぐと同時に説教をかます口を開く。だが、彼女から説教が漏れる暇などなかった。次の仕事が待っていた。

『誰? 克也をこんなふうにしたの。お前?』

 崩れたはずの長身が、ついた片膝で辛うじて身を支えていた。

(バカな。軟弱なぼんぼんって話はどこ行った?)

 精神科医だけが敏感に感じ取れる独特の雰囲気が辺りに漂い始めた。藪は看護師に目で合図を送る。彼女が蒼ざめ、小さくコクリと頷いてすぐに病室を立ち去った。

『ほかの誰でもない。てめえが追いやったんだろうが』

 ゆらりと立ち上がる辰巳に吐き捨てる。同時に彼の向こうで目を白黒させる小磯にも、目で合図を送って辰巳の背後を取るようそっと促す。

『は? 何ソレ。俺いなかったじゃん。お前が克也に何かしたの?』

 彼女と栄養点滴を繋いでいたカテーテルが、乱暴な力で抜き取られた。カシャンという派手な音とともに、点滴スタンドが床を叩く。

『……って、別にどうでもいいや。事情を聞いたところで、克也が帰って来る訳じゃない』

 そう言って、笑った。絶望的な顔をしてているのに、なぜか彼は笑っていた。

『いつも、そうなんだ』

 歌うように口ずさむ。彼の両手の拳が、長いカテーテルをくるくると巻き上げる。

『母さんを守れるだけの力があと少しでつくと思ったら、親父の愛人に殺される』

 コツリと彼の靴が床を叩く。藪の背中にじとりと冷たい汗が伝った。

『その女、そこまでしといて全然嬉しそうじゃないんだ。だったら最初から殺らなきゃいいのに、バカだろう? バカがこれ以上俺の大事なものを壊さないよう殺してやったんだ。本人もどうせ生きていたって苦しいだろうしね』

 辰巳のその口調は、どう考えて見ても二十歳を越えた青年の口調とは思えない幼い反抗心を漂わせていた。

『それと克也と、なんの関係がある。早くそいつを手から離せ。針がついたままじゃあ危ねえだろうが』

 藪の忠告を無視したのか聞こえなかったのか、辰巳は己の話を藪に強制しない代わりにこちらの話にも耳を傾けず、一見藪の問い掛けとは掛け離れた内容を口にした。

『俺の好きなものは、全部親父にそう仕向けられて、俺が消さなきゃいけない破目に遭う。若林センセも、母さんだって、結局加乃のことだって』

 ニ、三歩、藪が出入り口へと身を寄せる。小磯が辰巳の背後に立つ。彼は小磯の存在に気付いているのかいないのか、極上の笑みを湛えたまま、まっすぐ藪の視線を捉えて両の手を斜めに広げてカテーテルをピンと張り詰めた。

『若林先生、必死で俺をクラスに馴染ませようと頑張ってくれたいい先生だったのにな。俺を海藤から助けようとして警察なんかに行っちゃったから、眉間に一発撃ち込まれちゃった』

 くすり、くすり、と陽気な笑い声が漏れる。あり得ない明るさが藪に緊張を走らせた。

『てめえが殺したっつったよな、さっき。随分他人事な言い方じゃねえか』

 辰巳の思い出話に水を注す。その話は、笑って語るべきものじゃない。そんな唾棄の感情が藪に憎まれ口を叩かせた。同時に背後へ回した手の中に、待ち兼ねていた物が握らされる。機転を利かせた看護師が、ようやく鎮静剤入りの注射器を藪の掌にあてがったのだ。

『銃の反動で肩がいっちゃってさ。親父が撃ったようなもんだったんだ』

 あどけない少年の微笑で、いい青年が罪のない瞳の色を浮かべて言い放つ。

『あの瞬間、キレイだったんだ、若林センセ。真っ赤な牡丹の花みたいに、脳みそを部屋にぶちまけて』

 小磯が素早く辰巳の脇腹を取った。彼の肘は確実に辰巳の脇腹に入っていた――はず、なのに。

『加乃の心臓にも、綺麗な牡丹が咲いたんだ。俺が咲かせた。すごく、綺麗だった』

 そのセンテンスだけが、押し殺した声で語られた。その声が、腹筋に力を入れていたことでダメージを軽減させたと伝えていた。

『やめろ、ガキっ』

 藪の叫ぶ声が、小磯の呻きと重なった。辰巳の手に絡められていたカテーテルが、小磯の首を綺麗に巻き取り、きゅ、とそれを締め上げた。

『今度はあんた達が、俺に克也を殺らせるの? 俺、高木に嵌められたのか? 俺はどうしても、絶対に、誰も助けることなんか出来ないってこと?』

 笑いながら、涙を流す。そんなはずはないと解っているのに。藪の目には、薄暗い病室の中で微かに光る、辰巳の流したそれが赤い血の筋に見えていた。

『早合点するんじゃねえ――小磯を離しやがれ、海藤のクソガキ』

 語りながら、老いた身体に無理を強いる。小磯の左手が告げたわずかなサインに気付き、渾身の力で辰巳に向かって跳躍する。目を見開く辰巳の腕を、すかさず小磯がねじ上げた。

『……っ』

『寝とけっ、クソガキっ』

 辰巳の動きが止まった一瞬の隙に、彼の腕を掴む。小磯がいい具合に締め上げていたので静脈が鮮明に浮き上がっていた。そこへ素早く注射針を立てた。どうせ鍛えられて一般人とは抵抗力が違うだろう。言い換えれば、多少荒っぽい対応でも死ぬことはない。

『な、に』

 理性の吹っ飛んだ今の狂人に、話を訊くだけ無駄というものだ。

『年寄り二人に肉体労働をさせるたあ、とんだオマケがついた頼みごとだ。小磯、高木に報酬は五割増しだって伝えておけ』

 抗う辰巳を二人掛かりで押さえつけながら、小磯に向かってそうぼやく。

『こんな……初めてだ。こいつ、こんな奴じゃあ……一体何が』

 小磯にも多少の動揺が見られた。藪は何も知らない自分のほうが偏見なく状況を見ていると判断し、ら冷静に対処が出来ると考えた。

『使えねえな、てめえは。今からちょくせつこのガキに聞くから、しっかり縛り上げておけや』

 くすんだ狂人の色を浮かべて睡魔に抗い、自分を睨み上げてくる辰巳の瞳を見据え、藪は看護師に薬品を数種持って来るよう指示をした。




 多分、意識は朦朧としながらもあるはずだ。目を開けていられないだけ。その程度の薬を投与した。暴れられては敵わないからだ。

「おい、本当に大丈夫なんだろうな。俺だってまだ県警に網を張り切れてない。下手があっても庇いようがないぞ」

 不安げに問う小磯の小心を、藪は鼻で哂って打ち消した。

「沈んでいくほど弱い神経じゃねえだろ、このガキは。あの鬼畜の息子なんだからよ」

 克也の隣にしつらえたベッドに横たわる辰巳の額を、脂汗がじとりと濡らす。藪はうっとうしそうなそれをガーゼで何度か拭き取った。

「先生、守谷さんの点滴が終わりました」

 そう報告する看護師が、興味深げにその場に留まろうと企んでいるのが容易に判る。ち、と小さな舌打ちをし、彼女に乱暴な言葉で退室を強制した。

「ご苦労さん。今夜は騒がせたな。あとは俺らだけで充分だ、帰っていいぞ」

「でも」

「人がいるとうっとうしいんだ。帰れ」

 意図したわけでもないのに、看護師を見据える眼が細まる。藪の言葉を受けた看護師はさっと表情を変え、

「……分かりました。お二人が揃うと心配ですけど。とにかくお酒は控えてくださいね」

 と言ってようやく立ち去った。。


 やかましい第三者がいなくなった室内に、アロマの香りが満ちていく。

「俺も席を外したほうがいいんじゃないのか」

 小磯のそんな確認の声が、妙に頼りなくか弱い。思い返せば自分の仕事を彼に見せたことなどなかった。オールマイティに何でもこなしていた東京時代、彼と接触するのは、この分野ではなく検死の見立てや触法する外科的な場面ばかりだった。

「てめえには、万が一のときにこのガキを押さえ込んでもらわにゃ、こっちが困る。ネタを拾わなくちゃなんねえのはてめえや高木だろ?」

 藪が苦笑混じりで彼にそう答えると、小磯もまた苦笑いをして頭を掻いた。

「だな」

 オーディオにCDをセットし、クラシック音楽を流す。極小さな音量のそれに乗せて、およそ日頃の口汚さとは掛け離れた口調で辰巳の耳元へ語り掛けた。

「君の身体が、どんどん、どんどん、軽くなる」

 夢うつつの彼に顔を近付けて問い掛ける。藪は奥深くに眠る彼の本質に囁いた。

「ほら……とても軽くて、気持ちがいい」

 彼の額やこめかみから伝う汗が、止まった。深く刻まれたまま取れずにいた眉間の皺が、ようやく少しずつ薄らいでいく。わずかに上がった口角と、逆に少し下がった目尻を見れば、その笑みはまだ少年の面差しを残しているとさえ思えるあどけなさ。

「何も君を縛るものも脅かすものもない。何か、つかえているものを吐き出したくなる。苦しいものを、全部捨ててしまいたくなる……何が、苦しいんだい?」

 硬く閉じた彼のまなじりから、細い一筋が零れ落ちた。

「こわい……自分が」

 藪は驚きで言葉を失くした小磯と顔を見合わせた。




 初めて人に刃を向けたのは、小学四年生のときだった。

「学校から帰ったら、部屋の向こうから物音がしてて、争う声が聞こえていて」

 気付けば台所から持ち出した出刃包丁を、その男の背に刻まれた昇り龍目掛けて振り上げていた。それは龍の眼を捉え損ね、男の二の腕に突き立てられただけで終わったらしい。

「初めて、負けたんだ。初めて、誰かを怖いと思ったんだ。初めて……『曽根崎辰巳』なんて存在が嘘っぱちだって、知ったんだ」

 彼が「先生、ごめん」と続けて指し示しているのは、藪のことではなさそうだった。

「君の名前と年齢と、よかったら君のことを少し、私に教えてくれないか。名前はなんというんだい?」

 嫌な疑惑にいざなわれ、藪が改めて彼の素性を聞いてみた。

「曽根崎、辰巳。十歳……違う、誕生日過ぎたから、十一歳、か。あんた、誰?」

 閉じた瞳が疑惑でゆがむ。再び汗が額に滲む。

「君の心のお医者だ。私が訪ねる理由に思い当たるところがあるんじゃないか?」

 一気に随分深くまで潜ったものだと、心の中で感嘆する。普通なら段階を追って、徐々に過去へと意識を沈めていくものだが、そこが辰巳のターニングポイントだったのか、彼は一気に十年も時間を遡った。

「先生……ごめん」

 再び彼が繰り返す。その表情に、藪も小磯も固まった。

「笑って、やがる」

 絞り出された小磯の声は、カラカラに乾いていた。

「先生って?」

 追質問する藪の声も、張りつく喉から絞られたせいでかなり掠れて聞き取りづらい。だが辰巳は、問いに答えるというよりも、思いつくままに自分の想いを語った。

「担任。お節介な先生で、結構気に入ってた先生だった。あんま先生らしくなくって、必死なのが可愛くて。婚約者との約束で、俺達が自分の受け持てる最後の生徒だとか始業式早々に泣きながら報告するような女の癖に、堅苦しい授業とかしないサバサバした先生でもあって」

「初恋、かな」

「どうだろ。あー、でも、そうかも。女子が若林センセにダンナの話なんかをさせるとさ、センセ、無意識なんだろうけど女を出すんだよな。なんかそれ、むかついてたから、好きだったのかもしれない」

 くすりと笑うその表情は、大人のようで子供のようで。辰巳という存在が霞のように掴みどころのないものだと思わせた。

「うん。好きだったのかも……殺したいほど」

 目尻からついと涙が零れ落ちる。緩い弧を描く瞼は哀しみをかたどるのに。

「殺されたのかい、先生は。君はなぜ笑っている?」

 彼が催眠治療中でよかったと心から思う。その瞼の下に隠れている瞳を直視する度胸が、今の藪にはまったくなかった。

「俺が親父に軟禁されているって、若林センセに助けを求めちゃったんだ。センセ、堅気の概念が任侠にも通じると信じ込んでいるバカだったから。交番に相談へ行って、あっさりそれが海藤組にばれて」

 彼女は拉致され、辰巳の目の前で組の男どもに陵辱されたという。そして海藤周一郎が、辰巳に初めて握らせた。

「ホンモノの拳銃(チャカ)って、あんなドラマみたいな音、しないのな。運動会のスターターが鳴らすアレみたいな感じ。なのにさ、あの衝撃で肩痛めちゃってさ」

 赤い涙が零れ落ちる。それが藪の錯覚だと分かっているのに、そうとしか見えないのは、彼に対する恐怖からか。それとも同調の悲しみがそう見せるのか。藪自身も辰巳の思念に囚われ、客観視が難しかった。

「お前が、殺ったのか……先生を」

「すっげぇ綺麗だった。脳天に咲いた牡丹。一瞬でも綺麗だと思った自分が、すっげえ怖かった」

 先生、ごめん。また辰巳は繰り返した。




「真っ暗闇の中に、君は漂っている。そこはとても温かいね」

「うん、あったかい」

「心地よく過ごせるそこは、どこだろう」

「……家。マンション、すごいんですよ、東京湾の花火を見下ろせる。花火を見下ろすなんて滅多に出来ないって、加乃も克也も、すごく喜んでくれたんです。初めて海藤にあてがわれたそこに住んでいてよかったと思いました」

 辰巳の口調と表情が変化した。その内容も合わせ考えると、随分現在に近付いて来たようだ。

 藪の疲労も随分なものだった。彼の生い立ちの聞き取りという、彼を少しずつサルベージするこの作業の間、語られたのは聞いていて吐きそうなエピソードばかりだった。実際小磯などは、何度かトイレへ離席していた。

 血に馴染ませるための訓練と称した、海藤からの強制で小動物を殺めさせられる毎日。十四歳という繊細な年頃に目の前で母親を惨殺され、同時に母を貫いたその刃で、母を殺めた海藤の愛人を滅多刺しにした遠い過去。自分が担任教師を殺したことも、愛人に心臓を貫かれた母の血飛沫を見て綺麗だと思ったことも、辰巳の表層意識はまったく記憶していなかった。

「綺麗だと思って、ごめん」

「一度しか見れない、花火みたいだ」

 彼の無意識が、それらをそう言って賞賛した。泣きながら笑うのは、狂人の持つ(さが)と、それに対抗し得るほどに強く律されて育まれた、強靭な理性や倫理観とのせめぎ合い。

「普通でいたいのに」

 という言葉は、小磯曰く辰巳の口癖でもあるという。

 ゆがむ辰巳の顔は、彼自身が苦悶でゆがめているから、というだけではなかった。彼のとつとつと語る話が、藪にらしくもないものを瞳に宿らせていたせいでもあった。

「どうしてもっと早く出逢えなかったんだろう……俺、救いようがないくらい、もう、穢い」

 そこに狂った笑みはない。ただ絶望だけを表す苦悶と後悔と悲しみしか、ない。

「もっと早く……守谷姉妹と会えていたら、ということですか?」

 否、正確には。

「せめて克也だけでも、俺の傍から逃がしたかったのに。ほかに誰も託せるだけの信頼出来る奴がいないんだ。赤木もいない。貴美子も俺と同じで海藤に監視されているから無理だし。俺がどうにかしなくちゃいけない。なのに」

 目を閉じているのが不思議なくらい、起きている彼と対峙していると思い違いしそうな、はっきりとした言葉と主義主張。あまりの違和感に、藪は辰巳へ核心を突く問いを投げた。

「克也にも赤い牡丹を咲かせたいと思ってしまう自分がいる?」

「はい」

「自分が海藤辰巳ではなく、海藤周一郎だと思っている?」

「皆がそう言うのであれば、恐らくそうなんだろう、と」

「遺伝子の呪い、か」

「海藤だけ殺っても、克也を守り切れない」

「じゃあ、どうしたいんだい、君は」

 その問いには、即答がなかった。

「……自分がどうしたいというよりも」

 克也に関する話題の中で、辰巳が初めて笑みを零した。


「喰われちゃいたいなあ。あとかたもなく」


 ――血も肉も骨も、あの真っ白な無垢に浄化され、彼女の一部になって生きたい。


 そう語る彼の表情は恍惚に満ちていた。




 持っているすべての語彙を以てしても、思いを語れぬ口惜しさ。それをこの年になって再び味わわされるとは思わなかった。大概の人の心理には過剰反応などしないと奢っていた。

「――だから、大丈夫だ。自分の中の闇を恐れず、克也君を守ってあげなさい」

 辰巳の無意識に働き掛け、ゆっくりと十までをカウントする。

「ひとーつ」

 鮮血の牡丹への憧憬を、心の奥深くへ封じ込む。

「ふたーつ」

 初恋の担任を、彼の無意識へと埋葬する。

「みーっつ」

 同じ瞳で冷たく笑う、海藤周一郎との過剰な同化を、否定の言葉で引き剥がす。

「よーっつ」

 加乃の胸から飛び出し咲き誇った、大輪の牡丹を抹消する。

「いつーつ」

 それを見納めだという意味で泣きじゃくった記憶を、彼女を失った悲しみとすり替える。

「むーっつ」

 殺したいほど愛している。それは海藤周一郎の価値観であって、辰巳のそれではないという暗示を掛ける。

「ななーつ」

 克也は、白だ。赤じゃない。赤い牡丹が咲くことはない。辰巳如きが穢せるような、そんな存在ではないと教え諭す。

「やーっつ」

 愛し方を教えてやる。それが正しいのかどうかなどは、藪も現在進行形で分からないけれど。

「ここのーつ」

 正しい表現を教えてやる。呆れながらも教えてやる。相手は子供なのにと苦笑しながら、それがなんなのかを教えてやる。

「もう、君は克也を殺せない。そんなくらいなら、君自身が紅の華を咲かせる道を選ぶだろう」

 赤い華を咲かせたいのは、独り占めしたいからなのだ。喰われてしまいたいほど大切なのは、その存在が同化したいほど愛しいからだ。

「俺が克也をこっちへ引き戻してやる。だから、お前までそっちへ行くなよ」

 海藤辰巳の中に、若い頃の不器用な自分を見た。

「とーう。さあ、君が次に目覚めるときは、俺とのこの会話を忘れている。忘れて前向きに生きられる。克也が宝物だと気付けたから」

 藪はそう言って、パンと両手の平を打ち鳴らした。小磯が録音を終えたのだろう、背後からカタンとパイプ椅子のずれる音がした。硬く閉じた辰巳の両目が、眩げに何度かしばたいた。

「……誰だ、あんた」

 辰巳のその声が、小磯の退室を告げる扉の音を掻き消した。目覚めて意識のはっきりした辰巳の瞳は、藪に対する警戒に満ちていた。彼は視線を逸らさないままどうにか身を起こそうとしたが、あっという間にベッドへ逆戻りしてしまった。

「ろくなもん食ってなかっただろ。点滴が終わるまでそのまま寝ておけ」

 口惜しそうに眼だけで異論を訴える辰巳の中に、催眠治療の記憶や弊害を感じさせるものを見い出すことがなく、ほっとした。

「俺ぁ高木に借りのある藪医者だ。克也の主治医を頼まれた」

 消えることが守ること。若い頃、そう信じて妻の前から姿を消した。時折それを悔やむ自分がいる。小磯から、まだ自分を待っていると聞いて、余計にそう思ってしまう。今更戻れもしないのに。

 辰巳にそんな思いをさせたくなかった。好きで海藤の息子として生まれた訳じゃない。彼の母親が、過剰なほど律して育てて来た彼の中に、常人として生きられる可能性を見い出した。

「てめえにも当分ここにいてもらうぞ」

 藪はそこに縋りたい自分を感じ、克也というよりもむしろ、辰巳の更生を強く願った。

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