0. 森と外
世界が世界を名づく前に森と外とを区切ったのは、雪深い山麓だった。
森に住み、森の外とは関りを持たずに生きる。
雪の根木の根、急峻な岸壁とで隔絶された森の内側で、見目麗しいかんばせに金糸銀糸のごとき髪をなびかせて、驚くほど素朴に笑う民がいた。
森の外に知られることはなく森の円環のみで完結した生を送る民のほとんどは、百年千年の年月を経てもうつくしいままだった。すべらかな四肢、肉付きよく衰えない手指は、たまさか森のうちに迷い込んだ旅人を魅了するにふさわしい有様だった。
──はじめに彼らを、森の人、と呼んだのは人懐こい笑みの男だった。
いつしか、森の外には世界が築造されていたらしい。
年長者が無垢なほほえみで、「こちらは客人だ。よくしてやりなさい」と紹介した男は、腰にきらめく長物を携えていた。
一人で森をまわるゆるしを得たばかりのジルヴァは、外のにおいをたたえる佇まいに好奇心を隠せずにいた。
「ジルヴァ、おいで」
年嵩の女は、手首に結わえられた翡翠の輪を重そうに鳴らした。手招きされたジルヴァは奇妙にどきどきする胸元を、知らず知らずに押さえながら女の元へ駆け寄った。
男がジルヴァへ振り向き、口元を曲げたまま『はじめまして、よろしく』と手を差し出した。
でこぼこと胼胝のつぶれた手のひらを見つめ、ジルヴァは困って女を見上げる。
『よろしく……?』
女はうなずいた。
「発音は問題ないね、あとで言葉を教えてあげよう。今は手を重ね、ちいさく握ってやりなさい」
ジルヴァは不思議に思いながらも素直に聞き入れ、男の手に触れて、そっと指先に力を込めた。男は破顔し、ジルヴァの手を掴んだ。あまりの力の入れように思わずジルヴァはたじろいだ。
指の節がきしんだ。ふとジルヴァは、男の爪に黒土が詰まっているのを見つけた。
女はほほえんだまま言葉を紡ぐ。
『──客人、こちらは森の若者だ。言葉は知らないが、行動に嘘はない。滞在の間、困ったことがあったらこの者を頼りなされ』
『お心遣い、感謝いたします。森の人』
『森は私たちの家、ごゆるりとお過ごしを』
女の歓待に、男は満足そうに目を細めた。ジルヴァの手を握りしめたまま。
男は、森の外の天候が落ち着くまで滞在するという。
森に暮らす民にとって、数日も数か月も数年も、数十年も変わり映えはない。男が望むまで森に住ませて、気が済んだら森の境まで案内をすればよいだろうというのが、おおよその民の考えだった。
ジルヴァは男の相談役として女から特別に外の言葉を教わっていたが、森の言葉とはだいぶ異なることに驚いてしまった。
森の言葉は、鳥の声、虫の歌、葉の踏みしめられた音など、身近な声色の組み合わせから成立している。意思疎通に必要なものは語彙ではなく、お互いの行いの正しさや相手への慈しみといった感情の露出となるものだ。
外の言葉は、表現にあふれていた。女の容姿、男の容姿、力の勇ましさ、火であぶられた魚の脂のしたたり。とにかく豊富で、その語源の確からしさと合わせて覚えていくうちに、ジルヴァは途方もない関心が湧き出てくるのを感じた。
おそらく半年ほど経った頃に、男はジルヴァの好奇心が高まる様子を見てからやっと、アドクィーレと名乗った。
『ジルヴァは、森の外に興味があるのかい?』
アドクィーレからの相談を受けた後、決まって簡単な質問が付属した。
『興味はあります』
少し考えてから付け足す。『だけど森の外に出ようとは思わないから、アドクィーレみたいに森の外から来てくれればいいと思います』
『それは……きっと、大変なことになるな』
『どうして?』
『おれを見てごらん、森の人よりも凡庸な顔をしているだろう。森の人はおそろしいほどきれいな生き物だから、森の中で出会ってしまったらびっくりして逃げ帰ってしまう』
『僕たちは、誰も僕たちをきれいだなんて思ったことはありませんよ』
『だってみんながきれいだからね』
アドクィーレの笑い声は、時折粗野だった。唇の隙間からのぞく舌の色は赤く、ひきつり気味の笑い声とあいまって春の獣のようだった。
民はすべてが標準的だ。
森に移り住んだ時から、森以外のなにをも恐れず生きることに苦しみを覚えない。いっそ樹のように息をし、時機を見て静かに倒れ伏す。
ジルヴァはそうした在りようを好ましく感じており、今更森を離れて生きることなど考えられなかった。外の人から見て民の容貌がうつくしかろうが醜かろうが、価値があろうがなかろうが関係なく森はジルヴァのすべてだ。
『僕たちは森と生きるから、どれだけ外に興味を持っても、みんな結局は森に残りますよ』
『そんなものかい』
『そういう生きものなんだと思います』
アドクィーレは、へえ、というように眉尻をあげた。
アドクィーレは滞在の礼にと、各戸に外の品々を贈ってまわった。客人を招き入れ紹介した年嵩の女には歴史書を、年頃の女には鏡を、男には酒を手渡した。
外見から民の年齢がわかるでもなし、ジルヴァは母親の住む樹の洞に鏡がかけられているのを見かけてから、アドクィーレは本当に森の中のことを知らないのだと感心した。
ジルヴァはまだ妻を持たない。周囲の縁が結ばれていく光景を見て、そのうち一人に飽いた誰かが声をかけるだろうとあたりをつけている。だからこそ、外の男が言う『きれい』の意味が真に迫らない。
母の洞に踏み入れたジルヴァは、池の水面の淵のような鏡面を覗き込んだ。
苔下の土の色に似た髪は香草とともにきつく結い上げられ、生木の肌には虫除けの果汁が塗られている。眉目鼻口、顎からやや長耳の線は見慣れたものだ。
「こんなものがきれい……」
やはり感覚がちがう。どうしてそこに在るだけで何かを感じ取るのだろうか。ジルヴァはたまらず顔を背けた。
アドクィーレはことあるごとに老若男女問わず、『うつくしい』だとか『きれいだ』とか外の言葉で民に声をかけている。彼らは言葉の意味を知らないから、にこやかな表情で去っていく。
「……いつになったら、外の天気は落ち着くんだろう?」
外からの客人が森に居ついて、すでに一年が経とうとしている。アドクィーレは律儀に暦を記録しているから間違いではない。
ジルヴァは初めて客人を疎ましく思った。
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『救援はまだか!』
森の外には世界がある。
帝国と呼ばれるその世界には、青銅があり鉄があり馬がある。複雑な言語体系が存在もしているが、やがてひとつの言葉に収束するに違いない。
馬上で剣を掲げた若い女は、器用に盾を操り頭上の矢を弾いた。そばに控えていた兵が声を張り上げる。
『間もなくの到着でございます』
『先ほどからそればかり! こうも数の差があっては、いくら刃を潰しても足りんぞ!』
叫びざまに背後に近寄っていた敵兵の喉めがけ腕を翻す。苦鳴が間近で起こるが、女は顔にはりつく返り血に眉をひそめた。
ついで、眼差しきつく前方を見据える。たなびく土煙りの向こうに求めていた軍勢をみとめ、唇を歪める。『今なら、どんな愚鈍でも愛おしく見えるな』
女の名はシオン。
彼女の肩越しに見える世界には森はない。
よろしくお願いします。
※同タイトルのものをこねくり回して修正しました。
のんびり更新です。




