第4章「妻と柴犬」⑮
「ところで、なんで倒れたんだ」
と坂本に問いかけられて、吾郎は過去から引き戻された。
「特に心当たりはない」
強いて上げれば、血圧の薬をずっと飲んでいて、あの日はとても寒かった。
けれども直前に気になるような症状はない。
だが、吾郎はもう高齢で、妻のように予想できないことが起こる可能性もある。
そう考えながら、無意識に首の後ろを触っていると、
「ちょっと、見せてみろ」と坂本が顔を近づけ、懐からルーペを取り出した。
しばらくの間、吾郎の襟足を観察しながら、坂本は何かを小声で呟いていたが、やがて、何かを考えるような面持ちで、結論を述べた。
「ただの虫刺され」と口にし、
すぐに
「あるいは、針の刺し傷」と続けた。
「刺し傷って」
「誰かが、意図的に何かを使って刺した」
と笑いもせずに告げ、
「心当たりはないのか」
と先ほどとは違う意味合いのことを、再度尋ねてきた。
吾郎は、坂本の結論と新たな問いかけに、頭が混乱した。それでも、ここ数日の自分の周囲の出来事や、昨日のコンビニの店内の状況を懸命に思い出そうとする。だが、倒れた影響なのか、頭の中は靄がかかったようで、思考は遅々として、記憶は朦朧としていた。
しばらくして、
「そういえば、レジの前にいた私の後ろを、誰かが通り過ぎました」
辛うじてふり絞った記憶の中から、その映像が呼び起された。
「だけど、なぜ私にそんなことを」と吾郎は疑問を口にしたが、
「まぁ、刺し傷だと断定されたわけじゃない」と坂本は拍子抜けすることを言いいながら、
「だが、あんたの主治医に、後で伝えておくよ」
「まぁ、ちょっと手間だが」と呟いた。




