第4章「妻と柴犬」⑭
坂本、というのがあの元監察医の苗字なのだが、彼に連絡をとるため、吾郎がベッドから降りようとしていると、ドアを開けてさっきの看護師が部屋に入ってきた。彼女は、立っている吾郎を見て、驚いたようだった。
「大隈さん、まだ、安静にしてください」と注意し、それに続けて、
「別の方が面会に来られています」と告げ、お疲れならご遠慮いただきますか、と吾郎に尋ねた。
「どなたですか」
「坂本さんとおっしゃる方です」
不思議なこともある、と吾郎は驚いたが、即座に面会を希望したいと伝えると、看護師は頷き、詰所に戻っていった。
「よお、生きてるか」と部屋に入るなり、坂本は言った。
吾郎は苦笑しつつも、「おかげさまで」と返す。
「それにしても、どうして私が入院したことを知ったんですか」と吾郎が率直な疑問を口にすると、坂本は、それには直接は答えず、
「あんたが、犬の散歩をしているのをみかけたことがある」
「いつですか」
「最近の話だ」
吾郎と八太郎は、夜に自宅周辺を散歩することが多い。そのときにすれ違うなりしたのだろうか。吾郎に心当たりはなかった。
「そのとき、連れていた犬とそっくりの犬が、今日、うちの前の家にいた」
今は、町内会長も引退した坂本の向かいに、一人暮らしの男性が住んでいるらしい。その家に昨日まではいなかった柴犬が、今日、朝から庭を元気に走り回っていた。
吾郎は驚いた。もしその話が本当なら、その男性は昨日自分が倒れたときに助けてくれた人物かもしれない。坂本は、その男性から柴犬を預かった経過も聞き、飼い主の状況も知り、吾郎の現状を確かめようとした。
「伝手を頼って、この病院に入院していることを知った」
「そんなことが出来るんですか」
「詳しくは言えん」
医者か救急か、それとも警察のなのか、吾郎はそれ以上は確かめないことにした。
それにしても、一度見ただけの柴犬をよく見分けられたものだ。
吾郎の疑問に、「最近、犬のことについてはいろいろ勉強しているからな」と坂本は事も無げに答え、
「まぁ、昔のこともあって、犬については詳しいのさ」とぽつりと言った。
まわりまわって、八太郎が、そんなところにいるとは。吾郎は戸惑いながらも、元気な様子を聞いて安堵した。ふと、坂本を見ると、さっきまでの飄々とした様子が変わり、真剣な顔をしていた。
そして、
「俺の町内で、何匹も飼い犬がさらわれている」と告げた。
吾郎は、過去を思い出し、心をかき乱された。




