第4章「妻と柴犬」⑬
現在、彼女が責任者となっている仕事が追い込みの局面に差し掛かっており、長く不在にすることは難しい。登紀子はそう説明し、
「あと、数日だけ、お待ちいただけませんか」と頭を下げた。
吾郎は慌てて、「あなたが謝ることじゃない」と言い、お願いだから、と彼女が詫びるのをやめてもらった。
登紀子は、半官半民の研究施設で働いていたはずで、今の責任ある立場になるまでには、努力を重ねたことだろう。彼女のキャリアに妨げになることは極力避けたかった。
吾郎は、家族以外で、ほかに頼れる誰かがいないか懸命に思い出そうとした。
旧知の人間を思いついたが、彼とはしばらく会っておらず、だいいち、こんな願いに応じてもらえるか自信はなかった。
しばらく吾郎が頭を悩ませていると、「あの、お義父さん」と登紀子が少しためらいながら、
「今から、昨日のコンビニへ、ご挨拶に伺います」と言い、それから、
「もし可能であれば、あと何日かお願いできないかお尋ねしてみます」と考えを述べた。
それは、いささか図々しいことではないだろうか、と吾郎も躊躇したが、登紀子は真剣な顔をしていて、亡くなった義母の願いに沿えないことをひどく申し訳なく思っている様子だった。
「無理かもしれませんが」と彼女は少し顔を伏せたが、すぐ背を伸ばし、
「ともかく、お話をします」と告げ、また連絡いたしますと言いおいて、病室を後にした。
ふたたび一人だけになった病室で、吾郎は彼女に負担を負わせたことを済まなく思いつつ、それにしても、あんな風に、前のめりになる彼女を初めて目にし、驚いていた。だが、昨日の出来事に関わったあの人たちが、彼女の申し出を受け入れるかは判らず、いかなる結果になるにしても、保険のように選択肢を増やす必要があると思った。吾郎は、昔なじみである、あの監察医に連絡を取ることにした。
彼は、仕事はとっくに辞め、いまはどこかの町の町内会長を務めているはずだった。




