第1章⑥
救急車が到着するのを待つ間に、アルバイトの青年が、バックヤードからクッションを持ってきて、老人の頭の下に差し入れた。
「ありがとう」と老人は言うと、目を閉じた。胸はゆっくり上下していた。
私は、喉がからからだった。足元に置いていた炭酸水のボトルを拾って、キャップを開けて一口飲んだ。途端にまだ会計を済ませてないことに気が付き、すぐにレジに行き、
「ごめん、まだ払ってなかった」と青年に謝った。
彼は落ち着きを取り戻した様子で、ぶんぶん手を振りながら、
「ぜんぜん、大丈夫です」と言い、続けて、
「差し上げます」と、どーぞ、というふうに手のひらをこちらに向けた。
「そういうわけにはいかない」と私は会計を済ませた。
老人の方を見ると、横に女性が膝をついて見守っている。しばらくはお願いしていいかと思い、
「ちょっと外に」と青年に言って私は自動ドアから店外に出た。
なんとなく、まだ家に帰るべきでないような気がした。
外に出ると、すぐにコーンに繋がれた柴犬が私に近寄ろうとした。が、リードが伸びきり、私の間近で動きが止まる。私は驚いてのけぞりそうになるが、犬は私の顔を確認すると、いかにも残念そうな顔つきになり、ゆっくり元の位置に戻った。
戻った場所で犬は落ち着きなく足を動かしていたが、吠えることはせず、我慢強く待ち続けていた。できることなら、飼い主に駆け寄りたいのだろうと、私は思いながら、犬に静かに近づいて、首輪のプレートを見た。
「ハチタロウ」とそこに刻まれていた。
「ハチ」でもあり、「タロウ」でもある。飼い主はどんな風に呼んでるのだろうか。
ところで、今日、君はどこに帰るんだろう。
そんなことを考えていると、遠くからサイレンの音が聞こえ、やがて赤い光が近づき、救急車が駐車場に入ってきた。
ストレッチャーが店内に入り、救急隊員が老人を抱えて乗せた。隊員に倒れたときの状況を、私たちで説明する。付き添えるような身内はここにはいないため、老人は一人で運ばれることになった。
ストレッチャーに寝かされた老人の意識は明瞭だった。店外に運ばれる直前に、
「みなさんに頼みがある」と私たちに懇願した。
「ハチタロウを預かってもらいたい」
そのまま、隊員は救急車の後部に老人を乗せ、すぐに出発した。
「ハチタロウって?」と最初に女性が呟いた。
私は、急な状況に驚きながら、
「彼のことです」と、不安そうな顔の柴犬を指さした。