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第3章「綾子の事情」⑫

玄関を開けると、母親が待ち構えていた。

「おかえり」

母親の言葉に、ハチタロウは首を傾げ、それから小さく吠えた。

彼女は、いそいそと足の泥を濡れタオルで拭くと、

「さぁ、おあがりなさい」と家の中に招き入れた。

ハチタロウはとことこと廊下を歩き、居間の隅にあらかじめ敷いてあったシートの上に到着すると、ちょこんと座り、それから寝そべった。

「賢い子だね」と母親は感心したようだった。綾子は、母の様子を観察しながら、ごく普通の犬とのやりとりに、安堵と落胆を覚えていた。

今日はもう遅い時間で、ハチタロウは眠そうに見えた。部屋の温度を温かく保ち、彼が眠りにつくまで少し横にいることにした。ハチタロウは目を何度かぱちぱちさせ、やがて両手の上に顎を乗せて眠った。

綾子は、今日コンビニで聞いた老人の現在の状況と、彼の家族がしばらく飼い犬を預けたいとの意向を母親に伝えた。彼女は少し考え込んだが、

「まぁ何か事情があるんだろうね」と呟き、私は構わないけど、と綾子に伝えた。それから、「少し図々しい気もするけど」と付け加えた。

そう言いつつも、母親は眠っているハチタロウの頭を優しく撫でた。綾子は母親の顔つきが、ここしばらく見たことがない落ち着きに満ちているように思えた。

二人は何も話さず、ハチタロウの側で、彼の寝息に耳を澄ませた。


綾子が部屋に戻ると、スマホにメッセージが届いていた。

前原からのものだった。

何か伝えることがあるのだろうか、それとも綾子の感じる彼への既視感の回答だろうか。

文面は、今日の昼、前原とハチタロウに起こった出来事が書かれていた。

「気のせいかもしれませんが」と前原は注意を促す言葉を続けていた。

「ハチタロウを連れ去ろうとする人がいるかもしれません」

綾子はその文面を見て、不安を感じることはなかった。

むしろ、逆だ。

理不尽な目に会うのは、もう嫌だ。

綾子は、心の奥にふつふつと闘争心のようなものを感じていた。



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