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第3章「綾子の事情」⑪

「伊藤さん、何かいいことあったんですか」

翌日の仕事中、綾子に後輩の女性職員が話しかけてきた。

「どうして、そう思うの」と綾子が問い返すと、

「だって、いつもは黙々と仕事をされてるのに」

と、綾子の机上に置かれたスマホを指さし、

「今日は何度も画面を見ては、ニコニコしてます」といたずらっぽく笑った。

自分では、気が付いていなかったが、無意識に何回も見ていたようだ。そんなに浮かれた顔をしていたのだろうか。綾子は苦笑いしながら、

「ちょっとね」とだけ言って、仕事を続けた。後輩はそれ以上は話を広げてはこない。彼女なりに、綾子に気を使っているのか判る。


就業時間が終わると、残業をせずに、自宅にまっすぐ帰った。

いつもより早い帰宅に、母親は驚いていたが、夕食を済ませ、トレーニング用のジャージに着替えると、集合場所のコンビニに向かうため、再び家を出た。

時間どおりに到着すると、前原とハチタロウが先に待っていた。

「こんばんわ、ハチタロウくん」と綾子が声をかけると、彼は元気に返事をした。

言葉は聞こえなかった。

綾子はすこし落胆し、それから安堵した。

前原からリードを受け取るとき、彼は綾子に何か話したいことがあるような様子だったが、「それでは、お願いします」とだけ言うとそれ以上は何も言わなかった。

綾子も、前原に以前会った記憶は思い出せなかった。何か勘違いしているのかもしれない。

それから、副島青年から、老人(大熊さんというらしい)の家族の話を聞き、先方の希望では、ハチタロウをあと数日は預かってもらいたいとのことを伝えられた。綾子は、期間が伸びて、むしろ嬉しく思っていた。母親も喜ぶに違いない。


再び連絡を取ることを確認し、三人はいったん別れた。


綾子は、ハチタロウを連れて家に向かった。



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