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第3章「綾子の事情」⑨

老人は男性に後ろから抱きかかえられ、頭を支えるようにして床に横たえられていた。「心配しなくていい」と老人は手を振ったが、指先が震えていた。

「救急車を呼びます」と綾子はスマホを取り出す。母からの着信が数回残っていた。

帰宅時間が遅れ、心配させてしまったようだ。あとで連絡しきゃ、と思いつつ、応答した消防の担当者に状況を説明した。

救急車が来るまでのあいだ、コンビニ店員の青年が、奥の部屋からクッションをもってきて、老人の頭の下に差し入れた。それと入れ替わるように、男性は、立ち上がり、ふーっと息を吐いた。綾子が彼を見ると、少し驚いたような顔をして、頭を下げる。初対面のはずなのに。いや、どこかで会ったのかも。思い出せないまま、こちらも会釈する。片手には炭酸水のペットボトルを持っていた。

男性は店外に出て、柴犬の方に歩いていく。そちらをちらりと見ると、紐の長さいっぱいに柴犬が近づき、男性がびっくりしていた。

「彼には聞こえないのかな」と綾子は老人の横に座ったまま、さきほどの柴犬の声を思い出していた。


やがて救急車が来ると、消防隊員が老人をストレッチャーに乗せ、サイレンを鳴らして去っていった。残された三人、男性と綾子とコンビニ店員の三人は、柴犬のハチタロウを、誰が預かるか話し合うことになった。

綾子は、母親に説明する必要があると思った。既に帰宅の予定はかなり遅れてしまっている。その不安に母親は心が乱されているだろう。綾子は、ハチタロウの顔を見つめ、それからスマホで写真をとった。母親に彼の顔を見せなきゃ。

もし、柴犬の声が聞こえるなんていったら、母親は頭を抱えるかもしれない。

三人で連絡先を共有し、今晩から一日だけ預かることになった男性、前原を見送る。

「また、会える?」と柴犬の声が聞こえる。綾子は小さく手を振って見せた。

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