第3章「綾子の事情」⑧
自分は、正気を失ったのだろうか。
綾子は一瞬そんなふうに考えたが、目の前の出来事にすぐに注意を向けた。
コンビニのカウンターにいた老人がゆっくり後方に倒れ、さきほど入り口にいた男性に背中から抱きとめられる。
良かった。頭を打たずにすんだ。綾子はそう思いながらも、老人の後ろを横切った男性から注意を逸らさなかった。
「常に、広く視界を保つこと」
道場主はいつもそう言っていた。
何よりも、違和感がある。なぜ、自分が今いた店内の騒ぎを気にも止めず、柴犬の方に近づいてくるのか。嫌な感じがする。
綾子は男から視線を外さず、柴犬と男の間に体を入れた。
近づくと、眼鏡をかけて、黒い布マスクをしている。片手は上着のポケットに入れたままだ。
自分の前に立ちふさがった綾子に、男は不機嫌そうな目を向け、舌打ちをしてそのまま通り抜けていった。姿が見えなくなるまで、綾子は目をそらさなかった。
「ありがとう」と声が聞こえた。聞き間違えじゃなさそうだ。柴犬がじぶんに話しかけている。続けて声が聞こえた。
「あのひと、わるいひと」
本格的に、自分の頭はどうかしているのかも。こんなこと誰にも言えない。
綾子は、困惑しつつも、「そこで待っててね」と柴犬に告げ、老人の様子を確かめるため店内に入っていった。




