第3章「綾子の事情」⑦
その日、綾子はまっすぐ家に帰る気になれず、コンビニに立ち寄った。
このまま帰ると母親を心配させてしまう。心を落ち着かせるため、少し時間を置くことにした。
「母さん、いま駅に着いたところ」
正確ではないが、嘘を言っているつもりはない。寄り道で増えるであろう時間を逆算した結果だ。
視線を上げると、店の入り口近くで中年男性と目が合う。彼は不思議そうな顔をして綾子を見ていた。彼女の電話の会話が耳に入り、思わず目を向けたのかもしれない。少し気まずいが、素知らぬふりをした。男性もすぐに顔をそらして店内に入っていった。
視線を泳がせると、オレンジ色をしたアーチ状の車止めに、柴犬が繋がれている。目が合うと、口を開く。綾子にはそれが笑顔のように見え、思わず、自分の目元がほころぶ。賢そうな子だった。言葉が判るかのようにも見えた。
マルのことを思い出す。あの子は、賢いとは言い難いが、元気な子だった。自然と弟との散歩のことも頭に浮かんだ。いけない、考えが連鎖していく。
綾子はきつく目を閉じ、懸命に別のことを考えようとして息を深く吸った。
しばらくして目を開くと、柴犬と目が合う。綾子のことを心配そうに見ていた。
「だいじょうぶ?」
そんな声が聞こえた気がする。綾子の体から力みが消え、頭がすっきりした。
「ありがとうね」と綾子が口にすると、柴犬は、ふたたびにっこりと微笑んだ。
それから、すぐの出来事だった。
柴犬は真剣な顔になると、綾子から視線をそらし、店内の様子をじっとみつめた。白髪の男性がレジで会計をしている。その人が柴犬の飼い主だろうか。そのとき、男性の後ろを、フードを目深にかぶった人物が横切った。
飼い主に向かって呼びかけるように、柴犬が大きな声で吠えた。
「おとうさん、あぶない」
綾子は、柴犬の言葉がはっきり聞こえた。




