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第3章「綾子の事情」⑤

綾子は、理不尽な暴力に対処するため、体を鍛えることにした。

ネットで町道場の情報を調べ、いくつか見学に行き、そのうちの一つに入門した。


入門早々、綾子は道場主に、自分がなぜ武道を学びたいかを率直に伝えた。弟のことも包み隠さず伝えると、40代前半の道場主は、少々困惑した様子で、「すぐに成果が得られるものではないですよ」と彼女に説明した。

それでも構わないと、彼女は黙々と道場に通い、基本的な動作を繰り返した。

道場にいる間は、余計な思考から解放され無心になれた。彼女には考えない時間が必要だった。

一年が過ぎると、綾子は一通りの動作を行えるようになり、自分でも体の動かし方が変わってきたように感じた。相対した他人の姿勢を、己の体の動きで容易に崩せる気がしてきた。

「焦らないでください」と道場主は、彼女の心を察したように、くりかえし忠告した。

二年目には、昇段試験を受ける許可が与えられ、綾子はすんなり合格した。

道場主は、黒帯を彼女に渡しながら、

「最善は、争いの場に出くわさないこと。不穏な空気を察し、その場に近づかないことです」と伝え、「もし、運悪く出会った場合は、全力で逃げ出すこと。これが次善です」と続けた。

それから、

「もし、万一逃れられない事態のときは」と綾子の目をじっとみつめ、

「どんな手段を用いても、相手を制する」と告げ、「武器になるものは何でも使いなさい」と付け加えた。

師の言葉は、今まで教えられてきた武道の精神とかけ離れている気がしたが、

「身を守ることが最優先」ということを綾子は肝に銘じることにした。

彼女は、二度とそんな目に遭いたくはなかった。


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