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第3章「綾子の事情」③

綾子の父親は、彼女が小さいころに死別していた。

弟の死によって、伊藤家の男性はいなくなった。

飼い犬のマルを除いて。


マル自身、犬なりに伊藤家に悲しい出来事が起こったことを感じ取っているようで、毎日、玄関前に座り込み、帰るはずのない弟を待ち続けていた。

綾子は、弟の代わりに散歩に連れて行ったが、彼は落ち着かない様子で、すぐに家に帰りたがった。

弟の帰りを待ち続けないといけないと思っているようだった。

徐々に食事の量が減り、眠っている時間が増え、散歩にも出かけることが少なくなった。

「マルもつらいんだね」と母親が彼の体を撫でながら、呟いた。

彼女も体調を崩しやすくなって、自宅に寝ていることが増えてる。家族みんなが、悲しさのなかで、心を消耗させていった。

綾子も時に押しつぶされそうになったが、懸命に日常を取り戻そうとした。ここで自分が折れてしまえば、私たち残された家族まで、加害者に殺されてしまう。そんなことは許さない、と綾子は心を奮い立たせた。


ある日の夜中、居間の方からマルの鳴き声が聞こえた。長く悲し気な響きだった。

綾子はすぐに起き、居間に入ると、マルが冷たくなっていた。最後に綾子たち家族に別れを告げるために鳴き、彼は旅立ったのだ。

床に横たわるマルの体は重く、辛うじて首を抱えることができた。

「比呂に、会ったら、よろしくね」と綾子は伝えると、涙を流した。

母親の静かな鳴き声が後ろから聞こえた。

その日、弟の死の日から、懸命に保っていた心のバランスが、静かに崩れていくのを綾子は感じた。


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