第3章「綾子の事情」①
伊藤綾子は、八太郎と自宅に向かって歩いていた。
月は高く、息が白い。
アスファルトに刻まれる、規則的な八太郎の足音が耳に心地よく響く。
昔に比べると、上手に散歩できてるなと綾子は思いつつ、彼の顔を見つめると、
視線に気づいたようにこちらを振り返る。
「このペースで大丈夫?」と彼が確認しているようだ。
綾子は苦笑する。私じゃなくて、彼が散歩してくれてる。
やはり、弟がいたころと同じだな、と彼女は思った。
「姉さん、マルに散歩されてる」
「比呂、うるさい」
弟は、綾子の後ろから笑いながら声をかけてきた。
そのころ、伊藤家ではマールという名の茶色の中型犬を飼っていて、弟は縮めて「マル」と呼んでいた。そのうち、家族みんなも同じように呼び始め、本名マール、通称マルに落ち着いた。散歩の担当は弟だったが、ある日、綾子は、たまには自分もやってみたいと、リードを握っていつもの散歩コースに向かった。
「大丈夫かね」と弟は心配してついてきた。だが、マルは、いつもの弟との散歩のペースで歩き出し、綾子はリードを引いてコントロールしようとしたが、常にマルが先導することになった。
諦めて弟にリードを渡し、「やっぱりこの子、力が強いよ」と綾子が言うと、
「違うと思う」と弟は笑った。
「こっちが力まかせに引くだけじゃダメと思うんだ」
そういいながら、憎らしいくらい上手にリードでコントロールされて、マルは気持ちよさそうに歩き始めた。
弟の比呂は、長男の末っ子で、何事にも器用だった。
はっとして、綾子は立ち止まる。八太郎を見ると、心配そうな顔をしてこちらを見ている。
変な顔をしていたのかもしれない。目をこすると、深く息を吸う。
「ごめんね」と彼に声をかけると、八太郎は首を傾げ、小さく鼻を鳴らした。
弟がいなくなって、もう5年になる。
「あ、姉さん、今駅に着いたところ。これから帰るから、母さんにもそう伝えて」
それが、伊藤綾子が最後に聞いた弟の声だった。




