第1章「柴犬と私」⑭
仕事に戻ると、同僚たちは私を心配して、なにかと労わってくれた。
けれども、私には、その気遣いがかえって辛く思えた。
私は部下から一方的に恨みを抱かれ、命の危険にさらされたということになっていたが、社員の全員がそのように理解しているかは判らない。
ひょっとすると、若い社員の中には、私にも非があったと思っているかもしれない。
仕事中に何度もそのような考えが頭に浮かび、集中力を欠くことが増えた。
今までなら、やらないような仕事のミスを犯し、だんだん仕事をすることが怖くなった。
上司から紹介を受けて精神科を受診し、しばらく休業を要するとの診断書をもらうと、私は自宅療養を始めた。
数カ月たっても、私の状態は変わらなかった。
一日中、あの時、彼とどんなやりとりをすれば良かったのか考え続けた。そんなことをしても、起こったことは変えられないのに、頭の中で自問自答を繰り返し続けた。
全てを放り出して楽になりたいと思った。
けれども、自分で死を選ぶことはできなかった。
病気で他界した母親との約束だった。
私は独り身で母に長いこと心配をかけていた。
実家から出て、たまにしか返らない息子のことが母にとっては心配の種だったが、そんな母は、数年前に病気であっという間に他界してしまった。
父を早くに亡くし、母一人で育ててくれた。
母は、最後まで、私を一人残すことを心配し続けていた。
「わたしのかわりに長生きしてね」
それが母の残した言葉だった。
私は仕事を辞め、母の残してくれた、この家に帰ってくることにした。
この家で、ゆるやかな死を待つために。




