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第1章「柴犬と私」⑩

すっきりしたハチタロウは、尻尾を大きく振りながら、塀の向こうの元町内会長を見つめ、それから首を傾げた。


元町内会長は無言で柴犬と見つめあうと、雨戸の側で口を開けたままの私に視線を向け、

「おはようございます、前原さん」と声をかけてきた。

「あ、どうも」と、私は動揺して、もごもごと返事をした。


「ところで、この犬は、お宅の飼い犬ですか」と元町内会長が尋ねる。

「いえ、違います」

「ふむ、違うのですな」と元町内会長はうなずいた。


私は、事情を説明する必要を感じ、だが、昨日の出来事を詳細に伝えていいのか、判断に困った。


「昨夜、知り合いの飼い犬を預かることになりまして」

と、ひとまず、自分なりに置き換えた事実を伝えた。


「ほう、知り合い」と元町内会長は、私の返事の中の言葉を繰り返した。

まるで私の返答が、部分的にゴチック表示されて、その言葉を繰り返すことで、私の心を揺さぶることができると感じているかのようだった。

私の頭に、昨夜彼からもらったチラシの言葉が浮かんでくる。


『ここ最近、飼い犬が連れ去られるといった相談が増えています』


自分でも変な汗が流れるのを感じた。


ハチタロウは終始ご機嫌で、庭の芝生の上を歩き回り、立ち止まると、ピンクの舌を出して、私と元町内会長の顔をかわるがわる眺めていた。


元町内会長は、柴犬の様子をじっと見つめていたが、やがて何か納得したような顔で、

「前原さんも、気をつけてください」と一言告げると、塀から離れ、自分の家に戻っていった。


私は無言のまま、窓辺で彼を見送った。

ハチタロウが私の足元に戻って来て、足を拭いてもらおうと、行儀よくお座りをした。


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