第1章①
私は、夜になると家の雨戸を全て閉じる。
町内でも、閉じる家と、そうでない家がある。
それはそうだろう。毎日繰り返すには面倒な作業だ。
だが、私にとってそれほど苦痛ではない。
それは母親が生きていたころからの習慣だった。
そのほうが、自分が落ち着く、ということもある。
ほとんどの雨戸は、家の中から閉じることができたが、玄関隣の洋間だけは、ひと手間かかる。
収納されている戸袋が古く傾いでいるため、いったん屋外に出て閉じなければならないのだ。
外に出る前に少し呼吸を整えると、私は静かに玄関の戸を開けた。
道を挟んだ向かいには、元の町内会長の家がある。
私は、その人と会うのが苦手であった。
誰もいない、と安堵し、目的の雨戸を閉じる作業に取りかかった。だが、すんなり動かない。
雨戸は鉄製で、戸袋から引き出すにはレール上を滑らす必要があった。だが、至るところが錆びていて、雨戸の車輪も満足に回らなかった。それでも、力をかけて引っ張るとずるずると少しづつ動いていった。
どれくらい時間が経っただろう。ふと顔を上げると、塀の向こうから元町内会長がじっとこちらを見つめていた。
声が出そうになるのを必死にこらえて、くぐもった声で、
「こんばんわ」と挨拶した。
元会長は、うなずくと、「はい、前原さん、こんばんわ」と応えた。
それから、元会長は無言で私の作業をみつめていた。落ち着かない。
しばらくすると、
「あんたのお母さんも、その雨戸には手こずっていた」と言うと、元会長はそのまま塀から遠ざかっていった。が、少し歩いて玄関前で立ち止まり、また戻ってくると、「ああ、お知らせがあった」手提げ袋から一枚の紙を取り出して、こちらに渡してきた。
塀越しに突き出された紙を受け取ると、そこに『町内への緊急のお知らせ』という文字が見えた。その下に、
『ここ最近、飼い犬が連れ去られるといった相談が増えています』
と目につく太字で印刷されていた。
私は、そのチラシの、町民に注意を促すための内容に、なんの興味を持てなかった。
町内の犬に関心はなかった。今は、そしておそらくこれからずっと自分のことで精一杯だった。
だが、私の表情が困惑で固まった有様に見えたのだろう、元会長は説明をしてやらねばならぬと思ったのかもしれない。こちらの顔をじっと見つめると、
「つまり、この町に、犬泥棒が現れている、ってことだ」と念を押すように告げた。
私は、はぁ、と返事とも言えない声を発したが、元会長はそれはどうでもよかったのか、あとは何も言わず、自宅へ帰っていった。