前編
ワシ──佐藤和寿は絶望の淵にいた。妻に先立たれてしまったのだ。同い年だった。この年になると涙腺は枯れているからか、涙は出ない。けど、悲しい。
娘と息子、孫、親戚と共に葬式などを済まして帰った我が家は異常なほど静かだった。
「おーい、開けるぞ」
ワシは誰もいないはずなのに自然と妻に確認するように冷蔵庫を開けた。まだ妻が作った遺り物が残っていた。ワシの好物の里芋の煮っ転がしだ。
しばらく味わっておきたいので、一口分だけ器に移して晩酌することにした。
健康のために禁煙していたタバコを解禁する事にした。昔好きだった銘柄を買って震える手で火を付けた。久しぶりのタバコの味はほろ苦かった。
二人で飲むはずだった焼酎を開けた。もちろん器は二人分用意して、そそいで乾杯した。遺影を見ながら酒を呑んでいると、なんだかまだ生きているような心地がした。
結婚して数十年経った。二十歳だったワシらはいつの間にか80歳になっていた。二人で同時にぽっくり死のうねと話していたが、置いてけぼりにされた事がこれほど寂しいものとは思ってもみなかった。
娘や息子が遊びに来てくれる時は寂しさを忘れられるかもしれない。けど、毎日そういう訳にもいかない。向こうも向こうで忙しい。暇なのはワシだけだ。
あまりにも静寂し過ぎると気が滅入ってしまいそうなので、テレビを付ける事にした。
若いアナウンサーが意気揚々と話していた。
『今日はシニア世代のマッチングアプリについてご紹介したいと思いま~す!』
マッチングアプリ──聞いたことはある。自分の趣味や食の好みなどを書いて掲示する。それを見た異性がいいと思ったら相手にメッセージを送って、相性が良さそうだったら対面する。で、うまく行けばゴールイン。
お見合いより自由度は高く結婚相談所よりは料金は安いのが魅力なのだそう。まぁ、ワシは妻という最愛の人がいるから他なんていらないのだけれど。
テレビでは、アナウンサーがマッチングアプリの使い方を学ぶための教室を訪れていた。どいつもこいつも皺だらけの老人ばかりだった。ワシもそうか。
ワシよりは若そうな白髪男が絵やジェスチャーを駆使して老人達に教えていた。皆、老眼鏡や顔をしかめて使い慣れていなそうなスマートフォンを操作していた。
アナウンサーがある老人に取材していた。
『どうしてマッチングアプリを使おうと思ったんですか?』
『妻が先立たれてしまいましてね』
ワシは器を持つ手を止めた。ワシと同じ境遇を持つ人があの教室にいる事に何か運命を感じた。自然とリモコンのボリュームを上げていた。
取材を受けている相手はモザイクをかけていた。そのおかげか、ワシの顔に投影する事ができた。
『先立たれて心にぽっかりと穴があいてしまいましたね。なんかもう灰色の世界になったような……ある日、娘からこのままだと孤独死してしまうよと言われてしまいましてね。けど、娘達の家に厄介になるのは嫌だし、老人ホームに入るのもなぁと思った時にマッチングアプリに出逢ったんです』
孤独死か。それは考えていなかった。ある日当然人生が終わり、悪臭漂うまで放置される。伴侶がいればすぐに葬式やら何やら手続きを済ませられるが、いないとなると発見が遅れてしまう。
孤独死だけは何としてでも避けたい。子ども達の迷惑にはならないぞ。
しかし、妻が先立ったばかりだ。孤独死が怖いからといってすぐに伴侶を見つけるのはどうなのだろうか。まるで前から別れたかったような感じじゃないか。
そう思った瞬間、遺影がパタンと倒れてしまった。起きあがらせると、思わずギョッとしてしまった。写真にヒビが入っていたのだ。
そのヒビがうまいこと眉を下げて悲しい感情を表していた。これを見た瞬間、ワシはハッとした。
妻が許してくれているのではないだろうか。ワシがマッチングアプリに参加してもいいと。
テレビでは次回の教室の日時が書かれていた。予約制なので、ワシは急いで固定電話で教室に電話をかけた。
*
「皆さ~ん! こんにちは~!」
テレビで見た時と同じ白髪の男がワシらにハイテンションで挨拶してきた。幼少時代からキチンと挨拶は返すようにしつけられたので、ボソボソと返した。
「皆さん! よくお越しくださいました! 早速ですが、マッチングアプリ『老っちんぐ』の説明に入ります! まず、お手元の資料を参考にスマートフォンの起動から……」
大きな文字で書かれた説明書の通りに、スマートフォンを起動。アプリをインストールした。
そして、四角いボタンみたいなのを指先で強く押すと、オレンジ色の背景に『老っちんぐ』という文字が浮かび上がった。そして、『プロフィール』と題した文字の下にズラリと個人情報を記入する欄があった。
「マッチングアプリではこのプロフィールを見て自分がいいなと思う相手にメッセージを送ります。つまり、運命の相手が決まるかどうかはプロフィール次第です。ありのままを書いてください。決して見栄を張らないように」
カタカナが多く理解するのに苦労するが、要するに自己紹介をすればいい。ワシは情けない記憶力を駆使して、たまに手帳を見ながら個人情報を記入した。
この後、どうすればいいのか分からなかったので、近くに通った40代ぐらいの女性に話し掛けた。
「すみません。できたらどうするんですか?」
「保存ボタンを押してください」
何とも冷ややかな態度にムッとしながらもどうにか自己紹介を保存した。すると、『写真撮影します』と文字が出てきた。画面上にカウントダウンが出ていたが、どのボタンを押したらいいのか分からず、前方のハゲ頭を撮ってしまった。
『これでいいですか?』と確認してきたが、言い訳ないじゃろ。ワシ、まだあんなにハゲとらんぞ。
この難解な写真撮影は至る所から助けを呼ぶ声がした。係員が慌ただしそうに教えていた。ワシは無愛想な人以外でお願いしたいなと思って手を上げたが、残念なことにその人にあたってしまった。
当然やる気がなさそうな態度で教えられたが、どうにか納得のいく写真が撮れた。
それが終わると、あとは簡単な使い方の説明と利用する際の月額の料金が書かれた契約書にサインをして家に帰った。
スマートフォンは月額料金の半分を指定の銀行口座に振り込めば一年間貸してくれるという。
ただ思っていたのと違ったなどの理由で退会する場合は一週間以内に返しに行けば支払わなくていいらしい。つまり、一週間は無料で利用できるということだ。
一週間以内に相手を決めるぞと意気込んだワシは自分に相応しい相手がいるかどうか、探してみることにした。
さて、どんな人にしようかなと皺だらけの写真達を眺めていると、赤いビックリマークが隅っこの方に表示された。
どうやら相手からメッセージが来たらしい。押してみると、『晶子』という名前の人からだった。写真は真っ正面を向いていて、小綺麗だった。
『こんにちは。妻に先立たれたのは本当でしょうか?』
このような文章で尋ねられたので、ワシは『そうです』と返した。
すると、晶子さんは『私も夫に先立たれてしまいました』と返事が来た。似たような境遇があることにシンパシーを感じたワシは晶子さんと会話を重ねた。
晶子さんはワシより七つ下の73歳。マンションで年金暮らしている。趣味は刺繍と映画鑑賞。好きな食べ物は西京焼きとあんみつ。うん、いいぞ。ワシの趣味と食の好みがドンピシャだ。
ワシは晶子さんとデートするために連絡先を交換する事にした。ただ電話番号を入力すると真っ黒に表示されてしまった。どうやらアプリのルールで自己紹介欄で記入した以外の情報を個人に送ることは禁じられているらしい。
ただこのメッセージのやりとりを続けていると目が痛くなってしまう。そこで文章の中にカタカナで数字を混ぜて交換する事にした。
晶子さんの電話番号を入手したワシは早速書いたメモを頼りに固定電話でかけてみることにした。
コール音でドキドキするのは何十年ぶりだろう。学生だったワシが妻に電話をかける時の緊張感に似ていた。
『はい』
電話に出てきたのは女性だった。しっとりとした声だったので、すぐに晶子さんだと分かった。
『もしもし、晶子さんですか?』
『はい。和寿さん?』
『そうです』
『あぁ、よかったぁ。もし嘘だったらどうしようかと』
『ワシも不安でした。それでおデートはどこに致しますか?』
『おデート?』
『あ、あぁ、失礼……私達はまだ文通しただけの関係でしたね』
『いいんですよ。あそこはそういう場所なんですから……今週の木曜でしたらご都合が』
『じゃあ、木曜の……どこにしましょう』
『映画館がある所がいいですわ』
『じゃあ、上田レトロシネマはいかがでしょう?』
『いいですわね。あそこは確か昔の映画が放映されていましたね』
『はい。そこの会館前に集合で』
『どのような格好をされていきます?』
『ベージュのジャケットとハンチング帽を。晶子さんは?』
『私は真珠のネックレスと赤いスカーフを巻いていきますわ』
『では、そこで午前十時に……』
『今週の木曜ですね。では、お互い忘れないように』
『はい。そうですね……では』
電話を切った瞬間、ワシの全身が今までにないほど満ちていた。この高鳴りは久しく感じていなかった。妻とデートしたあの頃と同じだった。
ワシはカレンダーに木曜日に赤い丸を付けた。当日まであと数日ある。それまで色々とメンテナンスをしないと。
「よし、絶対に成功させるぞ」
ワシはガッツポーズを取った。ふと遺影を見ると心なしか、妻の表情がいつもより穏やかに見えた。