心の闇と光。
下村は奇声を上げながら鈴井先生に襲いかかった。
「あなたの罪は、私が祓う」
凛とした声が、闇夜の空気に混じって消える。彼女は黒髪を夜風になびかせ静かに化け物を見据えていた。
懐から数枚の護符を取り出した。指先で鮮やかに印を結び、護符に霊力を込めていく。
「天照八衢、邪鬼滅砕、急々如律令!」
呪文と共に、護符が光を放ち、化け物に向かって飛んでいく。護符は、下村の身体に貼り付き、下村は動きを封じられその場に座り込んだ。
「うぉぉおお、離せぇえい!」
「俺は悪くない!全部ガキどものせいだ!俺をクサいとぬかしやがった!40年間生徒のために生きてきた俺を!!」
一体なにを言っているんだこの男は、たったそれだけのことで里美をあんな目にあわしたのか??俺は目を血走らせ涎を垂らしながら醜悪な顔でわめく下村に恐怖と同時に怒りを覚えた。
「....哀れね」
鈴井は、息を詰めるように静かに弓を構えた。その瞳の奥には、言葉にすることのできない哀惜が宿っている。
それは、下村自身を悼むかのような、深い悲しみだった。解き放たれた光の矢は、稲妻が夜空を切り裂くかの如く、妖の頭を正確に貫いた。
刹那、矢は光の泡となって弾け、消え失せた。光の矢が眉間を貫通した下村は、まるで魂の抜け殻のように、静止した。
「...死んだのか?」勇樹が、床に崩れ落ちた下村を見下ろしながら、静かに問いかける。
「いいえ、まだ生きてるわ。私が射抜いたのは、下村先生に取り憑いていた牛女の怨念よ。」
鈴井先生の声は、どこか寂しそうに響いた。
「月岡さんが身につけていた赤い簪と櫛……あれは夫婦岩の祠に祀られていたもの。昔、平安の陰陽師、蘆屋道満が牛鬼を大岩に封じた際、その封印が解けぬよう、伴侶であった牛女の魂を匣守と言われる一族からもらった。櫛と簪に宿し、共に納めたの。下村先生はきっと、その箱を誤って開けてしまったのでしょう。」
鈴井先生の説明は、重々しい響きを帯びていた。
牛女の櫛と簪が納められた箱の封印を解いた下村は、心の隙につけ込まれ、牛女に乗っ取られた。
そして、恷臨寺に納められていた手鏡、月魄鏡を盗み出したのだ。
簪と櫛を里美の手に渡るよう仕向け、夫婦岩の上で里美の身体を使い、月魄鏡で月の光を集め、夫である牛鬼の封印を解こうとした……それが真相らしい。
「それにしてもクサイって言われたくらいで里美をあんな目に、そんな事くらいで...」俺の言葉を遮るように、鈴井先生が怒りを露わにした。
「そんな事....ですって?あなたたちは、自分が何をしたのか分かっているの?」
「彼女を傷つけたのは下村先生の意思じゃない、牛女の念がそうさせたのよ?下村先生は心の闇に漬け込まれた被害者よ。あなた達は、注意されたことへの逆恨みから、事実無根の悪口を言いふらし、時には身体的な特徴まで中傷する。
下村先生がどれだけ傷ついたか、想像もできないの?
下村先生がマスクを手離せなくなったのは、あなたたちの言葉を気にしたからよ!
職員室で、誰にも気付かれないよう口をすすぐ先生を見るのは、胸が締め付けられる思いだった。
そんなこと気にしないでください。と言っても、先生は『あの子たちはまだ子供ですから』と、寂しげに微笑むの。
本当に下村先生が臭いと思った?私は先生と2年間、机を並べてきたけれど、一度もそう感じたことはないっ!
自分が誰よりも大切に思ってきた、人生をかけて愛し育ててきた生徒たちから、そんな酷い言葉を浴びせられるなんて……。教師だって、人間よ!心ない言葉を投げつければ、傷つくし、深く落ち込む。子供だから許されるとでも思っているの? まだ15歳じゃない、もう15歳よ!言っていいことと悪いことの分別くらいつけなさいっ!」
彼女は怒りと悲しみに手を振るわせながらそう言い放った。
俺は自分の愚かさに心底失望した。
自分たちが取り返しのつかない過ちを犯したことに、今になってようやく気づいたのだ。
「下村先生は、死んでいないんですよね?目を覚ましたら、俺たち、謝らないと…」
鈴井先生は悲しげな目で静かに答えた。
「多分、もう目を覚まさないわ。肉体の傷よりも、牛女の瘴気に侵された魂はもう持たないはず。」
「そんな……俺たち、まだ謝ってないのに……どうにかならないんですかっ?!」
俺は叫んだが、鈴井先生は静かに首を横に振った。
「下村先生、ごめんなさい……!」
俺は横たわる下村先生にすがりつき、ただただ謝り続けることしかできなかった。
その時「うぅっ……」と、かすかな声が漏れた。その瞬間、奇跡が起きた――下村先生の目がわずかに動き、意識を取り戻したのだ。
「お……お前たち……大丈夫か?怪我は……」
「先生!?大丈夫や!大した事ない!それより俺先生に謝らへんと!本当にごめんなさいっ俺たち先生を傷つけた...」
「お前たちのせいじゃない、私のせいだ……私の心が弱かったせいで……」
彼は涙を流しながら絞り出すように続けた。
「お前たちを嫌いなんて本心じゃない、酷い事を言った、すまない…信じてくれ、私は本当にお前達のことが…」
その言葉を最後に、彼の息は静かに途絶えた。
その瞬間、私は何もかもが崩れ落ちそうな絶望に包まれ、前に立つことすらできなかった。
全身から力が抜け、ただただ涙を流し、嗚咽しながら、声にならない叫びをあげた。
「違う違う違うっ!謝らないとアカンのは俺や!..先生..なんで...」
顔を覆い、ただ泣き崩れる俺に、声が響いた。
「顔をあげなさい!下村先生の最期を、しっかりと見届けなさい!あなたたちが今できる事はそれだけよっ!」
鈴井先生の目にも光る物が見えた気がした。
俺と勇樹は涙で濡れた目を上げた。
ゆっくりと、彼の遺体を見つめた。
その最期の瞬間を、心に深く刻み込むために。
彼の顔は醜い化け物から元の優しい下村先生にもどっていた。
最期まで生徒を案じ、愛した心優しい先生の顔に。