闇夜に響く鈴の音
里美を送り届け、荷物を取りに学校へ戻る道すがら、勇樹が口を開いた。
「まさか、陰陽師が本当にいるなんて、信じられんな」。
俺は「うん、しかも、テケテンて」と応じた。
「なんか、ムカつくね」千聡が呟くと、全員爆笑した。
学校に着いた時には、もう放課後のチャイムが鳴り響いていた。
廊下の向こうから、同じクラスの瑛太が息を切らせて走ってくる。
「みんな、どこ行ってたん!?先生たちが探してたよ!特に鈴井先生がめっちゃ怒って里美の家に行くって!」
また鈴井か……。俺と千聡の担任は梶尾だし、勇樹の担任は香川なので、なるべく顔を合わせなければ、鈴井の嫌味を聞くこともないだろう。
しかし、里美の担任は鈴井だ。
体調が悪いと言えば、そこまで強くは言われないはずだが、少し里美が可哀想になった。
俺は気分転換に話題をかえることにした。
「それより瑛太、陰陽師って信じるか?」
俺はテケテンを思い出しニヤケながら瑛太に問いかけた。
「は?なんで陰陽師?笑」
瑛太は訳が分からず苦笑いした。
「あっでも、そういえばさ、昨日親父が面白い話してたんだ。」
瑛太が話し出した。
「校長先生が言ってた、夫婦岩の近くで最近事故が多いって話、覚えてる? 実は親父がその事故現場を調べたらしいんやけど…』
俺たち三人は、瑛太の言葉に一気に引き込まれた。瑛太の親父さんは警察官だ。
「事故が起きたのは全部、深夜の0時から3時の間なんやって。で、運転してた人、全員がこう言うんだ。『牛女を見た』って」
まるで都市伝説みたいな話だ。いや、夫婦岩の近くの寺には、昔から牛女が出るって言い伝えが実際にあるらしい。身体は女で、顔が牛の化け物。
「夫婦岩の上で、牛女が美しい舞を踊っていたんだって。その姿に見とれて、事故を起こしたってみんな言うらしいんだよ。もちろん僕のお父さんは『そんなの迷信だ。誰かが牛女の伝説を悪用して悪ふざけをしているんだろう』って。」
確かに、それが一番ありそうな話だ。…でも、ついさっき、呪いや陰陽師の力を目の当たりにしたばかりの俺には、どうしてもその言葉を鵜呑みにできなかった。言いようのない不安が、胸の中に広がっていく。
「今夜、夫婦岩の牛女、確かめに行かない?」
意を決したように千聡が口を開いた。その言葉に俺と勇樹は顔を見合わせ、頷いた。
「なんかあるよな、絶対」
勇樹が確信めいた口調で言う。
「ああ、確かめる価値は、あるかもな」
俺は覚悟をきめた。
「ちょ、マジかよ! 行く方向になってるって! 牛女の正体が怪物でも人間でも、ヤバすぎるって!」
瑛太が、青い顔で俺たちを止めようとしている。
「大丈夫だって、瑛太。俺たちだけで行くから。心配しないで」千聡が、優しく瑛太を諭した。
深夜0時過ぎ。少し遅れて集合場所の学校に向かうと、門の前にはすでに千聡と勇樹が待っていた。
「ごめん、ごめん、お待たせ」
「さあ、行くか。……っと、その前に」
勇樹は、千聡にバットを手渡した。自分も、肩にバットを担いでいる。
「さすが野球部。相手は化け物だもんね。武器は必須、と」
千聡が、バットを構え、軽く素振りをする。なかなか様になっている。
「おい、俺のは?」
俺が勇樹に問いかけると、彼は、ポケットから何か白いものを取り出した。そして、それを俺に放り投げてきた。
「パシッ!」
「なんでボールやねんっ!」
思わず、ツッコミを入れてしまった。
「バット3本も持ってこれるかよ。ピンチの時に投げるくらい、できるやろ? 遅れた罰や、嫌なら、手ぶらで行け」
「くっ……これで、いいです」
3分の遅刻の代償にしては大きい。しぶしぶ、俺はボールをポケットにしまった。
俺たちは夫婦岩に向けて、歩き出す。
闇夜に浮かび上がる夫婦岩。遠目にも異様な存在感を放つ巨岩が、月光を浴びて鈍く光っている。
しかし、俺たちの足を止めたのは、その岩の上に確かに存在する人影だった。逆光で輪郭しか分からないが、何かに取り憑かれたように舞い踊っている。
「おい、あれ…」思わず声を漏らすと、勇樹が囁いた。
「ああ、牛女だ」
千聡の顔が強張る。「ど、どうする? 行く?」
「当たり前やろ。ここまで来たんや。正体、突き止めてやる」そう言う勇樹の手は、バットを握りながらも震えている。
「おい、手震えてんぞ。怖かったら帰ってもええんやで」俺も内心では恐怖で足がすくむが、強がるしかなかった。
「アホか。お前こそ足ガクガクやんけ。ションベンちびんなよ」 勇樹も必死だ。
「二人ともすごいね。俺、冗談でもそんな強がれないや」千聡は青ざめた顔で呟いた。
覚悟を決めた俺たちは、夫婦岩へ向かって足を踏み出した。
近づくにつれ、シルエットは鮮明さを増していく。ついに、その全貌が明らかになった。
岩の上で舞うのは、巫女のような衣装を身にまとい、髪に深紅の簪を差した女性。顔には牛の半面がつけられている。
月明かりの下、その姿はどこまでも美しく、妖艶だ。これでは、見惚れたドライバーが事故を起こすのも無理はない。
『…美しい』 思わず、息を呑んだ。そのあまりの美しさに、俺たちは釘付けになる。
女性は裸足で、手鏡を掲げている。まるで月光を掬い上げ、鏡の中に閉じ込めているかのように、優雅に舞い踊る。
だが、ゴツゴツとした岩肌の上で踊るその足元は、鮮血に染まり、異様な光景を形作っていた。
「…え?」
血に染まった足元に、心臓が跳ね上がる。そして、理解した。
「さと…み?」
間違いない。岩の上で舞っているのは、里美だ。牛女の正体は、里美だったのだ。
あの櫛の呪いが、再び彼女を苦しめているのか? だが、なぜ…? 呪いは、解けたはずなのに。
血に染まる足元も構わず、里美は狂ったように舞い続けた。牛の半面から覗く口元には、嘲笑を浮かべて。
「里美!降りろ!」俺の叫びは虚しく宙を舞う。
「力ずくで引きずり下ろす!」勇樹が岩壁を駆け上がった。俺も後に続いた。
勇樹と俺で里美の体を支えた瞬間、彼女は糸の切れた操り人形のように意識を手放した。
千聡が下で待ち構え、三人で慎重に岩場から降ろす。しかし、里美の足元に広がるのは、目を覆いたくなるほど鮮烈な赤色だった。
「里美! しっかりしろ!」 頬を叩いても、彼女は応えない。
「一体どうなってんだよ! 呪いは解けたはずじゃ……あのインチキ陰陽師!」 勇樹の声には、焦燥と怒りが入り混じっていた。
「ど、どうしよう里美、なんとかしなきゃ...」 千聡は、ただうろたえるばかりだった。
「こら! お前ら、何をしている!」突然、背後から鋭い声が飛んできた。一斉に振り返ると、そこに立っていたのは学年主任の下村だった。
「今、何時だと思っているんだ! こんな時間に生徒だけで騒ぎおって!」まさか、こんな時間まで見回りとは……どこまで生徒思いなんだ、この先生は。
いや、今はそんな感心している場合じゃない。
「先生! 助けて! 里美が大変なんです!」藁にもすがる思いで、俺は下村に助けを求めた。横たわる里美の姿を見て下村は息をのんだ。
「一体何があったんだ!? とにかく今は、手当をしないと! 車はあっちに停めてある、すぐに運ぶぞ!」
下村はそう言うと、躊躇なく里美を抱き上げた。やはり、この人は頼りになる。
俺たちは下村先生の後を追って歩き出した。
「おーい、みんなー」
暗闇の向こうから、聞き慣れた声が響く。良昌だ。瑛太から連絡でも受けたのだろう。来てくれて助かる。
人手は多いに越したことはないし、陰陽師の卵である良昌なら、昨日みたいに里美の症状を和らげられるかもしれない。
「え……お前ら……」良昌は下村先生に抱きかかえられた里美を指差し、驚愕と戸惑いを隠せない。
無理もない。牛の面をつけ、血に染まった巫女を抱えているのだ。驚かない方が不自然だ。
「な、なんで妖と一緒に……」どうやら良昌は、抱えられているのが里美だと気づいていないようだ。呪いをまとった里美の妖気を、妖のものだと勘違いしているのだろう。
「良昌! あれは妖じゃない! 里美だ! 怪我をしてるんだ! 昨日みたいに、何とかならないか!?」俺がそう叫んだ瞬間、良昌は顔色を変え、叫び返した。
「違う! なんで妖が里美を抱えているんだよッ!?」
「は? お前、何を……」言いかけた瞬間、脇腹に強烈な衝撃が走り、俺は吹き飛ばされた。
「ぐああ……!」肺の中の空気が一気に押し出され、激痛でのたうち回る。
「ああ、あと少しだったのに……まさか、鷹丸が陰陽師とは。まあいい、全員死ぬだけだ」下村の顔から、教師としての温厚さは完全に消え失せ、代わりに、底知れない悪意が滲み出ていた。
激痛と、生徒思いだった下村先生が妖だったという事実に、俺は思考が追いつかなかった。
「せ、先生……嘘だろ?」震える声で、それだけを絞り出すのが精一杯だった。
「嘘? あの優しい下村先生が、そんなことするわけない、とでも思っているのか? 俺は、生徒の中で、お前が一番嫌いだった。」嘲笑を浮かべ、下村——いや、下村の姿をした異形は、抱えていた里美を汚れた地面に叩きつけ、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。その目は、獲物を狩る獣のように冷酷だった。
「離れろ!」恐怖に支配され、誰もが立ち尽くす中、勇樹が渾身の力でバットを振り下ろした。鈍い音とともに、バットが下村の頭に深々と突き刺さる。
勇樹の捨て身の行動で、ようやく皆も我に返った。千聡は里美に、良昌は俺の元へと駆け寄ってきた。
「昂兵、大丈夫か!? テケテン、テケテン……」良昌の術で、数本は折れているであろう、脇腹の激痛がいくらか和らいだ気がした。まさか、テケテンにこれほど感謝する日がくるとは思いもしなかった。
「良昌、助かったよ。でも、今は里美を……」良昌は頷き、里美と千聡のもとへ走った。
「おいおい、先生にこんな酷いことしちゃダメじゃないか、 指導が必要だな」頭にバットが突き刺さったまま、下村は愉快そうに笑った。そして、勇樹から奪った金属バットを、まるで針金を曲げるようにいとも簡単にねじ曲げ、それを勇樹に向かって投げつけた。バットは足に命中し、勇樹は声にならない叫びを上げた。
「ぐああ……!」
勇樹の顔は、激痛に歪んだ。これほどの化け物と対峙して、勝機などあるわけがない。しかし、里美を見捨てることなど、断じてできない。たとえ逃げ出したとしても、満身創痍の自分たちではすぐに追いつかれるだろう。
「良昌!親父さんに連絡はできないのか!?」 焦燥を押し殺し、叫んだ。今、この化け物に対抗できる人物は、自分の知る限り、陣しかいない。
「ごめん、携帯忘れて…」 良昌が、今にも泣き出しそうな顔で呟いた。このクソ役立たずが! 心の中で悪態をつく。だが、役立たずなのは自分も同じだ。いや、ここにいる全員がそうだ。まさに、絶体絶命。
覚悟を決めた。
「良昌、合図したら千聡と一緒に里美を抱えて逃げろ。俺は勇樹と……一緒に行く。」 声が震えるのを必死に抑えた。本心では、足をやられ、まともに動けない勇樹を助けて逃げることなど、不可能に近いと理解していた。それでも、彼を見捨てることだけは絶対にできない。ごめん、圭ちゃん、梗兵、桔兵、ごめんな。残してきた妻と子供たちに、心の中で詫びた。どうか強く生きてくれと。
下村が、醜悪な笑みを浮かべながら、勇樹へとゆっくりと歩み寄る。その背中越しに、勇樹と目を合わせた。互いに覚悟を決めたことが、その瞳から伝わってくる。
「今だ!走れ!」 良昌と千聡に叫ぶと同時に、ポケットから取り出した野球ボールを下村の後頭部へ向かって投げつけた。二人は、里美を抱え、飛び出した。
ボールは下村の後頭部に命中し、一瞬だけ動きを止めた。その隙をついて、勇樹が渾身の力を込めて下村の足にタックルを仕掛けた。巨体が、ほんの僅かにバランスを崩した。
今しかない。落ちていたバットを拾い上げ、下村めがけて全力で振り下ろす。バットの一撃で奴を倒せないことは、先程の勇樹の一撃が証明していた。それでも、他に手段はなかった。鈍い音が響き、バットが下村の後頭部に命中した。
「やるじゃないか。素晴らしい、友情ごっこか? お前は今、自分を犠牲にして友達を逃した、怪我をした友達も見捨てない、そんな俺、超格好いい〜って思っているのだろう? すぐにその生意気な面を、絶望に染め上げてやる。」
終わった。死ぬんだ。ついさっき覚悟を決めたはずなのに手足がガタガタ震え腰を抜かし立つこともできない。
嫌だ嫌だ
「誰か助けて!!!」
その時一筋の光が俺の頬をかすめた。
「ぐぁあっ!!痛い、痛いぃぃっ!?」下村の右目に矢が突き刺さっている。
あれほど攻撃をしても苦悶の表情一つ浮かべなかった化け物が激痛にのたうちまわっている。俺は現状を理解出来なかった。勇樹も全く同じ顔をしている。
シャン、シャン──
闇の中から、微かな鈴の音が響き渡った。希望を告げるかのように、しかしどこか切ない旋律。
「助けて? 当たり前でしょ。」
その声は、冷静でありながら、確固たる決意を宿していた。
闇を裂いて現れたのは、白を基調とした狩衣を身にまとい、深紅の装飾が夜闇に映える女性だった。
黒髪には、月光を閉じ込めたかのような銀のかんざしが輝き、その美しさを際立たせている。足元は、鈴のついた白木の浅沓。一歩踏み出すたびに、清らかな鈴の音が空間に響き渡る。その瞳は、静かに、しかし強い光を宿し、化け物を射抜くように見据えていた。
初対面の彼女なぜか、見覚えがあった。脳裏に霞がかかったように、記憶がぼやけている。一体、どこで……?
「未来への希望を摘む愚行。私の生徒に手を出すのなら、誰であろうと許さない。」
雷に打たれたような衝撃が走った。まさか……。そんな……。
そのまさかだった。目の前に立つ凛として高貴で、美しく、そして何よりも力強い女性は……そういつも俺を罵り目の敵にしてた人、普段はボサボサ頭に瓶底メガネのあいつ。いやあの人。鈴井先生だった。