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序 福音の消失

「うそでしょ……?」


 呆けて開いた口から、思ったままの言葉が零れた。


 一見すればその場には、同じ紺色のワンピースに身を包んだ二人の少女が在る。

 二人は女学院の生徒で、今日から寮の同室者となる。だから同じ制服を着ていることは自然だ。

 とはいえ片方がもう片方を床の上に押し倒しているという状況は、いささか問題があると言わざるを得ない。


 下になっているのは凡庸な少女である。ウェーブがかった髪はどこでも見かけられる茶髪、小柄で細身でいかにも害のない、すれ違ってもすぐ忘れそうな印象の人物だ。

 ただ一点、目だけは特徴的なエメラルドグリーン色をしている。少女は普段前髪に隠れがちなその目をこれでもかと言うほど見開き、覆い被さる相手を見つめていた。


 対して馬乗りになっている方は、見事な金髪にはっきりした目鼻立ち、すらりと長い手足の持ち主で、人目を引く雰囲気だ。

 アイスブルーの瞳が無感情に下の人間を観察して、やがて合点がいったような色を帯びる。


「ああ……すると君がアビーリア・ボージャか」


 正式な名前を呼ばれるのは久しぶりなのだが、下側の少女――リアはそんなことに構っていられなかった。


「どうして、あなたがここに」

「この学園の謎を探りに」


 かろうじて絞り出した質問に、端的な回答が戻ってくる。

 リアはようやく組み敷かれた状態から抜け出すことを思い出し、もぞもぞ這い出そうとした。そうして脱出を試みながら、言葉を重ねた。


「そういう何故ではなく……こう、どうやって入り込んだのでしょうか、というか……」

「…………?」


 リアの動きに、相手もようやく自分がまずいことをしていると思い至ったらしく、あっさり上からどいてくれた。

 が、指摘された()()()()()()()()の方にはピンときていないご様子で、きょとんと首を傾げている。

 その美貌は、瞬きしなければ等身大の人形と錯覚するほどだが、正体を知っている者からすれば状況と格好が問題しかない。


 リアは大きく息を吸ってから吐いて、今一度同室者を見据えた。


「あなたはダニエル。ダニエル・アッカーソン。間違いない、ですか?」

「そうだ」

「ここは、聖マジェリアス女学院――女学院、ですよね?」

「うん。だから作法にのっとって、名前はダニエラ・アクロイドということにし、こういう格好をしている」


 ああ、これはもしかすると、言語は通じても話が通じない手合いかもしれない。

 割と直球で「()学院の寮に男のあなたがいたらまずいだろう」と指摘したはずだが、ダニエル……ダニエラ?は全く気にした様子を見せない。女の格好をして女の名前でここにいるんだから何の文句があるんだ、とむしろ胸を張っている。一体どこからその自信が湧いてくるのか。


 リアはくらくらして頭を押さえた。すると今度は向こうから水を向けられる。


「君の方こそ、どうしてここにいる? 姉を追ってきたのか」


 リアはぱっと顔を上げた。

 ダニエルは先ほどの無関心な様子とは少し異なる色を孕んだ目で、凡庸な少女を見守っている。


「やっぱり、エヴァはここにいるんですか?」


 疑問はまだいくつもあった。混乱もしていた。

 けれど真っ先にリアの口から出たのは、失踪した姉についての問いかけだった。


 ダニエル・アッカーソン――リアの姉、エヴァンジェリンの元婚約者である男は、艶然と微笑む。


「私もそれが知りたくて来たんだ。ここは共同戦線と洒落込もうじゃないか、ミス・ボージャ?」


 これが二人の出会いであり、リアの生涯に爪痕を残す事件の幕開けであった。



 ◇◇◇



 ここ最近、リアの周辺は波乱に満ちていた。


 ことの始まりはそう、エヴァンジェリン・サクソンの失踪だ。


 エヴァンジェリン――エヴァを一言で表すなら、“淑女の見本”。早くに亡くした母に代わり、若い頃からサクソン家の女主人をつとめていた。物静かだが聞き上手、物知りだが教養をひけらかす知識人の傲慢さがなく、身分の別なく親切だが分別はあり、気品と礼節に長ける――総じて、誰に聞いても評判がよい。おまけに黒髪の美人だった。


 その評判は社交界デビュー前から広まっていき、五大名家が一、アッカーソン公の耳にまで届いた。サクソン家の自慢の娘は公から課された花嫁審査すら乗り越え、ついにアッカーソンに嫁入りすることを許されたのだ。


 全てが順調に思えたのに、半年前、その淑女の見本だった娘は、前触れなく消えてしまった。

 すぐに事態を把握したアッカーソンは婚約破棄を申し渡し、出来の良い娘に溺愛と依存をしていたサクソン家当主は心労で倒れた。


 醜聞を嫌ったアッカーソンの手回しか、エヴァの失踪が表で大きく取り沙汰されることはなかった。それでも男主人と女主人を一気に失う形となったサクソン家の衝撃は大きい。



 リアもまた、偉大なる保護者の消失に打ちひしがれていた。


『今日から家族になるのよ。わたくしのことは姉のように思ってちょうだい』


 最初に会った時、エヴァは柔らかく微笑んだ。

 リアはその笑みに(天使がいる)と見とれたくせに、ろくに挨拶を返すことすらできず、俯いてだんまりを決め込んだ。


 けれどそんなかわいげのないリアに、エヴァは辛抱強く関わり続け、本当に妹として扱ってくれた。

 誰からも顧みられなかった落ちこぼれに惜しみない愛情を与えてくれたのは、世界でただ一人、エヴァンジェリンだけだった。


 エヴァのおかげでリアは世界を知った。顔を上げ、あらゆることを知りたいと思った。

 彼女を失い、世界は再び閉ざされた。毎日ずっと足下を見ている。


 光のない世界で事務的に寝て起きてを繰り返しているうち――季節は冬になっていた。



 ◇◇◇



 その日、リアはいつも通り黙々と起き、一人で身支度を済ませた。

 朝の屋敷の様子に耳を澄ませ、落ち着いた頃合いを見計らってそっと自室を抜け出す。

 誰にも会わずに厨房まで行って、冷めた料理の残りをもらってくる。


 別に、意地悪をされているわけではない。二日ほど料理の残りにありつけなくて声をかけた時には、料理番は一瞬嫌そうな顔をしたが、ちゃんとリアの分の食事も出してくれた。そしてそれ以来、一人分の朝食が、誰もいない厨房に残り続けるようになっている。


 良き女主人のいないサクソン家では、引きこもりで取り柄もなく外界との繋がりもない小娘に、誰もわざわざ興味を持てないのだろう。リアもまた、エヴァのいない世界に関心が向かない。


 その割に、こうして毎日食べ物を腹に入れようとする。やめてしまえばきっと静かに終わるのに、何故そうはせず、怠惰な生を続けているのか。リア自身にもわからなかった。


「リア」


 けれどその日、固いパンを抱えてこそこそ部屋に戻ろうとしたリアに声がかかった。危うく食べ物を取り落としそうになる。


 双子の兄カインに話しかけられたのは、随分久しぶりだった。立ち尽くす妹に、兄はすっと歩み寄ってくる。


「書斎に。話がある」


 手短な説明だった。

 リアは走り出して自室に閉じこもってしまいたかったが、重い足は兄の後を追い、言われたとおりに書斎に向かう。


 カインは書斎に入ると、勝手知ったる様子で進んで行き、主人用の椅子に腰掛けた。半年前までそこはサクソン家当主の特等席だったが、今やすっかりカインの場所らしい。彼がこの部屋の、いやサクソン家の男主人となったことが窺えた。


 カインはリアと同じウェーブがかった茶髪と、エメラルドグリーンの目を持つ。

 幼い頃、双子は見分けがつかないほどよく似ていた。今ではもう男女の差もあるためか、誰も間違えない。


 優等生にしてサクソン家の救世主カイン・ボージャと、情けで家に置かれている引きこもりのアビーリア・ボージャ。双子のどちらに価値があるかは、火を見るより明らかだった。


 そもそもボージャ家自体は平民であり、サクソン家とは親戚関係である。

 双子の母はそんな親戚関係を口実に、度々サクソン家に顔を出しては金を無心した。


 サクソン家当主は当然、お荷物であり汚点である親戚の女を嫌っていたが、優秀な長男カインのことは、前々から気に入っていたようだ。


 誰にとっても都合がいいことに、ある日女は泥酔の末溺死した。するとサクソン家当主は、待ちわびていたように残された双子を引き取った。将来的にカインが家を支えてくれることを期待してのことだったのだろう。彼には専属の教師がつけられたし、あらゆる場所に当主と共に顔を出していた。


 かほど露骨に息子扱いされてもサクソンの名を分け与えられなかったのは、あるいは一人娘の将来の相手として考えられていたのだろうか。

 結局エヴァンジェリンは上級貴族と婚約した上で、失踪した。


 なんであれ、カインはエヴァを失って勢いをなくしたサクソン家を、当主代行としてよく支えている。

 使用人も皆彼が男主人のように振る舞っても文句を言わない、むしろ今までの恩返しとばかりに働く少年に感動し感謝している。

 今やサクソン家にカインは欠かせない。欠けても誰も気にしないリアとは正反対に。


「――リア。ねえ、聞いている?」


 聞いていなかった。

 リアはカインについて書斎に入ったが、俯いて己の足下を見たまま、放心していた。我に返れば、朝食のパンも握りしめたままだったと気がつく。今日は食べられそうにない。

 恐る恐る視線を上げると、当主の椅子の上の兄がエメラルドグリーンの目を向けてくる。


「聖マジェリアス女学院。聞いたことは?」


 人と話すのが久しぶりなせいもあってか、思考が鈍い。何度か反芻してようやく、リアは人里離れた院の存在を思い浮かべる。由緒正しき聖者の終の住処であり、若い娘が嫁入り前に己を研鑽する学び舎でもある場所――確かそんな話だったはず。


 曖昧に頷くと、カインは笑った。


「君に入学してもらうことにした。花嫁修業のために」


 今やサクソン家当主代行である彼なら、家で面倒を見ている娘の行く先とて当然決められよう。

 だがあまりに唐突な話に、リアはついていけなかった。


 我がことと思えず途方に暮れている妹を、兄は黙ったままじっと見つめている。切れ者の兄がそうやって真顔で他人を見ると、随分冷淡な様子に映った。

 ようやく、リアは口を開く。


「……わたし、どこかに嫁ぐの?」

「まさか。建前だよ。――姉さんがそこに行ったって話があるんだ」


 喋りながらきらりとエメラルドグリーンの目が光ったが、リアはもっと反応した。生気のない目に光が宿り、驚きのまま兄に歩み寄る。


「エヴァが? 女学院に行ったら会えるの?」

「だから、さあ……」


 カインはすっと手を伸ばし、近づいたリアの首元をつかみ、引き寄せた。


「――探すんだよ、リア。君が。わかるね?」


 間近で細められた冷酷なエメラルドに、リアはひゅっと息を呑んだ。体が冷え、肌が粟立つ。

 双子の兄は妹の首元をなぞり、重ねて囁く。


「返事は?」

「はい、カイン」

「良い子」


 それで用が済んだのか、今度はリアを突き飛ばす。よろめいてへたりこんだ妹のことをもうカインは顧みず、書斎から外の世界へ出て行った。




 そして手配されるまま向かった女学院で紹介された寮の同室者が、姉を婚約破棄したはずの男、ダニエル・アッカーソンその人だったのである。

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