グロリア
「キ……、キャアアアアアッ!」
グロリアはかん高い悲鳴を上げ、へなへなと床にくずおれた。
こんな時、いつもなら誰かがすぐさまグロリアの華奢な身体を支えてくれる。けれど今、グロリアを支えるどころか、近づこうとする者すらいなかった。遠巻きにする誰もが冷ややかな視線を突き刺してくる。
「しっかり見なさい、グロリア。目を逸らすことは許しません」
母の王太后が厳しく命じるけれど、従えるわけがない。だってグロリアの目の前に並べられたのはむごたらしい遺体で……グロリアがお腹を痛めて産んだ、可愛い息子と娘で……。
「見ろ、グロリア。それがお前の愚かな行動の結果だ」
今度は兄の国王までもが命じる。
母同様、昔からグロリアには厳しい兄だった。父の先王がグロリアばかり可愛がるのでひがんでいるのだろうが、こんなひどい仕打ちを受けるなんて思わなかった。
「……でき、ない……」
ぽろりと大粒の涙がこぼれる。
「できない、できない! できるわけないじゃない!」
淑女のたしなみも忘れ、グロリアは髪を振り乱しながら叫ぶ。
母も兄もひどすぎる。突然王宮の地下室に連れてきたかと思えば、変わり果てた息子と娘の遺体と対面させるなんて悪魔の所業だ。だから父にだってうとまれるのだろう。
「そう。……なら貴方たち、手伝ってあげなさい」
憐憫のかけらもない声で王太后が命じると、控えていた騎士たちがグロリアの両腕をつかみ、強引に立たせた。女の細腕では振りほどけるはずもなく、遺体の安置された寝台に顔を向けさせられてしまう。
「ひっ……」
濃厚な血のにおいに吐きそうになる。けれど冷酷な騎士はグロリアを解放してくれず、とうとう見せつけられてしまった。骨と皮ばかりに痩せこけた娘エリザベスと、喉笛を食い破られて絶命した息子レイモンドの遺体を。
(……本当、だったのね……)
『エリザベスがレイモンドを食い殺した』
ここに連れてこられる前、そう聞かされた時はありえないと思った。エリザベスは侯爵令嬢だ。しかも今は持病を悪化させベッドから出られないのに、どうやって自分より大きく健康な兄を食い殺すのかと。
でもこのにおいは……この遺体は、間違いなく現実だ。
「どうして……」
吐き気をこらえ、グロリアは騎士たちの肩越しに母と兄を睨みつける。
「どうしてレイモンドとエリザベスを助けてくれなかったのですか!? お母様の孫で、お兄様の甥と姪ではありませんか!」
レイモンドは若さゆえにあやまちを犯し、エリザベスは病の身だが、二人がこの国で最も尊い王族であることに変わりはない。
先日は色々と厳しいことを言っていたが、本当に困った時は絶対に助けてくれるはずだとグロリアは信じていた。なぜなら父の先王がそうだったから。
なのに、こんなことになるなんて……!
「グロリア、お前は」
「良い。今さら言ってもせんのないことです」
何かを言おうとした兄を王太后が止めた。いつも冷静沈着な兄なのに、今日は少し様子がおかしい。助けてくれなかったくせに、レイモンドとエリザベスの死が衝撃だったのだろうか。
「……グロリア。レイモンドとエリザベスは貴方の子どもです。二人を守らなければならなかったのは、母親である貴方でしょう」
王太后がじっとグロリアを見つめる。その眼差しがグロリアは幼い頃から苦手だった。何も悪いことをしていないのに、責められているような気持ちにさせられる。
「レイモンドが今日釈放されることも、エリザベスが衰弱しきっていることも貴方は知っていたはず。……なのに何故、貴方は愛人の家に入り浸っていたのですか?」
「愛人なんかじゃないわ!」
グロリアはかっとして反論した。
「キリアンは天賦の才能に恵まれた画家です。今は不遇の暮らしを送っていますが、もう少ししたらこの国に……いえ、大陸中に名をとどろかせる巨匠になるはずですわ!」
キリアンと出会ったのは三年ほど前、仲のよい夫人の慈善パーティーでのことだった。グロリアは招待客として、キリアンは絵を持ち込んだ新進気鋭の画家として。
他にも絵や彫刻などを持ち込んだ芸術家はたくさんいた。けれど息子レイモンドとさほど変わらない歳のキリアンはいかにも紅顔の美少年といった風情で、青年と少年のはざまをたゆたう危うい空気にグロリアはたまらなく惹きつけられたのだ。
才能ある芸術家を支援するのは貴族の義務。画材はおろか、食べるものにすら事欠くありさまだというキリアンを、グロリアは侯爵家所有の小さな別邸に住まわせてやった。
支援を惜しまないグロリアにキリアンも心を開き、グロリアが形ばかりの夫ルーファスに虐げられていると知ると、『僕なら美しい貴方を悲しませたりしないのに』と泣いてくれた。心が重なれば、身体も重なるのは当然の流れだ。
以来グロリアはたびたびキリアンの別邸を訪れ、その頻度はどんどん上がっていった。レイモンドは学院通いだし、エリザベスはお茶会に連れて行くこともできない。
キリアンはグロリアの心の潤いだった。キリアンが慰めてくれれば、グロリアは傷つきやすい繊細な心をどうにか保てるのだ。
だからレイモンドによる『襲撃事件』が起きた時も、グロリアはキリアンに救いを求めた。形ばかりの夫はさっさとグロリアたちを見捨てて逃げ、母の王太后も兄の王も、父の先王も助けてくれなかったのだから仕方がない。
『グロリア様、おかわいそうに……』
事情を聞いたキリアンは、グロリアの心も身体も優しく慰めてくれた。
グロリアを支えてくれるのはキリアンだけだった。レイモンドは王宮に囚われ、エリザベスはグロリアが付いていても快癒するわけではない。だったら留守にしても問題はないはず……だったのに。
『いたぞ、侯爵夫人だ!』
突然踏み込んできた王太后の騎士がグロリアとキリアンを引き剥がし、こんなところに連れてきた。化粧を直すことも、着替えさえも許されず、寝起きのしどけないナイトドレス姿のままだ。とても貴婦人に対する扱いではない。
「……巨匠、ねえ」
王太后が眉をひそめる。
「貴方の言う巨匠とは、このような作品ばかり描く画家のことなのかしら?」
王太后の合図で騎士たちがぞろぞろと入ってくる。彼らが掲げた油絵の繊細なタッチは、馴染んだキリアンのものだ。
けれど、描かれているのは。
「な、……なに、これは……」
全裸で横たわり、なまめかしい眼差しを投げかけてくるグロリア。ドレスを着乱したあられもない姿で何人もの男と絡むグロリア。秘めておくべき場所をみずからさらけだすグロリア。恍惚の表情で男に奉仕するグロリア。
どれもこれも、侯爵夫人ではない。娼婦と表現すべきグロリアの艶姿だった。否定しようにも、キリアンの筆はグロリアの顔を鮮明に描き出している。グロリアを知る者にはごまかしがきかないほどに。
でも、でも。
「誤解です! ……このようなふしだらな真似、身に覚えはありません!」
グロリアが肌を許したのは、亡夫ランドルフを除けばキリアンだけだ。二人以外の男にドレスの下を見せたことはおろか、複数の男と絡むなんて娼婦じみた行為に及んだことがあるわけがない。
「……お前は既婚者なのだぞ。一人でも夫以外の男と関係するなど許されないに決まっているだろう」
兄が額を押さえ、王太后が淡々と告げる。
「貴方の身に覚えがなくとも、これらの絵を見た者は貴方がこのような行為に進んで耽るような女だと思うでしょう。問題はそこなのですよ」
「え……」
「これらは貴方が画家を住まわせていた別邸から押収したものです。描いたのはキリアンとかいうその画家しか考えられません」
ずきん、と胸が痛む。裸婦画は芸術として認められているが、それはあくまで神話や伝説の一幕を切り取った崇高な教養としてだ。残念ながら、これらの絵には見る者の劣情を煽ろうという意図しか感じられない。
「しかもこれらの絵は、キリアンの作品のほんの一部でしかないようです。……すでに何十枚もの貴方の絵が『A夫人の恍惚』シリーズとして好事家に出回っているとか」
「は、……っ?」
A夫人……アスクウィス夫人?
グロリアを知る者なら彼女だとわかってしまうこの絵が、何十枚も?
知らない男たちの手に?
「キ、キリアン、どうして……」
形だけでも夫の存在を許せない。叶うなら奪い去りたいと言ってくれたのに。
「元王族の侯爵夫人の閨事など、誰もが見られるわけではない。……つまり希少性が高く、高く売れるのだ」
「キリアンは貴方の絵を売った金で若い愛人を囲い、あちこち豪遊して歩いているようですよ」
兄と王太后の声が遠くなっていく。騎士たちに立たされていなければ、倒れているかもしれない。
(キリアン、キリアン、どうして?)
「……貴方はいつもそう。自分が一番に愛されていなければ気が済まない。たとえ自分の子どもだって、自分より注目されるのは許せないのでしょう?」
母親そっくりね、と王太后はため息をつく。何を言っているのだろう。グロリアと王太后に似たところなんてひとつもない。グロリアはこんなに冷たい女じゃない。
「ねえグロリア。貴方が誠心誠意ルーファスに感謝し、自分のできる範囲で尽くしていれば、夫婦は無理でも家族にはしてもらえたかもしれない。エリザベスもレイモンドも死なずに済んだかもしれないのよ」
「……?」
「わからないのね。……そう。仕方ないわね」
うつむいた王太后の肩を兄が気遣わしげに支え、騎士たちにうなずいた。身体を拘束していた腕が外され、グロリアは床に倒れ込む。腰から尻にかけて鈍い痛みが走った。
「お母様、お兄様!?」
騎士たちを引き連れ、去っていく母と兄をグロリアは信じられない思いで見つめた。まさか自分を置いていこうというのか?
……血まみれの異様な骸が二体も安置されたこの地下室に?
「待って、……私も連れていって! 腰が痛くて動けないの!」
グロリアは必死に手を伸ばすが、誰も振り返ろうとしない。母や兄の後ろ姿はどんどん遠ざかり、骸のにおいがひたひたと迫ってくる。
(こんなところに取り残されるなんて絶対に嫌!)
「せめて今夜くらい、子どもと向き合って過ごしなさい。それが貴方にできる、最後の……そして唯一の償いよ」
王太后の冷たい声が耳に突き刺さる。
子どもと向き合う? ……向き合うって、欲しがるものを何でも与えて綺麗な服を着せて、ぜいたくな食事をさせて、嫌がることからは遠ざけてあげることではないのか?
だって父の先王はそうやってグロリアを育ててくれた。グロリアはいつも可愛い可愛い『お姫様』で、幸せに成長して幸せな花嫁になれた。前夫ランドルフもグロリアを『お姫様』として大切にしてくれた。
だからグロリアも、父がしてくれたように息子と娘を育てたのだ。特にエリザベスは女の子だから、先天性魔力枯渇症のことなんて教えてはいけないと思った。女の子はみんな『お姫様』で、楽しいことしか考えてはいけないのだから。
いずれエリザベスには特製ポーションを定期的に購入できる裕福な相手があてがわれる。ならば治らない病のことなんて知る必要はない。
(そうじゃ、なかったの?)
「待って、……待って!」
グロリアの呼びかけに誰も振り返らない。
……そして、扉は閉ざされた。