王太后
「……報告は以上でございます」
「そう。……もう良い、下がりなさい」
王太后付きの文官が下がると、王太后ははあっと息を吐き、ソファに座り込んだ。腹心の侍女が紅茶を出してくれる。
蜂蜜で甘味をつけたそれは少しだけ気分を上昇させたが、心の疲労までは癒してくれなかった。はあ、とまたため息が漏れる。
(なんとおぞましい。人が人を喰らうなんて)
数時間前、釈放されたレイモンドに同行したはずの近衛騎士が、真っ青な顔で王宮に駆け込んできた。その一報を受けた時から嫌な予感を覚えた王太后だが、さきほど文官が正式にもたらした報告はあらゆる予想を上回るものだった。
エリザベスが兄レイモンドを食い殺した、というのだから。
『ぎゃああああああっ!』
レイモンドの尋常ではない悲鳴を聞きつけ、廊下に控えていた騎士はエリザベスの部屋に飛び込んだ。騎士の役割はレイモンドがこれ以上愚かな真似をしないよう監視することだが、とても放置してはおけなかったそうだ。
するとエリザベスがレイモンドの喉笛に食らいつき、噴き出る血を無心にすすっているところだった。そばには失神した侍女ジェナが倒れていた。
骨と皮ばかりに痩せ衰えた小さな身体のどこにそんな力があったのか、エリザベスの手はレイモンドが必死に抵抗しても振りほどけず、騎士が背後から渾身の力で引き剥がし、ようやく離れたのである。
しかしレイモンドは首の太い血管を食い破られており、虫の息だった。急きょ医師が呼ばれたものの手の施しようもなく、間もなく息を引き取ってしまった。
その死に顔は驚愕の表情のまま固まっていたそうだ。何故自分が死んだのか、あるいは死んだことすら理解できないまま逝ったのかもしれない。
一方エリザベスは、レイモンドの遺体にしつこく食いつこうとしたため縄で拘束された。それでもしばらく陸に打ちあげられた魚のように跳ねていたが、じょじょにおとなしくなり、三十分ほどでこちらも亡くなったという。
兄妹の遺体は秘密裏に王宮へ運び込まれた。
宮廷魔術師に分析させたところ、エリザベスは先天性魔力枯渇症の悪化により生命力のほとんどを失っており、いつ死んでもおかしくない状態だったそうだ。
そのため精神錯乱に陥り、強い魔力を持つレイモンドの血を求めたのではないか。宮廷魔術師はそう推測した。先天性魔力枯渇症の子が忌避され、生まれてすぐ処分されるのは、遠い昔にエリザベスと同じ凶行に及んだ者がいたからかもしれない。
二人の死の真相は伏せられ、不幸な事故で亡くなったと公表することになるだろう。仮にも王家の血を引く兄妹が、そんなおぞましい死を遂げたなんて知られるわけにはいかない。侍女のジェナをはじめ、屋敷の使用人たちにも箝口令がしかれる。
二十歳にも満たない孫が二人、命を落とした。哀れではあるが、悲しくはない。
そんな王太后の胸のうちを知ったなら、夫の先王は『冷たい女だ』とさげすむだろう。夫は跡継ぎである息子よりも娘のグロリアを溺愛し、猫可愛がりしていたから。同じ愛情を与えるよう王太后にも求め、拒まれると不機嫌をあらわにした。
『あんなに可愛いグロリアを愛せないなんて、お前の心は氷でできているのだろうな』
何度そうなじられたかわからない。でも王太后がグロリアを愛せないのは当然だ。グロリアは王太后ではなく、王太后の異母妹が産んだ娘なのだから。
今では覚えている者も少ないだろう。王太后の母が亡くなって間もなく、父公爵が待ちかねたとばかりに連れてきた愛人とその娘……王太后の異母妹のことを。
グロリアそっくりの異母妹はその愛らしさと素直さで王太后からさまざまなものを奪っていった。父親の愛、母が遺してくれた宝石やドレス、友人……夫まで。
公爵令嬢だった王太后は、生まれてすぐ先王の婚約者に指名され、王妃になるため厳しい教育を受けてきた。令嬢のかがみと謳われる王太后すら何度も音を上げそうになった教育は、王妃となり、次期国王となる優秀な息子を産んだことで報われたはずだったのだ。
けれど尽くして支えた先王は王宮へ遊びにきた異母妹に一目惚れし、関係を持ったばかりか、婚約者のいる異母妹を妊娠させてしまったのだ。
その時、王太后もまた息子の妹か弟になる第二子を妊娠していた。だが何でも奪ってきた異母妹に夫まで奪われた衝撃と精神的苦痛によるものか、王太后の子は生まれることなく流れてしまった。
異母妹が娘を産んですぐ死んだと聞いた時は、正直すっとしたものだ。しかし我が子を失い悲嘆にくれる王太后に、夫はとんでもない提案をしてきた。
『異母妹の産んだ子を、お前の子として育てないか?』
流れた子と異母妹の娘を入れ替えようというのだ。ただの愛人にすぎない異母妹の娘は、今のままでは王族とは認められない。だが王太后の娘になれば、王女の身分と何不自由ない暮らしが保証される。
認められるわけがなかった。だが最終的に受け入れたのは、先王が『これから先、政務は全面的に王太后に任せる。一切の口出しをしない』という条件を呑んだからだ。もとより先王は政務のほとんどを王太后や側近に丸投げし、女や趣味にばかり没頭していたので、事実の追認としか思わなかったのだろうが。
容姿も性格も異母妹そっくりに成長していくグロリアに、先王は夢中になった。蝶よ花よと甘やかされ、グロリアは異母妹と同じ、頭の中まで砂糖菓子が詰まったような娘に成長した。
一方で王太后は息子を王に相応しく育て上げた。夫が口出ししてこないのはむしろ幸いだったかもしれない。夫の愛情は子どもを駄目にするばかりだから。
息子は王太后の知性と気質を受け継ぎ、父親を疎むようになっていった。それが決定的な軽蔑に変わったのは、グロリアの出生の秘密を明かした時だろう。
妻の異母妹に手をつけ、孕ませたばかりか、流産に悲しむ妻に不義の子を我が子と扱えと迫る。あまりに非道な父親を、息子は時折化け物でも見るような目で見ていた。……夫はまるで気づかなかったが。
王太后は息子を成人と同時に即位させ、夫を離宮へ追いやった。王になるには若すぎる息子だが、どのみち夫は政務から遠ざかって久しく、王太后が実質上の王だったのだ。臣下は誰も反対しなかった。
そこでようやく夫は自分がお飾りでしかなかったことに気づいたようだ。少しでも自分の影響力を及ぼすためか、娘にさらなる栄誉を与えたかったのか、振興著しいアンブロシア王国の王子にグロリアを嫁がせたいと言い出した。
ろくな教養も資質もない砂糖菓子娘を嫁がせ、国の恥をさらすわけにはいかない。王太后は息子と相談し、グロリアをアスクウィス家に降嫁させた。
侯爵家なら王女が降嫁してもぎりぎりおかしくない家格だ。アスクウィス家ほどの歴史ある名家であれば使用人も粒ぞろい、ろくに奥の差配もできない女主人が嫁いできても家を回してくれる。アスクウィス家にも王家の血を与えたと恩を売れる。何より当主ランドルフがグロリアに思いを寄せていた。惚れた弱みで、グロリアが多少やらかしても喜んで尻拭いをしてくれる。
いいことずくめだと、やっと肩の荷が降りたと、息子と二人で喜んでいたのに。
まさかグロリアが、先天性魔力枯渇症の娘を産むなんて。
王太后と息子は処分するべきだと主張したが、グロリアは絶対に死なせないと言い張って聞かなかった。それにランドルフと夫までもが加わり、エリザベスは生かされた。……生かされてしまった。
今でも後悔している。あの時暗殺者を放ってでもエリザベスを殺しておけば、ランドルフは死なずに済んだだろう。いや、そもそも異母妹が妊娠した時点で『病死』させておけば、問題は何も起こらなかった。自分の人生を満喫していたルーファスが担ぎ出されることも。
ルーファスにはすまないことをしてしまったと思っている。だから侯爵家の当主を引き受けるにつき、王太后は全面的にルーファスの味方になった。何故そこまでと、ルーファスがいぶかしむくらいに。
事情を打ち明けたら、『ご苦労されたのですね……』と同情されたっけ。立場も年代も性別も違うのに、やけに通じ合うものを感じたのは、望まぬ地位を押しつけられた者同士だからか。
ルーファスとはこれからもうまくやっていけると思っている。
だから……今度こそ失敗は許されない。
「王太后様」
使いに出していた侍女が戻り、そっと耳打ちする。
「グロリア様が、見つかったそうでございます」
アンブロシア王国の王子はエリオットではありません。